*『神様のご計画』の表訂正:X 五旬節/ペンテコステ 使徒1:9 →O 使徒2:1~4
興味はあるものの、なかなか学ぶ機会の少ない黙示録のお裾分けに挑戦!どのような立場で解釈するかにより、着地点が大きく変わるのも事実です。このまとめは、私なりにみことばをみことばで確認し、聖書全体と調和がとれると納得したヘブル的視点からの解釈です。学びの参考になれば幸いです。
新約聖書の中で唯一、これから起こることの預言が書かれています。黙示録は、旧約聖書のあちこちに預言者たちによって語られた終末時代に関する預言を時系列にまとめたものです。彼らに与えられた啓示を、ヨハネが奥義として明らかにしたものです。
黙示録に出て来る「イスラエル」という言葉を「霊的イスラエル=新約時代のクリスチャン」と理解するのか、文字通り「イスラエル=ユダヤ人(アブラハムーイサクーヤコブの子孫)」と理解するのかで、全体的な理解、着地点が大きく変わってきます。
私個人としては、後者の「イスラエル=ユダヤ人」と理解した方が、聖書の他の箇所で語られている内容とも一致すると自分なりに納得しています。なので、これからお裾分けする内容は、後者の立場です。違う理解をされている方もおられると思いますので、あくまでも一つの解釈として参考にして下さい。
黙示録1:1ーイエス・キリストの黙示…黙示録は十二使徒の一人“主が愛された弟子”と自認しているヨハネが記したので「ヨハネの黙示録」というタイトルが付けられていますが、実際は「イエス・キリストの黙示」だとここでは述べています。
黙示録の目的ーすぐに起こるはずの事をそのしもべたちに示すため。
しもべたちー主イエスを信じ、キリストの弟子となった者たちのこと。つまり、私たちクリスチャンに「すぐに起こるはずの事」をあらかじめ示してくださったのです。
すぐにー人間はせっかちなので「今すぐに」ととって(な〜んだ、まだ起こってないじゃないか!信じられないよ!)となってしまいますが、これは神さまの目から見た「すぐに」ということです。
cf 第二ペテロ3:8ーしかし、愛する人たち。あなたがたは、この一時を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
つまり「神さまの時が来たら、ただちに起こる」という意味です。被造物である人間の視点ではなく、創造者の視点で理解しなくてはなりません。
そして、その「すぐに起こるはずの事」を
1)(父なる)神が、キリストにお与えになりました。
2)キリストは、御使いをお遣わしになりました。
4)そのヨハネが書き記した物を、今私たちが読んでいる、
という段階を経ています。
神さまがご自身の啓示を届けるのに、御使いを遣わすことは旧約時代にも新約時代にもありました。cfダニエル8:16、使徒7:53、ガラテヤ3:19、ルカ1:35。
黙示録1:2ー神のことば…ヨハネはまた「ヨハネの福音書」を書きました。その書き出しは、こうです。“初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。”ーヨハネ1:1。
イエス・キリストのあかし…ヨハネは更に「ヨハネによる手紙第一、第二、第三」を書き送り、異端的教えが入り込む危機にあった教会に主を証しし、教会を戒め、励ましています。
彼の見たことすべてをあかしした…ヨハネは最初、バプテスマのヨハネの弟子でした。そこからイエスの弟子となり、イエスの公生涯の初めから行動を共にし、復活の主に会った人物です。黙示録を信じるか否かは、このヨハネの証しを信じるか否かにかかってくるのです。
黙示録1:3ー聖書は「神のことば」なので、どこを読んでも、何度読んでも、新しい発見があり祝福されます。(まぁ、だからこそ学んでいて面白いんだけどね!)
でも「祝福の約束」が書かれているのは、黙示録だけなのです!! ここでは三つの祝福が約束されています。
この預言のことばを…
1)朗読する者。
当時は、今のように一人一冊ずつ聖書を持ってるなんてことはなかったですからね。
2)(それを) 聞く者。
3)そこに書かれてることを心に留める人々。…が祝福されるのです。
ここ大事なの、分かります!? つまり、ひとりがみことばを朗読し、大勢が聞き、そしてその中の何人かが「それを心に留める」のですよ。心に留めなければ、行ないにまでは繋がらないのです!
