ピリピ3:20ーけれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。
この世的な国籍が『日本』であれば、ほとんどの日本人は『日本語』を話しますよね?
日本人信者は、霊的な国籍 を『天』に持つ者です。
十二使徒のひとりであり、福音書、手紙、黙示録を記したヨハネは、次のように記しています。
ヨハネ1:1~2ー初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
この方は、初めに神とともにおられた。
ヨハネ1:14ーことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光をを見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
『天』に国籍を持つ者(信者)ならば、当然『天のことば』を話す者であり、この『ことば』とは『神のことば』であり、『ことばが人となって来られた、神の御子イエス・キリストの教え 』=『聖書のみことば』です。
クリスチャンがみことばを伝えなければ、誰が伝えるのでしょうか?
パウロは愛弟子テモテに次のように命じています。
Ⅱテモテ2:15ーあなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。
Ⅱテモテ4:2ーみことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
なぜ、パウロがテモテに宛てたこの手紙が新約聖書に収められているのか考えたことがありますか?
パウロがテモテにだけ命じているのであれば、聖書には収められなかったはずです。
キリストは当時の弟子(使徒となった十一人)に対し、
マタイ28:20aーまた、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。
と命じられました。
つまり、パウロは異邦人の使徒ーガラテヤ1:1, 2:8ーですから 、パウロ書簡の命令は『キリストの命令』だからです 。
ですから、私たちも異邦人信者テモテのように『真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげる』べきであり、『みことばを宣べ伝える』ように、キリスト・イエスによって命じられているのです。
時々求道中の方から、「 よくクリスチャンの方は『愛する父なる神様』とか『信じて祈ります』とか言われますが、私は『キリストを信じる』とか『神を愛する』とかの意味がよくわからなくて…」と言われます。
私たちクリスチャンは、このような質問にちゃんと答えられているでしょうか?
ある方は「キリストを愛するとは、いつもキリストを覚えていることです。」「神様はあなたを愛しておられるのですよ。その愛に気づいたとき、愛してくださる神様を愛するのは当然です。」と説き、またある方は「キリストを信じれば、救われるんですよ。」と説きます。
どれも答えた方個人の意見であり、みことばの伴わない漠然とした答えになっていることにお気づきでしょうか?
クリスチャンと未信者との違いは、『キリストを信じて、みことばに従って生きる者』か『みことばを知らずに、自分の思いに従って生きる者』かです。
自分を『クリスチャン』だとするのなら、みことばを出して答えるべきであり、自分のことば だけに頼らないほうがいいですね。
『キリストを信じる』とは、どういうことでしょうか?
キリストの何を信じれば救われ、クリスチャンになれるのでしょうか?
信じてクリスチャンとなった人々は、信じた後 何をすべきなのでしょうか?
『神の友』と呼ばれたアブラハムが義とみなされたのは、愛の行いをしたからでしょうか?聖書は何と記しているでしょう?
ヤコブ2:23ーそして、アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。
アブラハムが『義』と認められたのはこの時ですが、
創世記15:5~6ーそして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」
彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。
アブラハムが信じたのは「あなたの子孫はこのようになる。」という『神のことば』です。
小さな子どもに出張に行くお父さんが「パパはお仕事に行ってくるから、ママの言う事をよく聞いて良い子にしてるんだよ。帰りにお土産買って来るからね。」というのはよくある光景ですが、この時、子どもは父親の『何を信じる』のでしょう?
父親の顔や声でも、スーツの色やデザインでも、頭を撫でてくれたことでもなく、父親が言った『ことば』を信じたのです。
同じように、神を信じるとは、神のことばである聖書に書かれた内容を信じることです。
その書かれたことの一つが 『キリストの福音』であり、 それをそのまま神を無視して生きてきた自分の罪のためだったと、受け入れ、信じ た時が救いを得た時となるのです。
では、神様の目的は『人類の救済』でしょうか?
答えは『いいえ』です。
『人類の救済』は、神様のご計画の一つではありますが、目的は神の民となった者が『神様ご自身の栄光をあらわすこと』だと聖書は述べています。
イザヤ43:7ーわたしの名で呼ばれるすべての者は、
わたしの栄光のために、わたしがこれを創造 し、
これを形造り、これを造った。
イザヤ43:21ーわたしのために造ったこの民は
わたしの栄誉を宣べ伝えよう。
キリストの福音を信じて『神の民』となった者は、自分がどこから救われ、どこに行くのかを知る必要があります。
それにより 、「救われたからそれで良い」という考え方から脱却し、救い主なる神に対する感謝と神様の目的のために働く者へと変えられます。
ヨハネ15:13~14ー人がその友 のためにいのちを捨てるという、これよりも 大きな愛はだれも持っていません。
わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行うなら、あなたがたはわたしの友です。
十字架で身代わりとなって死んでくださるほど、私たちを愛してくださいました。
イエス様が先に『友』としての愛を示されたのです。
今度は、 神の恵みにより信仰によって救われた私たちが『イエス様の友』としての愛を示す番です。
『キリストの命じることを行うこと』が、アブラハムのように『神の友』とされた応答ですね。
福音書の中でもイエス様は『神を愛する』とは、どういうことかをはっきりと教えられています。
ヨハネ14:21ーわたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。
わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現します。
ヨハネ14:23ーイエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
*わたしの戒めを保ち、それを守る/わたしのことばを守る…『イエスのことば』とは、聖書のみことばのことです。
みことばを軽んじる人は、イエス様の戒めが何かを知ることもできないし、知らないことは守れません。みことばを蔑ろにしながら、いくら熱心に祈っても、それは自分の願い事を並べるだけで、神のみことばに対する応答や御心に沿った祈りにはなりません。
イエス様の戒めを保ち、守るには、みことばを読むだけではなく 、理解することが必要です。
ネヘミヤ8:8ー彼らが律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。
牧会書簡といわれる テモテ書の中で、パウロは愛弟子テモテに指導者としての命令を出しています。
Ⅱテモテ2:15ーあなたは熟連したもの、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。
Ⅱテモテ4:2ーみことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
*時が良くても悪くてもしっかりやりなさい…緊急性をもって、正確に神のみことばを伝えなさい、の意。
罪の誘惑に打ち勝つために、また人に伝道するためには、聖書のみことばは必要不可欠です。
詩篇119:11ーあなたに罪を犯さないため、
私は、あなたのみことばを心にたくわえました。
私たちはどうでしょう?
みことばを学び、理解し、心に蓄えているでしょうか?
イエス様の戒めを保ち、守り、行なっているでしょうか?
それにより神様の栄光をあらわしているでしょうか?
Ⅱテモテ3:16ー聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
みことばを正しく学ぶことにより、何が善で、何が罪か、聖書が教える『愛』とは何かを判別する力が付きます。
『愛』と『一致』の名のもとに、全てを受け入れることではありません。
十二使徒の一人であるヨハネは、異端的教えがはびこる中で次のように命じています。
Ⅱヨハネ6~11ー愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。
なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。
よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。
だれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神の愛を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。
あなたがたのところに来る人で、この教えを持って来ない者は、家に受け入れてはいけません。その人にあいさつのことばをかけてもいけません。
そういう人にあいさつすれば、その悪い行いをともにすることになります。
神の子どもとして相応しく、みことばによって善悪を認識し、信仰の歩みをしていけますように。