サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

復活のからだ

「復活のからだ」って、本当にあるの? あるとしたらどんなからだ? 今のからだと何が違うの? そんな疑問に聖書からの答えがありますよ。おまけにエホバの証人の矛盾点の少しだけお裾分け…

 

さて…イエスさまはどのようなからだで復活されたのでしょうか?「疑いのトマス」と呼ばれるトマスに現われた時の様子から見てみましょう。あ☆ちなみにトマスの別名は「デドモ=双子という意味」です。この名からたぶん彼は双子の一人だったと思われます。

 

ヨハネ20:19~29を見て下さい。この箇所から分かることは、復活の主に会った人々は、主イエスだと認識できたということ。それは、十字架刑による傷が残っていたということです。

 

 

ヨハネ20:19ー週の初めの日の夕方…つまり、主が復活された日の夕方です。弟子たちはユダヤ人を恐れて、戸をしめ身を潜めていました。そのような密閉された部屋に、主が入って来られたのです…物質的な制限を超えて…

 

 

それは誰だって急に現われたらビックリしますよね?! そのためでもあるのかな…? 主の第一声は「平安があなたがたにあるように」でした。でも本当は、ユダヤ人たちを恐れている弟子たちの心に、恐れの代わりに主にある平安をお与えになったのです。

 

 

ヨハネ20:20ーそしてエスはその手とわき腹を彼らに示されました。間違いなく十字架刑で死んで、よみがえったという証拠を示されたのです。だから、弟子たちは「主を見て」信じたのです。彼らは、復活の主の目撃者です!アーメン。

 

 

ヨハネ20:21ーイエスは再度「平安があなたがたにあるように」と言われました。これは将来に対して言われたように私は思います。なぜなら「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」と言われているからです。

 

 

エスの公生涯は「人の子には枕する所もない」ーマタイ8:20ーほど大変だったのです。弟子たちも伝道の働きを始めると迫害にあいました。余談ですが、12使徒の中で最初に殉教したのは、ヨハネの兄弟ヤコブです使徒12:1~2ヤコブの手紙の著者は、主イエスの兄弟ですマタイ14:55

 

 

ヨハネ20:22彼らに息を吹きかけて「息」ーヘブル語:「ネフェシュ」cf 創世記2:7「ネフェシュ」は「御霊」とも訳されていますーcf 詩篇104:30。これらを念頭に置いて読むと、エスが「聖霊を受けなさい」と言われた意味が理解できますよね。

 

 

これはイエスの約束でもありました。ヨハネ14:16ーわたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

 

 

ヨハネ14:26~27しかし、助け主、すなわち父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます…

 

 

エスが与えてくださる平安は、世が与えるのとは違うとはっきりと言われました。クリスチャンであっても人間です。神を信じていない人と同じように動揺もすれば、落ち込みもします。でも、どんな困難にあっても、心の奥底に「主が共にいてくださる」という安心感にも似た平安があるのです。

 

 

キリスト教の信仰を持つというのは、この世のご利益宗教とは違います。信仰を持ってからでも試練はやってきます。困難もあります。それどころか、迫害だってされるかもしれません。でもどんな状況になっても、ともに戦ってくださる主イエスがおられるのですーヨハネ14:18。インマヌエル。アーメン

 

 

ヨハネ20:23ーこれはイエスに遣わされる使徒たちが御霊の力によって宣べ伝える福音を聞いた者が、ペテロの信仰告白と同じ告白をすることになります。また聞いても信じない者は、心を頑なにしたままだということです。cf マタイ16:16~19

 

 

ヨハネ20:24ーデドモ…「双子」という意味です。トマスはこう呼ばれていることから、彼は双子のひとりだったと思われます。その彼が週の初めの日の夕方、他の弟子たちとは行動を別にしていたため、復活の主に会えなかったのです。

 

 

