『黄金律』ということばを聞いたことはありますか?
『黄金律』と言われるキリストがまとめた律法は、今でも有効だと考える人が多いと思いますが、文脈をよく見ると、ひとりの律法の専門家が『イエスをためそうとして、尋ねた』とあります。
この時はまだ、キリストの十字架前のモーセの律法が有効であった旧約時代の出来事です。
旧約時代のモーセの律法が与えられていたユダヤ人たちにとって、「律法の中で、大切な戒めはどれか?」というのが質問なのです。
なにしろ、モーセの律法は『613』もあり、この質問に対するイエスの律法の理解がどの程度のものなのかがわかるわけです。
マタイ22:34~40ーしかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。
そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。
「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」
そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
律法の専門家に質問に対するイエスの答えが、大文字になっている部分です。
第二の戒めは、レビ記19:18bーあなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。ーからの引用であり、隣人との関係はこの戒めを守ることにより、正常に保てるものです。
お気づきでしょうか?
第一の戒めも、第二の戒めも、ともに【主】となっており、『契約の神』=(御父)を意味していることを!
そして、古い『モーセ契約=613からなる律法』は、キリストの十字架によって無効となりました。
そのことは、私たちの大祭司がモーセの律法に基づく大祭司ではなく、新しい律法に基づく大祭司であり、地上の幕屋(神殿)ではなく、天にある幕屋で仕えておられることからもわかります。
しかし、私たちの大祭司はレビ族ではなく、王を排出するユダ族のダビデの家系です。そのため、地上で祭司として神殿に入られたことは一度もありません。
ヘブル7:12~13ー祭司職が変われば、律法も必ず変わらなければなりませんが、
私たちが今まで論じて来たその方は、祭壇に仕える者を出したことのない別の部族に属しておられるのです。
モーセの律法が有効となるには、血が必要でした。
ヘブル9:18~22ーしたがって、初めの契約も血なしに成立したのではありません。
モーセは、律法に従ってすべての戒めを民全体に語って後、水と赤い色の羊の毛とヒソプとのほかに、子牛とやぎの血を取って、契約の書自体にも民の全体にも注ぎかけ、
「これは神があなたがたに対して立てられた契約の血である」と言いました。
また彼は、幕屋と礼拝のすべての器具にも同様に血を注ぎかけました。
それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。
同じように、新しい契約が有効になったのは、キリストが十字架で流された『神の小羊』の尊い血によってでした。
マタイ26:27〜8ーまた杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい 。
これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。
では、キリストが与えた『キリストの律法』と言われるものを見てみましょう。
ヨハネ13:34~35ーあなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。
*新しい戒め…モーセの律法とは別な『新しい戒め』です。これが祭司職が変わったために、律法も変わったことを示すものです。
*互いに愛し合いなさい…『黄金律』の第二の戒めに相当するものですが、一番の違いは『わたしがあなたがたを愛したように』というお手本があることです。
ヨハネ15:12ーわたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。
*わたしがあなたがたを愛したように…ここでもお手本は『イエス様』です。
ヨハネ15:17ーあなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。
*わたしのことばを守る…これが『黄金律』の第一の戒めに相当する『神を愛する』ということです。
祈ること、伝道すること、賛美すること、感謝することなどももちろんキリストの命令ではありますが、キリストのことばはそれらだけではありませんから、日々聖書を読み、字義通り、文脈に沿って、時系列を考えながら、私的解釈を加えずに、みことばをみことばで確認しながら理解し、心の中の御霊が内住される『霊』の部分に蓄え、事あるごとに思い出されるみことばを素直に受け入れ、実行することです。
多くのクリスチャンの聖書理解は、点と点であり、その時々の自分の状況に合わせて適用する読み方をしていると思います。そのため、なかなかみことばとみことばが繋がらず、神中心で聖書を読むということがよくわからないかもしれません。
神様は秩序正しいお方ですから、『自分』という色眼鏡を外し、
①だれが、
②いつ、
③誰に対して、
④どのような状況の中で、
⑤どのような律法的背景の中で、話したことなのかを考え、小説を読む時のように素直に読んでみてください。
きっと今までとは違う発見があると思います。