サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

救いの原理 〜霊・たましい・からだ〜

霊的に死んだ状態で生まれてくる人間が、いかにして神との関係を回復し、永遠のいのちを得ることができるのか…?「聞く耳のある人は、聞きなさい。」

 

イエス・キリストの来臨のとき、責められるところのないように、あなたがたの霊、たましい、からだが完全に守られますように第一テサロニケ5:23b。

 

 

霊・たましい・からだー人間の全存在性を表します。

三十丸を思い描いてください。

一番内側の◯の中が「霊」、「霊」ー神さまと

真ん中が「たましい」、「たましい」ー自分自身と

一番外側が「からだ」、「からだ」ー他者・社会(世)と交わる部分

 

 

あ☆「交わる」というのは、教会用語でしたね…一般的には会話する、交流を持つ、と言った方が分かりやすいと思います。

信仰生活が長くなると、どうしても普通の会話に教会専門用語なるものが出てしまう…クリスチャンは気をつけないといけませんね。

 

 

詩篇84:2「たましい」「心」「身」と表記

普段私たちが「心」と呼んでいるのは「たましい」から内側を指します。(何しようかな?)(あれ 欲しいな)(こうなったらいいのに)などー自分の思い、願いはたましいから出て来ます

 

それに対し、(ダメだよ)(やめときなよ)(勇気を出してやった方がいいよ)など、自分の思いとは真逆の声が心の中で聞こえ、その声の方が正しいという経験ってありますよね!?

あれは「霊」ー神さまからの声です。良心の呵責も「霊」の部分です。

 

 

自分の中に二つの異なる声が聞こえる時、戦いがある時、自己中心の「たましい」が神中心の「霊」と戦っているのです。

「たましい」が勝てば自己嫌悪、良心の呵責である「霊」が勝てば喜びが来ます。

 

 

この二つの声は、自分の内側での出来事なので、普段「心」という時は、たましいから内側ー「霊魂」を指します。

 

 

それに対し「からだ」は行動が伴ったり、目に見える部分なので、すぐに他者の目にもふれます。

 

 

ブランド品、貴金属、立派な家、名誉、富、知名度など外側から幸福を求め、たましいもまたそれらを喜びますが、決して満たされることはありません。常に(もっともっと)と上を目指したがります。なぜでしょう?一番内側の「霊」の部分が空っぽだからです。

 

 

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなったー創世記2:7。 「いのちの息」はヘブル語で「ネフェシュ」=「御霊」(詩104:30)を意味します。

 

 

つまり、地のちりから造られた人間のからだに、神の霊(聖霊)が吹き込まれてはじめて「人は生きものとなった」のです。

しかし、エデンの園で善悪の知識の木の実を食べた「そのとき」、一番内側の「霊」の部分が死んでしまいました。

 

 

善悪を自分で決める(=基準は自己中心)ようになった人間は、神が決めた基準(=神中心、善)を必要としなくなりました。だから、アダムとエバは神から隠れるようになり、その二人が楽園を追放された後に生まれたカインやセツが人類の祖先です。

 

 

だから聖書はこういっています。 生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです1コリ2:14

 

 

神さまに造られた人間が、神の基準に従わなくなったことをギリシャ語で「ハマルティア(的外れ)」=「罪」と言っています。新約聖書「罪」ということばは、常に単数形で書かれている理由はここにあります。私たちが思う一つ一つの罪は、的外れの結果です

 

 

では、どうしたら「霊」の部分を再び満たすことができるのでしょうか?  

 

 

肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊ですヨハネ3:6。 

 

 

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」ーヨハネ3:3。

 

 

「新しく生まれる」とは主イエスを救い主として信じることです。それは御霊なる神の働きですー1コリ12:3信じた者の「霊」の部分に再び「いのちの息」が吹き込まれるのですーヨハネ14:17

 

 

エデンの園で霊の部分が死んでしまった人間は、園から追放され、いのちの木の実を食べることが出来なくなり、肉体にも「死」が入りました。しかし、肉体が生きている間に救い主なるイエスを信じることにより、霊が生かされるようになるのです。

 

 

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちなのですヨハネ6:63

イエスを信じるとは、イエスのことばを信じることです。

 

 

聖書を読まないクリスチャンは、霊的成長が遅くなります。イエスの愛、教えを理解せずにどのように神の栄光を現すことができるでしょう?それでは自己中心・自己解釈ークリスチャンはこうあらねばならないーという律法主義に陥ってしまいます。

 

 

からだの目でみことばを読み「霊」の部分で理解し、蓄えることが必要です。

ですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植え付けられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができますヤコブ1:21。

 

 

「霊」の部分に蓄えたみことばは、何か事ある度に内側から思い出されてきます。その時、自己中心である「たましい」の部分がみことばに同意することが、求められています。

 

 

そして、社会と交流する「からだ」が行動に移すことが求められているのです。

また、みことばを実行する人になりなさい。じぶんを欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけませんーヤコブ1:22

みことばをすなおに受け入れなさいヤコブ1:21

 

 

①外側から入ってきたみことばを「霊」に蓄え

②「霊」から出て来るみことばを「たましい」が同意し

③「からだ」が行動する。

これが神の栄光を現わすことです!

*身体の「目」を通して読んだみことばを、三十丸の一番内側の「霊」の部分に蓄え、真ん中の「たましい」の部分が同意し、外側の「からだ」が社会に対してみことばを実行するという、内側から外へ外へとみことばが働いて行くのです。

この方向性が他の宗教との違いです。 肉体の苦行・修行によって悟りを得ようとしたり、良い行ないによって救いを得ようとするのではないのです。心の内側の変化が行ないとなって現れるのです。みことばに従った時、それが神さまがあらかじめ備えてくださった「良い行ない」なのです。cf エペソ2:10

 

みことばから離れていては、自分の栄光しか現すことしかできません。私たちは「栄光在主」であるべきです

 

 

パウロですら“私のからだの中には異なった律法があって、それが私のこころの律法に対して戦いをいどみ、私をからだの中にある罪の律法のとりこにしているのを見いだすのです”ーローマ7:23

肉にある古い性質と御霊にある新しい性質の戦いを述べてます。

cf http://togetter.com/li/482640  “キリスト者の「二つの性質」と「三つの救いの段階」” 

 

日々、神に従って生きるのか、自分中心に生きるのかの選択なのです。正しい選択ができるように、祈りが必要になってくるのです。御霊の助けなしにイエスに従うことはできないからです。だから、クリスチャンは日々聖書を読み、祈るのです(-人-)

 

 

教会の中でも教会の外でも、信者を通して神さまが働き、ご自身の栄光を現されることはあります。でも、信者を通して神様を探しても見つかりません。本当に神さまを求めるなら、イエスさまを通してでしか出会えないのです。

 

まだ 聖書の神を信じていない人にとっては、「今日」という日が、神様との出会いの日となり、「神の子」となりますように。

既に 神を信じている人は、みことばを読み、実行する人となりますように。神の栄光を表わす器として、尊く用いられますように。

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