ヨハネ20:25復活の主に会った弟子たちは、「事実を」証言しました。ユダヤ教では二人以上の証人がいれば、その証言は有効のはずでしたー申命記19:15ヨハネ8:17。しかし、トマスは10人の証言をもってしても認めなかったのです。

 

 

トマスは「私はその手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と心を頑なにしています。「復活を信じないなんて、もしかしてサドカイ派の影響でも受けてるの?」と訊きたくなってしまいますよね^^;;

 

 

ヨハネ20:26ー八日後…つまり、一週間後の週の初めの日(日曜日)。今度はトマスを含む弟子たち全員が一部屋にいて、戸は鍵がかけられていました。そこへ再び、主が現われたのです。そして同じように「平安があなたがたにあるように」と言われました。3度めの言葉です。

 

 

ヨハネ20:27トマスが心を頑なにして言った時、イエスはその場におられませんでした。しかし、ここでイエスはトマスに「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われました。

 

 

トマスが言ったことをそのまま「しなさい」と示されたのです。これは「偶然」なんかではありません。イエスは神(の子)なので、私たちの言動を100%ご存知なのです。神の前で隠し通せるものは何一つないのです。

 

 

そのうえで、大事なメッセージを語っておられます。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。これはまた、まだ信仰告白をしていない人全員に向かって言っていることでもあります。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と。

 

 

なぜなら「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためであるヨハネ3:16ーだからです。

 

 

さあ…トマスは実際にイエスの手の釘の跡に指を差し入れたでしょうか?わきにその手を差し入れたでしょうか?

 

 

ヨハネ20:28ートマスは「私の主。私の神」と答えています。

 

 

トマスが言った「私(トマス)の神」とは、誰のことでしょう?エホバの証人は「神はエホバお一人です。イエスは神の子ですが“神”ではありません」と、訳の分からないことを言います。トマスはイエスの弟子で、イエスが宣べ伝えたのは「エホバの名」だとするのなら、ここの「神」は当然エホバです。

 

 

しかし、そうだとするのなら、トマスはここでイエスに向かって「私のエホバ」と告白したことになります。しかし、イエスはそのトマスの告白を認めておられます。つまり、キリストがトマスの「神」であり、「エホバ」ご自身だということになります。

 

3年半の間、イエスの公生涯を共にしたトマスの信仰告白をイエスはそのまま受け入れられたのです。なぜなら、イエスご自身が「私(たち)の主」であり「私(たち)の神」だからです。アーメン。

 

 

ヨハネ20:29ートマスが復活のイエスのからだに触ったか否かの答えは、ここにあります。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです」

 

 

主はトマスに対し、「手を差し入れなさい」と言われましたが、ここでは「わたしを見たから信じたのですか」と言われています。ということは、トマスは触らずに「見て」信じたのです!もちろんその背後には、一週間前の自分の発言を言い当てられていることもありますね。

 

 

「見ずに信じるものは幸いです」と言われた「見ずに信じる者」とは誰でしょう?ただここでトマスを戒めるだけに言われたのではありません。

 

 

「見ずに信じる者」とは、イエスの復活の証人たちの話しを聞いて信じる者たちのことです。もちろんその中には、「今」を生きる私たちも含まれます。聖書的には二人か三人の証言で有効でした。キリストの復活には500人以上の証人がいるのです1コリント15:3~6。

 

 

まだ疑いますか?「見ずに信じる者は幸いです」

 

 

ヨハネ20:31【聖書が書かれた目的】しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの名によっていのちを得るためである」 アーメン。栄光在主。

 

 

主の復活のからだの特徴はほかにもあります。ルカ24:33b~43。ここから分かることは、肉や骨を持っているということと、食事をされたということです。

 

 

ルカ24:33bーエマオへ向かう途中で主に出会い、エルサレムまで引き返して来たふたりの弟子は、11使徒たちが集まっている所に合流しました。

 

 

ルカ24:34シモン(ペテロ)に復活の主が姿を現わされたという記述は、ここと第一コリント15:5だけなので詳細は不明です。この時点ではまだ、ほかの10使徒たちには現われてはいませんでした。

