サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

キリスト者の「二つの性質」と「三つの救いの段階」

クリスチャンになったら順風満帆…?

 →そんな約束は、どこにも書かれていません。

むしろ、『試練』という信仰のテストだってありますよ💦

 

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飲酒は罪…?

 →いいえ。『飲酒』そのものが罪なのではなく、『酒に酔うこと』が罪なのです。

1テモテ5:23ーこれからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。

*当時のイスラエルでは、ぶどう酒は医薬品としても用いられていました。

 

もしも、飲酒そのものが罪であったなら、カナの婚礼で水をぶどう酒に変えたイエス様は、罪を助長したことになり、メシアとして失脚してしまいますよね😰

 

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ただ、アルコール依存症だったり、アレルギーのある方等に対する配慮も忘れてはいけませんね。

箴言には、ぶどう酒に関する教えがたくさんありますから、是非ご自分で確認してみてください。

 

サタンの誘惑はいつあるの…?

 →人が真の神に近づこうとする時や、信仰が成長する時など。

そのときに戦える唯一の攻撃用の武器が『みことばの剣』なのです。

 

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本当に私は救われてるのかな…? 

 

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長いこと「ご利益宗教」の習慣の中で生きて来た私たちには、聖書の神様を信じるとは実際にどういうことなのか、疑問に思いますよね?!

 

エスを主と信じれば、罪が赦されて、神さまの祝福があって、何の問題もないバラ色人生が待っている…と勘違いしてしまう人も中にはいるわけです。(気持ちとしては分からなくはないですけどね^^;;)

 

求道者…「真理」を求めている人。イエスが神の子かどうか聖書から確認中の人。

クリスチャンバプテスマを受ける前であっても、心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じ、口でイエスを主と告白した者。cf ローマ10:9

バプテスマ…イエスを信じ、イエスに従って生きる決心をしてクリスチャンとなった者が、最初に従う主の命令。cf マタイ28:19

 

 

人間が自分の必要に応じてその都度付け足して作っていったのが「ご利益宗教」と言われるものです。だから学業の神だったり、子宝・安産の神だったり、商売繁盛の神だったり…とたくさんの神々が作られ、日本はいつしか八百万の神の国となってしまいました。

 

開業医を選ぶように、その時々の必要に応じて神社仏閣を巡るわけですが、時にどこか一カ所で、少しのお賽銭であれもこれもお願いする人もいるので、そこの神様は大変だろうな〜と同情すら感じてしまいます^^;;

 

ブランド品の偽物をたくさん持っているのに似てるかな…?

どれも「本物」ではないから大切にせず、すぐに次のに目移りしてしまいますよね。

 

でも聖書の神は、人間の必要によって人間に作られた神ではなく、人間をお造りになった方です。創造主なる神が、私たちひとりひとりの名を呼んで「愛しているよ」と言って下さっているのです。

cf イザヤ43:1ーだが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。

cf イザヤ43:4aわたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

cf イザヤ43:7ーわたしの名で呼ばれるすべての者は、私の栄光のために、わたしがこれを創造し、これを形造り、これを造った。

 

その神の愛は、私たちが神を神とせずに自分勝手に生きてきた罪を贖うために、十字架でたったひとりの御子をほふるという犠牲を、惜しむことなく成し遂げられたほど大きなものです。そのことを自分のこととして受け入れた者を「子として」受け入れるため、「子として」愛するため…。

 

だから聖書の神を、御子の十字架を信じる者は、宗教に入信するのではなく、本物の神=創造主、贖い主なる神さまとの「関係」に入れられるのです。

これが「宗教=Religion」と「神との関係=Relationship」との違いです。

 

サタンはこの神との「関係」に入ろうとする者を、あの手この手で阻止しようとします。自分と一緒に滅びへ行く仲間が減るのが嫌なのか、敵対相手である神側に付く人が増えるのが嫌なのか、この阻止の仕方はハンパないですよ。

 

逆に言えば、それだけこの神とその人の関係が本物だという事であり、神はその人に対して大きなご計画をお持ちだということです。

 

本物の神との関係があることすら知らず、自分の好きなようにのほほ〜ん♫と生きている人には、サタンは何もちょっかいを出しません。放っておいてもその人のたましいが救われることはないからです。

 

でも神を求め始め、たましいに飢え渇きを感じ、いのちの水を求め始めた人がおきると大慌てで阻止しようとします。教会や聖書の学びに行こうとすると電話がかかってきたり、子どもが飲み物をこぼして後始末に時間をとられたり、久し振りの友人から食事に誘われたり、頑張って行ったのに睡魔に襲われたり…

 

子どもや友人がサタンなのではありません!! 