だから、パウロもテモテにこう勧めています。“私が行くまで、聖書の朗読と勧めと教えとに専念しなさい”ー第一テモテ4:13。
黙示録を学ぶ人は、これから先の神さまのご計画を知ることができるのです。ですから、主イエスの再臨に備えられるだけでなく、主に在って、今自分が何をなすべきかが明確に示されてきます。ここに祝福があるのです。
自分の望み通りに物事がうまくいくことが祝福なのではなく、神のみこころに沿って自分が用いられることに祝福があり、喜びがあるのです。私たちは「神の器」です。アーメン。
黙示録1:4ーアジアにある七つの教会へ…2〜3章に記されている七つの教会に宛てた手紙という形をとっています。書き方としては、1)宛先。2)キリストの姿。3)賞賛。4)叱責。5)訓戒、の順になっていますが、賞賛がなかったり叱責や訓戒がない教会もあります。
「七つ」ー聖書では「七=完全数」なので、ここでの「七つの教会=教会全体」と理解した方が良いでしょう。その理由は2〜3章で詳しくね。
黙示録1:4ー常にいまし、昔いまし、後に来られる方…父なる神。…「常にいまし、昔いまし」が神なのは問題ありません。「後に来られる方」は、御父ではなく御子イエスではないかと思う方もおられると思います。
*その説明は、7節で詳しくネ。
その御座の前におられる七つの御霊ー疑う余地なく「聖霊」のことですね。
「七つの御霊」ー聖霊の完全さを示すことばです。
cf イザヤ11:2ー主の霊、知恵の霊、悟りの霊、はかりごとの霊、能力の霊、主を知る知識の霊、主を恐れる霊、の七つ。
黙示録1:5ー忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト…御子です。
その御子イエスから「恵みと平安が、あなたがたにあるように」と言われています。
cf ヨハネ14:27ーわたしはあなたがたに平安を残します。。。御父のご臨在における平安のこと。
イエスは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放してくださいました。
cf ヨハネ8:36ーですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。
*「自由」というのは、罪の誘惑に対して「No」と言える自由のことであり、自分の好き勝手にするという意味ではありません。
黙示録1:6ー今は「祭司」として父なる神の前にとりなしの働きをしてくださっています。
*主イエスの初臨ー神の小羊として。
現在ー天の幕屋での大祭司として…へブル4:14。
再臨ー王として。
私たちを王国としー御国の民とし、の意。キリストに栄光と力がとこしえにあるようにーヨハネは栄光をキリストに帰しています。
黙示録1:7ー黙示録のテーマ聖句。
1)主イエスは雲に乗って地上に来られる。
cf 使徒1:9ーイエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて見えなくなった。
cf 使徒1:11ーあなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様でまたおいでになります。
cf 詩篇68:4ー神に向かって歌い、御名をほめ歌え。雲に乗って来られる方のために道を備えよ。その御名は主(YHWH=御父の名)。その御前で、こおどりして喜べ。
*ここから、黙示録1:4ー「常にいまし、昔いまし “後にこられる方”」が「御父」だといえるのです!
2)再臨の前後に何が起こるかの預言。
ゼカリヤ12:10ーわたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く。
諸族ーユダヤ人以外の諸人族。
黙示録1:8ー3)イエスは神であり、主であり万物の支配者であられる方です。
cf ヨハネ10:30ーわたしと父とは一つです。
このみことばを理解しないと黙示録1:4、8を理解することは、むずかしいでしょう。
黙示録1:9ー黙示録執筆の経緯。
パトモス島ー現在のトルコ西部にある島。ローマ時代は流刑の島として知られていました。ヨハネは執筆当時そこに捕らえられていました。
ヨハネの流刑の理由は、「神のことばとイエスのあかしのゆえ」でした。つまり、迫害の時代だったということです。
ヨハネの自己紹介ーあなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者。
ヨハネがこの書を書いたAD90年代当時のアジアのクリスチャンたちは、ドミティアヌス帝による迫害で苦しんでいました。ドミティアヌス帝は自らを「主にして神」と称し、人々に自分自身を礼拝するように強要しました。これに反発したのがユダヤ人とクリスチャンたちです。
cf ローマ13:1ー人はみな、上の権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
とあるのに、何故ユダヤ人たちとクリスチャンたちは従わなかったのでしょう?