 

 

シモンとは親が付けた名前で、ペテロとは主が付けられた名前です。ここで使徒たちは彼のことを元の名:シモンと呼んでいることから、元の生活に戻ろうとしたエマオへ向かう二人の弟子同様の心情が伺えます。

 

 

ルカ24:35ー合流したふたりの弟子たちも復活の主に会ったと証しをしました。(詳細は後ほど…)

 

 

ルカ24:36ー密閉されていたかどうかは分かりませんが、「主が部屋に入って来られた」とは書かれていません。使徒たちが話しておられるところに突然、主が真ん中に立たれたのです。

 

 

ルカ24:37ー彼らは驚き恐れて…そりゃあ、誰だって腰を抜かすほど驚きますわね。恐れもするってものです。 霊を見ているのだと思った…そう「思い込んだ」という意味です。

 

 

ルカ24:38ー我らの主イエスは、どんな時も冷静です。パニックを起こした使徒たちとは対照的に、落ち着いて主は問いかけられました。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。」

 

 

大きな祈りがきかれて「え〜〜〜?! マジィ〜〜!!」と、ビックリしたことはありませんか? そんな時、主は「なぜ取り乱しているのですか?あなたは祈ってたではありませんか」と言われます。

 

 

未信者からの言葉に「あれ?! これって本当かな?」と自分の信仰に確信を失いそうになったことはありませんか? そんな時、主は「どうして心に疑いを起こすのですか?神にとって不可能はないと教えたではありませんか」と言われるのです。私たちの信じる神は、全知全能なる神です。アーメン。

 

 

ルカ24:39ーイエスは言われました。「わたしの手や足を見なさい」…そこには十字架の釘の跡があります。「まさしくわたしです」 「わたしにさわって、よく見なさい」…天の幕屋の清めを終えられ、大祭司となられたのでさわってもよくなられたのです。 

 

 

「霊ならこんな肉や骨はありません」…1)神の小羊として来られた初臨の主は、人として来られました。神の御子としてだけならば、死ぬことはないからです。また、人としてだけならば、誰かひとりのためにしか身代わりにはなれません。(十字架はバラバの身代わりでしたーマタイ27:15~24

 

 

エスは全人類のために100%神として、また神の小羊として死ぬことができるように100%人として、十字架につかれたのです。cf ヘブル2:14aーそこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。

 

 

2)第一コリント15:50ー兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。  人として来られた主は、私たちと同じく「血と肉」を持っていましたが、復活の主は「肉や骨」を持たれていました。

 

 

では、主の「血」はどこへ行ったのでしょう? ヨハネ19:34ーしかし、兵士のうちのひとりがイエスのわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来た。 

 

 

cf ヨハネ4:14ーしかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、けっして渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。

 

 

cf ヘブル9:12ーまた、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。 ヘブル9:22bーまた、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。

 

 

エスは神の小羊として、私たちの罪の贖いのために十字架の上で、血を注ぎ出してくださいました。そしてその血を携えて、まことの聖所を清められたのです。

 

 

3)第一コリント15:44ー血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。 イエスは復活の「初穂」となられました。次に続く者があるから「初穂」なのです。私たちもいずれ主と同じ復活のからだになります。

 

 

ルカ24:41ー十字架の傷跡を示され「さわって、よく見なさい」と言われても、使徒たちは、「うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がって」いました。復活が霊的(幽霊)ではなく、実態のある事実だということを示されるために「ここに何か食べ物はありますか」と訊かれ

 

 

ルカ24:42使徒たちは、焼いた魚を一切れ差し上げました。

 

ルカ24:43ーイエス使徒たちが見ている前で、それを取って召し上がりました。  神の御子がへりくだって人として来られーピリピ2:6~8、復活後も私たち人間が分かるように、ご自身を示されました。主はどこまでも謙遜であられます。私たちは、その主に従っていくのです。アーメン。

 

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