サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

救いの完全性

イエスの十字架をどう理解するのかって大事だね。主はいつまでも十字架にかかったままでもなければ、死んで墓に納められたままでもない。 死に勝利された『復活の主』として、今も生きて、私たちのために天の聖所で大祭司として、御父の右の座でとりなしていてくださっています。 f:id:bluemome:20160901093718j:plain

 

ヨハネ3:16ー神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

エペソ2:8~9ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

 

 

 

伝道時には「イエスは私たちの過去、現在、将来犯してしまうすべての罪の身代わりとなって十字架で身代わりとなってくださったのです。ですから十字架の贖いを自分のこととして信じれば救われます。と正しく伝えられたし、伝えてるはずなのにね。

 

それがいつの間にか、「イエスを信じても良い行ないがなければ、天国には入れてもらえません。」とか「悔い改めがなければ、救われません。」という教えに変わってる…。 

十字架の贖いが及ばない範囲なんてないのに…

 

動物による贖いは不完全だったけど、神の御子の贖いは、たった一度限りで完全だからこそ、信じるすべての人の罪を贖うことができるのに…

 

コリントの教会には不品行の罪を犯している人たちがいました。そう言う人たちに対し、パウロはこう言っています。

 

1コリント5:5ーこのような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。

 

罪の刈り取りはあります。でもその人の霊(たましい)は「主の日に救われる」とあるのです。つまり1コリント15:3~5福音の三要素を信じた人は、必ず救われているのです。たとえ良い行ないが伴わなくても、悔い改めが足りなくてもです!

 

救いが「良い行ない」によるのであれば、どれほどの行ないが必要なのでしょう?

十分な悔い改めとは、どこまでを指すのでしょう?

 

私たちの「良い行ない」も「悔い改め」も足りないことを神様は百も承知のはずです。

だからこそ御子の十字架により「恵みにより、信仰による義」を与え、御霊も御子もとりなしていてくださるのです。

 

そうでなければ、イエスの十字架をもってでさえ、救いが及ばない罪が存在することになり、十字架の贖いは不完全であったことになってしまいます。

御子イエスの十字架は、全人類を救うために完全な罪の贖いなのです。

 

Ⅱコリント1:19ー私たち、すなわち、私とシルワノとテモテとが、あなたがたに宣べ伝えた神の子キリスト・イエスは、「しかり。」と同時に「否。」であるような方ではありません。この方には「しかり。」だけがあるのです。                                          

 

Ⅱコリント1:20ー神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。           

 

“信じれば救われる…「しかり。」しかし良い行ない、悔い改めの実がなければ、天の御国に入れない…「否。」” もしこう説くのなら、キリストは「しかり。」と同時に「否。」の方となってしまいます。

聖書の福音を信じる者は「〜にもかかわらず。」救ってくださる契約の神様です。

 

ローマ4:5ー何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義と見なされるのです。

*これが、信仰のスタート「義認」です。御霊の実は救いの条件ではなく、救われた者が信仰の成長に応じて結んでいくものです。実を結べてないように見える方がおられたら、信仰的にまだ幼子だということです。(年数は経っているのに…)という方がおられたら、本人が聖書を読んでいないということと、周りにいるクリスチャンがその人の霊的成長を助けていないということです。

 

神には不可能はないのです。神の小羊であるイエスの十字架の贖いは完全であり、信じるすべての人を救うことができます。

ヘブル7:25ーしたがって、ご自分によって神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。

 

ここに主にある姉妹の証しがあります。

 

放蕩の末、何もかも失ってしまったと痛感した当時の私は、まさに放蕩息子の話のように、神様のこと、イエス様の十字架のことを思い起こしました。しかし、私は自らの力で主のもとに戻ることが出来ませんでした。「私は、一度真理を知った上で放蕩に出たんだ。」

 

私は思いました「そんな人はもう赦されない、と以前教会でも聞いたことがある…。それにどの面下げて戻れるんだ。しかしだからといって、もう全て無くして、この先生きる気力さえない…。もう赦されないなら死んでも地獄。しかし、ならこの先なおのこと、生きる希望もなく行きつづけるのも地獄…」

 