クリスチャンが上の権威に従わないのは、地上の権威が神の権威に逆らっているときだけです。
1)神以外の偶像礼拝を強要されたとき。
2)証し、伝道の禁止ー主イエスの名によって語ってはならないと強要されたとき。
3)主イエスを否定するように強要されたとき。
黙示録が書かれたこの時代は、1)の皇帝礼拝を強要されたために、ユダヤ人、クリスチャンが反発したのです。そのために迫害がおこりました。
もう一つの執筆の理由は、ヨハネと同じように迫害の中にいる人々を励ますためでした。これはヨハネが生きていた一世紀の迫害の時代だけでなく、これから来る七年間の迫害の時代の聖徒たちへの励ましとなることでしょう。
黙示録1:10ー主の日…原文では「主の」は形容詞。Lordian Day…『主の日』は旧約聖書ではすべて神のさばきである『患難時代』を指します。訳者はそのことを考慮せずに『主の日』と訳したのではないかと思われます。
『主の栄光が満ちた特別な日』という意味です。ちなみに聖書では「日曜日=週の初めの日」となっています。
つまり、ヨハネは主の栄光が満ちた特別な日に、御霊に感じ、うしろにラッパの音のような大きな声を聞いたと言っているのです。
黙示録1:11ーヨハネは命令を受けました。その命令とは、
1)あなたの見ることを巻物に書き記せ、
2)巻物に書き記した物を七つの教会に送りなさい、
というものでした。
七つの教会ーエペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィア、ラオデキヤ。
ヨハネは流刑の中にあっても、自分が置かれた場を神さまの啓示を聞き、受け取る場としました。私たちも自分が今置かれてい所で、みことばを聞き、神の祝福の場とすることができるのです。
黙示録1:12ー迫害の中で書かれた黙示録は、象徴的なことばがたくさん出てきます。何のルールも持たずに好き勝手に解釈すると、着地点がとんでもないことになってしまいます。象徴的なことばを解釈するには、いくつかの原則があるのです。
繰り返しになりますが…《象徴的なことばの解釈法》
1)みことばをみことばで確認するー黙示録の他の箇所で、そのことばを説明しているみことばがないかを調べる。新改訳聖書の場合は、下に脚注があるので活用するといいと思います。脚注のない聖書を使われている方は…自力で頑張る!? (笑)
2)黙示録を調べてみてもない場合は、他の聖書箇所でそのことばがどう使われているかを確認する。ちょっと気が遠くなる作業ですけどね。ガンバです!
3)それでも無い場合にのみ、象徴的なことばとして解釈する。 *これらの原則に沿って読むと大抵理解できるのです。
七つの金の燭台ー原則に沿って黙示録を探すと、ちゃんと説明がありました(^_^)v。
cf 黙示録1:20ーわたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。
七つの金の燭台とは「七つの教会」のことです。
黙示録1:13ー燭台の真ん中=教会の真ん中。
人の子のような方=イエス。公生涯の間、主はご自身のことを指して“人の子”(人として来られたことを強調)ということばを好んで使われました。ヨハネもここで「人の子のような方」と記録しています。その容姿は…?
1)紹介の真ん中にあって、足までたれた衣を着、胸に金の帯を締めていました。
黙示録1:14ー2)その頭と神の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようでした。 「白い」「白く」ー潔さ。「燃える炎」ー罪に対するさばき。
黙示録1:15ー3)その足は、炉で精錬されて光輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようでした。
「しんちゅう」ー黄銅。「大水の音」ー権威。
黙示録1:16ー4)右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようでした。「
七つの星」ー黙示録1:20から「七つの御使い」のこと。
*聖書に「星」ということばが象徴的に用いられている場合、例外なく「御使い」と指します。cfイザヤ14:12~13
「鋭い両刃の剣」ーさばき。
cf ヘブル4:12ー神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。
「強く照り輝く太陽」ー神の栄光。
これらのことから、教会の中に立って裁きをされようとする王なるキリストの姿が見えてきます。
黙示録1:17ーヨハネはこのイエスを見たとき、その足もとに倒れて死者のようになりました。彼…イエス。右手…力を表わす。イエスは、死者のように倒れているヨハネに右手で触れて言われました。
「恐れるな」ー今も主は言われます。
イザヤ43:1bー恐れるな。わたしがあなたをあがなったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。神に名を呼ばれ、神の子、神のものとされました。その神の御手の中にあって、神の栄光を現わすために私たちは造られました。
イエスの自己啓示ー1)私は最初であり、最後である。
黙示録1:18ー2)わたしは生きている者である。私は死んだが、見よ、いつまでも生きているーキリストが復活して、今も生きておられます。アーメン。
*もしキリストがただの人だったとしたら、誰かひとりのために身代わりで死ぬことはできても、全人類のために身代わりとなることはできません。もしキリストが神の子として来られたら、キリストに出会った人はみな死んでしまったでしょう。罪ある人間が神を見てなお生きていることは出来ないからです。
それに、神の子としてだけで来られたら、身代わりになることはなかったでしょう。なぜなら、神は死ぬことはないからです。
だからキリストは神なのに、全人類の身代わりとして死ぬために、人として来られたのです。cf ピリピ2:6~11。
3)また、死とハデスとのかぎを持っている。ーキリストがこの地をさばくために再臨されるという意味する。
(余談ですが、エホバの証人は「最初であり、最後である」ー1:17、「アルフであり、オメガである」方ー1:8、「アルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである」ー22:13。これらは、すべてエホバを指すと主張します。
18節は17節の続きなので、「わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている」もエホバに当てはまることになります。しかし彼らは、エホバが死んだという聖書箇所を提示することは出来ないのです。死んで、復活されたのは、御子イエス・キリストのみです。アーメン!)
