サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

律法と献金

私たちは今 どの律法に従うべきなのでしょう?献金の目安は…?

エスと出会い、信仰を持った主にある兄弟姉妹が、律法や献金でつまずくことがありませんように…願ってやみません。主イエスの導きと守りがありますように。

 

 私たちが信じる聖書の神さまは「契約の神様」です。

悲しいかな、日本にはあまり「契約」という概念がありません。せいぜい「公約」どまりですが、その「公約」さえ守られないのが現実です。

 

 *聖書には全部で八つの契約があります。

「契約」というのは、守らねばならない「責任」を伴うもので、契約違反をしようものなら、訴えられたり、信用を失い、人格までも傷をつけてしまうほどの重い意味を持つものです。だから、その契約を結ばれる神さまが、契約を破棄されるということは絶対にあり得ないのです。

 

聖書は大きく二つ「旧約聖書」と「新約聖書」に分けられています。その名の如く「旧約」は「古い契約」(約束ではありません)と「新しい契約」です。

 

その「新しい律法」は「モーセの律法」に対して「新しい」と言われるのです。

だから「旧約聖書」の「古い契約」のベースにあるのが「モーセの律法」(全部で613)であり、「新約聖書」の「新しい契約」のベースにあるのが『キリストの律法』であり、その多くは使徒たちが書簡の中で伝えています。

 

『新しい契約』は、新約聖書で御子イエスとクリスチャンの間で結ばれたのではなく、旧約聖書で御父とイスラエルのふたつの家との間で結ばれたものです。

エレミヤ書31:31ー見よ。その日が来る。ー主の御告げ。ーその日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに新しい契約を結ぶ。

 

 

 

その契約が、新約になって御子イエス・キリストの十字架において成就したということです。
cf エペソ2章 http://osusowake.hatenablog.com/entry/2014/06/10/223054

 

ガラテヤ3:20ー『仲介者』は、どちらか一方だけに属する者ではありません。
だから御父(100%神)は、ひとり子(100%神であり、100%人である)を、神と人、ユダヤ人と異邦人の『仲介者』として送ってくださったのです。


そして忘れてはならないのが、このみことばです。
ヨハネ10:30ーわたしと父とは一つです。
*私たちが信じる神様は『三位一体』だということです。

 

箴言19:2ー熱心だけで知識のないのはよくない。

急ぎ足の者はつまずく。  

 

ローマ10:2~3ー私は、彼ら(ユダヤ人)が神に対して熱心であることをあかしします。しかし、その熱心は知識に基づくものではありません。というのは、彼らは神の義を知らず、自分自身の義を立てようとして、神の義にしたがわなかったからです

 

キリストが律法を終わらせられたので、信じる人はみな義と認められるのですーローマ10:4。⇔わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのですーマタイ5:17。 ん?どっちだ?

 

ユダヤ人は律法に対して非常に熱心でした。彼らには、二つの律法がありました。

a)記述律法モーセ五書…創世記、出エジプト記レビ記民数記申命記

b)口伝律法律法の権威ある解釈モーセの律法に抵触しないようにと後から追加されました。

 

口伝律法をまとめたものが“ミシュナー”(細則)であり、イエスの時代には、民には負いきれない重荷になっていました。例えば、“しかし七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはどんな仕事もしてはならない”ー出エジプト記20:10。 

 

ミシュナーでは、「何が仕事に値するか」が決められていて、・火を使うことは仕事である。・いちじくの実より重い物を持つことは仕事である、等々。これらの規定はトーラー(モーセ五書)にはありません。だから、イエスと律法学者たちは衝突したのです。

 

新約聖書福音書の中で、イエスが「あなたがたは◯◯と聞いています。」…これが「口伝律法」の内容です。「しかし〜と書いてある。」…これが「トーラー(モーセの律法)」の内容です。「わたしは△△と言います。」…これがイエスの「新しい契約」です。

 

さらに、そのミシュナーとミシュナーを歴代ラビたちが幾重にも解釈した“ゲラマー”があり、ゲラマーを集めた物がユダヤ教の教典:タルムード

どんだけ がんじがらめ なんでしょ…?

 

エスさまが律法学者たちと衝突し、破られた律法とは これら口伝律法で、イエスの教えはモーセ五書(トーラー)の正しい解釈です。

 

ユダヤ人たちは、今生きているユダヤ人全員がたった一日でも律法を守ることが出来たらメシアはすぐに来ると信じています。そしてメシアであるイエスご自身がユダヤ人として来られ律法をすべて守られました(罪を犯さなかった)。ここに律法の成就があります

 

聖書には、神様が結ばれた契約が全部で八つあります。大きくは律法に基づく旧い契約と恵みに基づく新しい契約です。新しい契約はイエスによって成就しました。

新しい契約が結ばれれば、旧い契約は無効になります。だからイエスは律法を終わらせたのです。

 

ハレルヤ!今はめぐみの時!新しい契約の中です!