そして私は胸に囁く「そうだ、それならもう、早いうちに終わりにしてしまえ…」という声に耳を傾けようとしていた。しかし、その決断をしようと考えたとき、やはり心の奥の奥には、十字架がちらつきました。そして祈りました。「神様、私はもう、あなたの元には帰れないのですよね…。」

 

「でも、神様、あまりに厚かましい願いですが…、もしももしも、私にさえもまだ、イエス様の十字架が有効なら…たとえもう、あなたの御顔を仰ぐことが出来なくても、天国で私だけがあなたにお目見えすることができない立場でもいい。ただ、あなたの光が届く、ギリギリの場所でいいので、あなたの光が少しでも届くところに、私を置いてくださらないでしょうか…。貴方の国の門の陰で、煤だらけで、ずっとずっと汚い姿のままでもいいから…あなたの光が、届くところに…でも、無理な願いだろうことも分かります。そしてそれは、他ならぬ、私自身が自ら招いた結果です…」と、祈った日。

 

私はそのまま、意識を失いましたが、私が倒れた場所は、主の御手の中だったのです…。

 

イエス様の側から、私を迎えに来て、私を介抱し、癒し、そしてもう一度正しい真理の道をあゆみ直させて下さった数年間。その結果、心から熱く実感すること、「真理はあなたがたを自由にします。」

 

正しく真理を知ること。正しく主に聞きたいと思うこと。これはまさに、私達の霊の身体を健全にするのだと、心から実感します。例えていえば、良い食物を正しく食べさせていただき、身体が健康になってくると、免疫力も筋力もまたアップし、抵抗力もつく感じ…。

 

イエス様の十字架は完璧な贖い。ただ一度で、パーフェクトな贖罪。そして神様は、一度結んだ契約を必ず守ってくださる方。この十字架のあがないと救いを受け入れた者に、いかなる状況でも、必要な助けと矯正をもって、魂を取り扱って下さる方。

 

そして今の私が願うこと。「私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。……私は、その幕屋で、喜びのいけにえをささげ、歌うたい、主にほめ歌を歌おう。」詩篇27:4~6

 

以前、「ただ、神様の光が少しでも届くところに…」と絶望の中で祈ったあの日。その私が今や、(これまた厚かましくも、笑)「願わくば主の宮に、少しでも近くに住まわせていただきたい!」と、希望の中で日々祈り、喜んで御言葉の食物を頂けているなんて!改めて神様の恵みの大きさを実感します。

 

救いは、いつの時代でも誰に対しても、「ただ神の恵みと、信仰による」。アーメンです! 

 

もし、イスラエル人と結ばれた契約を彼らの不信仰のゆえに反古にし、異邦人にその救いの祝福を与えられたとするならば、異邦人信者である私たちもまた不信仰により、ある日突然 救いの約束を反古にされる可能性があることになります。

 

それはつまり、一度信じた者は疑うことなく、信じ続けなければならず、犯した罪にはすべて気づき、すべて悔い改めをし続けなければならなくなることを意味します。

 

するともはや「救い=信仰+行ない」となり、いつになっても「私は救われている」という確信はなく、救われた喜びもなくなってしまうのです。教会に喜びがなく、疲れたクリスチャンが多いとしたら、それは救いの確信が無くなっているからでしょう。

 

では、一体 何を信じたら救われるのでしょう?答えはコリント人への手紙に、パウロ最も大切なこととして記してあります。

 

1コリント15:3~5ー私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。①キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと

また、②葬られたこと、また、③聖書に従って三日目によみがえられたこと、

また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。

*ケパ…ペテロのこと。cf ヨハネ5:39。

 ①〜③が、救いの三要素です。

 

では、何を信じ、何を告白すればいいのでしょう?

ローマ10:9~10ーなぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。

人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。

 

ローマ10:17ーそのように、信仰は聞くことから始まり、聞くことは、キリストについてのみことばによるのです。

 

ヘブル13:5ー金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

 

信仰は、福音の三要素を聞くことから始まり、福音に心から「アーメン」と同意し、口で「イエスは主である。」と告白すれば救われると、聖書は言っています。そして、一度信じたら、恵みのゆえに捨てられることはないのです。

 

どうかこれらのみことばに立ち、救いの確信と喜びに満たされ、生き生きとした信仰生活を送ることができますように。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

              

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