サタン側からしたら、これらの出来事の目的はただひとつ!みことばを聞かせないようにするためです。なぜなら、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるからですーローマ10:17。

 

それらのサタンの阻止、妨害にも負けず、御子の十字架の贖いを自分のためだったと信じ、無事 神の子として「神との関係」に入った者が「キリスト者(キリストに属する者、の意)=クリスチャン」となります。

 

これは「神の選び」なのでしょうか それとも「自分の決心」なのでしょうか

 

答は両方とも「正解」です! 「救い」という出来事を神側から見るか、人間側から見るかの違いです。

 

神は御子を信じる者をひとりとして滅ぼすことなく、永遠のいのちをお与えになります。cf ヨハネ3:16。 そのために聖霊は働き、神のことばである聖書を与え、クリスチャンの証しを通して私たちを招いておられます。 (本当はひとりひとりを選んで「キリストの花嫁」として、御国への招待をされているのです。)

 

その招きに応じるという「決心」は、私たちの自由意志にまかされています。ですから「神に選ばれた」と言う人は、神側の視点に立って救いを証ししており、「私は決心しました」と言う人は、人間側の視点から救いを証ししているのです。

 

ではクリスチャンには、もうサタンから誘惑は来ないのでしょうか?試練や問題は何もなく、バラ色の人生に入れるのでしょうか? 

答は「NO」です!

 

ルカ4:13 を見てください。イエスの公生涯の初め、荒野でサタンの誘惑に勝利されたときのことです。“誘惑の手を尽くしたあとで、悪魔はしばらくの間イエスから離れた。” とあります。「しばらくの間」ということは、再び誘惑してくるということです。

 

これと同じことが私たちにも起こるのです。信仰を持ち始めてしばらくの間は、サタンは半ば諦めて離れて行きます。救われた喜びが続いている間は、ハネムーン期間とも言えるでしょう。全てが喜びであり、生き生きと輝いています。

 

しかし、時間の経過とともに怒りやイライラ、欲求不満、嫉妬、ねたみ、人に対する不満や批判、うわさ話などは油断していると戻ってきます。それに気付いた時、サタンが耳元で囁いてきます。「そんな汚い心があるのに、おまえはそれでもクリスチャンだと言えるのか?本当に救われていると言えるのか?へたにクリスチャンにならない方が苦しまずに済んだのにな〜」と…。

 

ここでいかにも勝利しているクリスチャンのように「振舞おう」としがちですが、それは危険です!(最近はあまり感じられなくなってしまった “喜び” が、まだあるかのようにごまかして、教会の奉仕に忙しくしていよう)と行ないにはしることも危険です!偽善者であり、敗北者となってしまうからです。

 

 ここで知らなくてならないことは、肉体が生きている間は、私たち(クリスチャン)には「二つの性質」があるということです!それは、肉(水=羊水)によって生まれた「古い性質=自己中心」と御霊によって生まれた「新しい性質=神中心」です。

 

そして、救いには三つの段階があります。

①開始=義認。キリストを信じた時、神の子とされました。

②過程=聖化。新しい性質の力が、みことばの学び、キリストの関係が深まるにつれ、古い性質に勝利していく過程。

完成=栄化キリストがあなたを古い罪の性質から完全に、永遠に解放する時。

 

主イエスを受け入れたクリスチャンは、すでに神さまから「義」と認められています。自分の信仰の成長具合に関わらす、神さまご自身が義と認めてくださっているので、疑いの余地はないのです。アーメン。

 

だからと言って、ガラテヤ5:19~21にあるような古い罪の性質から完全に解放されたわけでもありません。肉体が生きているからです。

 

と同時に、神を信じ、御霊が内住される私たち信者は、ガラテヤ5:22~23御霊の実を結ぶこともできるのです。その秘訣は、信仰の基盤を「聖書のみことば」に置くことです。みことばに従うことが「良い行ない」であり、結果として「御霊の実」を結ぶことになります。

 

現在、地上で肉を持って生きているクリスチャンはみな、「だだ今、工事中(聖化中)!大変 ご迷惑をおかけしています。」状態なのです。だからこそ「互いに赦し合いなさい」という命令に従う必要があるわけで、その機会もたくさん与えられているわけです。

 

 

 そうそう…サタンの妨害が多く働く「時」というのが、要注意です。

①人が主を受け入れ、信仰に入ろうとする時。

②信仰がステップアップ(成長)する時。

③サタンの正体がバラされそうな時。

 