 

モーセの律法で有名なのは「十戒」ですが、実は全部で613もあります。その内訳は、365の禁止命令(〜してはならない)と、248の積極的な命令(〜しなさい)です。 

 

エスモーセの律法を、神と人との二つにまとめたものが『黄金律』と言われるものです。

マタイ22:37~39ー1)『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』…礼拝

2)『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』…奉仕

 

「黄金律」の第二戒には、もちろん「殺すな」「盗むな」「偽証するな」「姦淫するな」等、モーセ十戒と同じ内容が含まれます。でもそれは「隣人を愛せよ」という愛の中に含まれる内容だからであって、モーセの律法の一部が生きているわけではありません。

 

もし、モーセの律法が今でも有効であるとするならば、その人は未だに旧い契約の中に生きていることになり、613もある律法を一つ一つ守る義務が生じることになります。

 

ヤコブ2:10~11律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯したものとなったのです。なぜなら「姦淫してはならない」と言われた方は「殺してはならない」とも言われたからです。そこで、姦淫しなくても人殺しをすれば、あなたは律法の違反者となったのです。 

とあるからです。モーセの律法の一部だけ有効ということは、聖書的ではありません。有効だと主張する人は、毎回教会ではなく、神殿に動物を捧げに行く必要があります。

 

エスはこう言われました。

ヨハネ13:34ーあなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 

創世記14:20ーアブラムはすべての物の十分の一を彼(シャレムの王メルキゼデク=イエスの型)に与えた。

創世記28:22ー私(ヤコブ)が石の柱として立てたこの石は神の家となり、すべてあなたが私に賜わる物の十分の一を私は必ずあなたにささげます。

 

アブラムもヤコブも自発でささげました。

アブラムは、働いた月々の収入の十分の一を捧げたのではなく、戦利品の十分の一を『一度だけ』捧げたのです。

メルキゼデクとイエスの類似点 〜創世記14:18~20, 詩篇110:4, ヘブル7:1~3〜 - サザエのお裾分け

 

そして、よく引用されるのがマラキ3:8~10ですが、マラキ書は旧約聖書です。ここから十分の一を強制するなら、旧約の律法の中に生きることになります。

 

マラキ3:8ー「十分の一を捧げない者は、神から盗んでいる」と教える者は、十分の一とは別に「奉納物」も捧げているのでしょうか?

 

十分の一というのは、人間の所有欲に歯止めをかけるため、自分の拠り所は神であると自覚させるためのものです。

マラキ3:10旧約聖書の中で唯一 神が信頼に足るお方かどうか「ためしてみよ」と挑戦している箇所です。

 

 

献金について、モーセの律法の一部である什一献金は、新約時代の信者である私たちには適用されません。

ローマ6:14ーというのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。


もし、何としてもモーセの律法に従いたいのなら、什一献金は収入の10%ではなくて、22.3%になります。その内訳は・・・。

 

第1の什一としてレビ人を支える為に収穫の10%

民数記18:24ーそれは、イスラエル人が、奉納物として主に供える十分の一を、わたしは彼らの相続財産としてレビ人に与えるからである。それゆえわたしは彼らがイスラエル人の中で相続地を持ってはならないと、彼らに言ったのである。

 

第2の什一として主の祭りの為に残りの9%

申命記12:5~6ーただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない。

あなたがたは全焼のいけにえや、ほかのいけにえ、十分の一とあなたがたの奉納物、誓願のささげ物、進んでささげるささげ物、あなたがたの牛や羊の初子を、そこに携えて行きなさい。申命記12:10~19、14:22~26)

 

申命記14:28ー三年の終わりごとに、その年の収穫の十分の一を全部持ち出し、あなたの町囲みのうちに置いておかなければならない。

合計22.3%。

 

では、新約の恵みの時代、聖書は何といっているでしょうか?

 *あらかじめ用意しておく。

1コリント16:2私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日(日曜日)に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。

 

*好意に満ちた贈り物として用意する。

1コリント9:5b〜6どうかこの献金を、惜しみながらするのではなく、好意に満ちた贈り物として用意しておいてください。私はこう考えます。少しだけ蒔く者は、少しだけ刈り取り、豊かに蒔く者は、豊かに刈り取ります。

 

*個々人で、自由に心で決めたとおり、喜んで捧げる。

2コリント9:7ひとりひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は喜んで与える人を愛してくださいます。

 

2コリント9:11ーあなたがたはあらゆる点で豊かになって惜しみなく与えるようになり、それが私たちを通して神への感謝を生み出すのです。

 

2コリント9:12ーなぜなら、この奉仕のわざは、聖徒たちの必要を十分に満たすばかりでなく神への多くの感謝を通して、満ちあふれるようになるからです。

 

…とあるように、献金は神への感謝であり、喜びを持って、週の初めに用意して(別にしておく、とっておくの意=聖別)、捧げるものです。神さまとの個人的関係の中から、感謝と喜びをもって捧げられるもので、強制によるのではありません。

 

捧げたい人は、1/10だけでなく、3/10でも1/2でも10/10でも自由に捧げることができる時代です。自分自身の献金の目安に用いることは自由ですが、他の人に対して同じように『十分の一献金を強要すること』も『十分の一を捧げなければ、信仰が足りない』とか『救われていない証拠』とするものではありません。

 

聖書から献金について正しい理解を持ち、もう献金で苦しむことがありませんせんように。感謝と喜びを持って捧げられますように。

アーメン。

 

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