黙示録1:19ー黙示録のテーマは、1章7節でした。
ここでは、そのテーマがどう展開されるのかが示されています。 1)あなたの見た事ーヨハネが見た事は、黙示録1章の内容です。
2)今ある事ーヨハネが生きていた一世紀当時にアジアにあった七つの教会のこと。黙示録2〜3章の内容です。
3)この後に起こる事ーヨハネの死後に起こること。黙示録4〜22章の内容であり、2013年現在でも神の忍耐によりまだ起きていません。それをこれから学ぶことにより、クリスチャンとしての生き方が定まって来ると思います。
黙示録1:20ーここでキリストは、先程出て来た象徴的なことばの解説をされています。
「七つの星」ー七つの教会の御使いたちのこと。
「七つの燭台」ー七つの教会のこと。
*「教会」には2種類あることを覚えておいてください。
1)地域教会ー建物等、目に見える教会で、信者も未信者も、求道者も時には反対者もいます。イエスは地域教会を“畑と種”に譬えて教会の裁きについて語られましたーマタイ13:24~30。だから教会に問題があっても不思議ではないのです。
2)普遍的教会ー建物ではなく、目に見えない教会で、イエスを主と信じる信者の集まり。ペンテコステから主イエスの(空中)再臨までの期間に救われるすべての信者を含みます。
cf マタイ18:20ーふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。
もうひとつ知っておいて欲しいことは、「再臨」も2種類あるということです。
1)空中再臨ー「携挙」としての方が、しられているかもしれませんね。私が聖書を読み、全体と調和して理解しているのは「患難期前携挙説」です。
2)地上再臨ー患難時代の終わりに「勝利の王」として再臨されます。
これは(普遍的)教会=信者がキリストの花嫁であることと、ユダヤ式結婚式を理解しないと難しいかもしれません。
花嫁ー私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。ー第二コリント11:2。
花婿ーイエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時がきます。その時には断食します。ーマタイ9:15。
ユダヤ式結婚式では、新郎新婦はそれぞれの家で支度を整えます。花婿なるキリストは実家である天に戻らなければなりませんでした。ーキリストの昇天。そして支度が整ったら、迎えに来ると言われました。ーヨハネ14:2~3。
花嫁である信者は、地上の神の家である教会で支度を整えるのですー聖化。
ユダヤでは支度が整った花婿が、花嫁の家に迎えに行きます。そして、花嫁を自分の家に連れて行き、結婚式が執り行われます。式は普通一週間程度続きます。
それと同じようにキリストは、花嫁である信者を迎えに天から降りて来られますー空中再臨。そして花嫁である信者をご自分の父の家に連れて行かれますー携挙。
それが書かれているのが、1テサロニケ4:16~17です。
携挙(空中再臨)前に死んだ信者もこの時、キリストの復活のからだと同じ朽ちないからだによみがえり、携挙に預かった信者とともに天で結婚式に臨むのです。式は一週間(=ダニエルの七十週の最後の一週)続きます。つまり七年間続くわけです。
地上ではその間、患難時代として神のさばき、と同時に世界規模での大リバイバルが起こります(詳細は後ほど^^;)が、信者は携挙によって患難時代からも守られます。
その後、披露宴に当たる祝宴には友人らが招かれます。キリストとの結婚式後の祝宴は、場所を天から地上に変えて(地上再臨)旧約時代の義人たちと患難時代に救われたイスラエル人たち(花婿側の友人たち)と、患難時代に救われた異邦人(花嫁側の友人たちーcf マタイ25:1~12の賢い娘たち)を招いて行なわれますー千年王国。
千年の初めに彼らは復活して、千年間キリストと花嫁である信者とともに地上にいます。
千年間の祝宴の後、新居である完成された天の御国=新天新地に引っ越し、そこで永遠に住むのです。