求道者の意見には「信仰を持ったら◯◯しなければならない(または、△△してはならない)というのが、窮屈に感じて決心できない」というのが多々あります。よくよく聞いてみると、飲酒や喫煙、カラオケ等趣味、嗜好に関するケースがほとんどで、次に多いのが毎日曜日の礼拝が守れないというものです。

 

「過越の食事と聖餐式のまとめにも書きましたが、飲酒(ワイン)を「罪」だとするならば、主イエスも「罪人だった」ことになります。

またイエスが罪人であるならば、全人類のための贖いではなく、十字架による贖いはバラバひとりのためだけだったことになります。

 

なぜなら、イエスはメシヤとしての最初のしるしとして、カナの婚礼で120リットルの水がめ六つ分もワインに変えて、招待客に振舞われたからです。また最後の晩餐では、ご自身もワインを4杯も飲まれました。普段もワインを飲まれていたので、パリサイ人たちからは誇張して「大酒飲み」と言われました。

 

 では、聖書は何と言っているでしょう?

cf エペソ5:18ーまた、酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。

飲酒そのものを禁じているのではなく、「酒に酔うこと」を禁じているのです。

 

1テモテ5:23ーこれからは水ばかり飲まないで、胃のために、また、たびたび起こる病気のためにも、少量のぶどう酒を用いなさい。

ぶどう酒は医薬品としても用いられていました

 

黙示録6:6ー「小麦1枡は1デナリ。大麦3枡も1デナリ。オリーブとぶどう酒に害を与えてはいけない」と、患難時代の裁きの時でさえも、医薬品であるぶどう酒は神の守りの中に置かれています。

 

これらのことから分かることは、飲酒そのものが「罪」なのではなく、「酒に酔うこと」が罪だということです。

 

喫煙に関しては、聖書が書かれた時代には「タバコ」というものは、まだ存在していなかったと思われます。なぜなら一言も触れられていないからです。

 

では、現代の私たちはどう理解すべきでしょうか? 信仰に基盤である聖書は何と言っているでしょうか?

 

1コリント10:23〜24ーすべてのことはしてもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとはかぎりません。

1コリント8:5~13ーだれでも、自分の利益を求めないで、他人の利益を心がけなさい。

 

 飲酒、喫煙をする、しないの判断は個人の自由意志にまかされています。その判断基準として「有益なこと、徳を高めること、他者の益となること」そしてイザヤ43:7&21にあるように「神の栄光を現すこと」はすべきであり、そうならないものはしない方が良いということです。

 

1コリント10:31ーこういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

 

では「主日礼拝」に関してはどうでしょう? もし主日礼拝を“守らねばならない”」とするならば、それは律法主義に陥る危険性があります。中には主日礼拝を守るために、信仰を持ってから転職する人もいるでしょう。しかし、すべての人がそう出来るわけではありません。

 

ローマ14:5〜6aーある日を、他の日に比べて、大事だと考える人もいますが、どの日も同じだと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。日を守る人は、主のために守っています。

 

この件に関しても、各自の自由意志にまかされています。判断基準としては、ローマ14:23b信仰から出ていないことは、みな罪です。

 

中には「モーセの律法にそう書いてあります。」という人がいるかもしれませんが、安息日は奴隷ではなくなったイスラエル人に対し「仕事を休む日」としての命令であって、「信者が集まって神を礼拝する日」ではありません。モーセは「安息日毎に集まって、神を礼拝しなさい。」という命令は一度も出していません。

 

安息日に集会を開きなさい。」という規定は、祭司であるレビ人たちに与えられている命令であり、血の犠牲をささげるための集会を開くためです。一般の人々に「集まって、礼拝しなさい。」という命令ではないのです。

 

イスラエル人の成人男子が礼拝にエルサレムに来るのは、年に3回ー過越しの祭り、ペンテコステ、仮庵の祭りー(遠方の者は年1回)だけでした。

安息日モーセの律法の時代に、イスラエル人にのみ命じられたもので、教会時代に適応されるものではありません。

 

信仰により飲む飲まない、食べる、食べない、吸う、吸わない、主日を守る、守らない、何かをする、しないを決めるべきであって、律法によるのではありません。ましてやそれを「裁きの手段」としてはいけないのです。

 

「いけないことなのかな?これは罪なのかな?」と感じるのであれば、神さまがあなたにして欲しくないことと受け止め、止めた方が心に平安が来るでしょう。逆にそのことで神の栄光を現わしているという確信があるのなら、無理に止めなくてもよいのです。一人一人が神さまとの関係の中で決めるべきです。

 

 

信仰の基盤を聖書にみことばに置いて、すべての栄光を主にお返しできますように…。アーメン。

 

わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。ーヨハネ16:6

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