黙示録3:2ー目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしはあなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。
聖書のみことばを通してイエス様は、私たちに「目をさましていなさい。」と命じておられます。それは肉体が「目覚めている」ということではなく、「霊的覚醒」のことです。
【人間の霊的分類】
・生まれながらの人…不信者(未信者)
・キリストにある幼子…救われたばかりの人
・肉に属する人…神のご計画や深い真理を理解するのが難しい人/キリストの福音を信じて、救われただけで満足している人/霊的に死にかけている人
・御霊に属する人…聖霊に満たされ、導かれて歩む人/霊的に覚醒している人
まず自分自身が霊的覚醒をし、そして霊的に「死にかけているほかの人たちを力づけなさい。」と。
目をさましていなければならない理由は、主が「私たちの行ないが、御父の御前に全うされたとは見ていない。」からだと言われています。
私たちは、イエスを主と信じる信仰によって既に救われています。
エペソ2:8~9ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
救われるために必要なのは「信仰」であって、「行ない」ではありません。
私たちが救われるために信じなければならないことは、1コリント15:3~5で、パウロが「最も大切なこと」として書いた「福音の三要素」です。つまり、以下のことです。
①キリストが私たちの罪のために死なれたこと。
②葬られたこと。
③聖書に従って三日目によみがえられたこと。
救われるために「行ない」は必要ありません。
では、黙示録3:2で主が言われているのは、どのような「行ない」なのでしょうか?
ヤコブ2:17~18ー信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
さらにこう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、わたしに見せてください。私は行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」
ヤコブ2:26ーたましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。
私たちが主イエスを信じて救われたのには、理由があるのです。
イザヤ43:7ーわたしの名で呼ばれる(*クリスチャンのことね)すべての者は、
わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、
これを形造り、これを造った。
イザヤ43:21ーわたしのために造ったこの民は
わたしの栄誉を宣べ伝えよう。
それは神を信じた者の「信仰と神の栄光」とを現わす「行ない」です。
エペソ2:10ー私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。
では、どうしたらその「行ない」をすることができるのでしょうか?
あらかじめ備えてくださったという「良い行ない」とは何でしょう?
ヨハネ14:15ーもしあなたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。
ヨハネ14:21ーわたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。
ヨハネ14:23aーイエスは彼に答えられた。「だれでも、わたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。」
主イエスの戒めを守ることが「良い行ない」となって表れるのです。主イエスの戒めとは、聖書に書かれている神のことばです。ですから、聖書を読まずに「私は、主イエスを救い主と信じるクリスチャンです」と言っても、それは虚しい人間の言葉によるのであって、神の栄誉を現わすものでもなければ、行ないを伴う生きた信仰とは言えないのです。
霊的覚醒とは、今も生きて働かれる神様との対話、すなわち、聖書のみことばを読み、祈りによって応答し、キリストの戒めを守り、神の栄光を現わしていく信者の状態を意味します。
神様との対話を持たずして、どのように神のみこころを理解できるでしょうか?理解せずに、どのように「良い行ない」をすることができるのでしょうか?
結局のところ、聖書のみことばを読み、神に祈り、みことばに従っていくことそのものが、結果として「良い行ない」となるのです。神様は聖書のみことばを与えてくださっているがゆえに「その良い行ないをも、あらかじめ備えている」と言われるのです。
黙示録3:3ーだから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか決してわからない。
福音を思い出し、イエス・キリストの救いのみわざを思い出し、その福音に留まること、そのみわざを感謝し、常に悔い改めの祈りにより立ち返ることが勧められています。
みことばに留まらなければ、主が再臨されることも知らずに、のほほ〜んと未信者と何ら変わることのない生活を続ける霊的に死にかけたクリスチャンとしての生活を送ることになるのです。神様の御前に「行ない」を全うするどころではありません。
主の再臨は、ニ度あります。
一度目は、空中再臨…普段と何ら変わりのない、平和な時にある日突然 空中まで信者を迎えに来てくださいます。cf マタイ24:36~42。
*42節でも主は「目をさましていなさい。」と言われています。
1テサロニケ4:16~17ー主は、号令と、御使いのかしらの声と、神の*ラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
1コリント15:52ー*終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
*終わりのラッパ…黙示録にある「ラッパのさばき」のことではなく、ラッパの祭りの時に吹かれる100回目のラッパの響きのこと。
二度目は、地上再臨…明らかに普段の日とは異なる時に起こります。cf マタイ24:29~31。
*30節で、地上の人々が悲しみながら、主の再臨を見るのは、彼らが不信仰だからです。
一度目は「教会時代、つまり恵みの時代の終わり」に信者を迎えるため、二度目はその後の七年間の「患難時代」を挟んで、患難時代の最後に起こる出来事です。なぜなら、黙示録3:10で主がこう約束されているからです。
黙示録3:10ーあなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。
*全世界に来ようとしている試練の時…患難時代。
霊的覚醒して、イエスの戒めを守る者には「全世界に来ようとしている試練の時(=患難時代)には、守ろう。」と言われています。
どうかすべての主を信じる者が、みことばを読み、主に祈り、霊的覚醒して「良き働き人、良き証し人」として「良い行ない」に歩めますように。