サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

現代のクリスチャンへ 〜決算報告書を準備せよ〜

1コリント2:14生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

 

最初の人間アダムとエバがエデンの園で神の命令背き、『霊的に死んだ』状態になった後、エデンの園の外で子孫が誕生しました。彼らは男の子二人に恵まれましたが、信仰を持った弟アベルは、信仰を持たない兄カインに殺されてしまいました。殺人を犯したカインは「さすらい人」となり、両親の元から去って行きました。

 

創世記5:3ーアダムは、130年生きて、彼に似た、彼のかたちどおりの子を生んだ。彼はその子をセツと名づけた。

次に与えられたのが、三男セツです。彼によって「女の子孫」が継承されることになりますが、セツは「霊的に死んだ状態のアダムに似た、アダムのかたちどおりの子」でした。

 

ヘブル人への手紙11章には「信仰によって」と20回書かれています。旧約時代の信仰による義人たちの名前が列挙されていますが、初めて登場するのは「アベル」です。次に登場するのが「神とともに歩み」、旧約時代の携挙の型となった「エノク」です。残念ながら私たちの先祖となる「セツ」の名前はありません。

 

つまり、肉体でこの世に誕生しただけの人間は、霊的には「死産」の状態であるということです。そのため、「神の御霊に属することを受け入れられず、それらは愚かなこと」だと思うわけです。御霊のことは、霊的に復活して初めて理解し、価値あるものとなるからです。キリストを信じる者と信じない者の価値観の違いは、ここにあります。自己中心か、神中心かにね。

 

クリスチャンの内には三位一体なる神が住まわれます。

《御霊の内住》

ヨハネ14:16~17ーわたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。

 

《御父・御子の内住》*これは新約時代の神の奥義です。

ヨハネ14:23ーイエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

 

聖霊の働きは、旧約時代にもありました。しかしそれは『内住』ではなく『人の上に下る』というものです。

 

神様のご計画を達成するために選ばれた人の上に下り、達成すると神のもとに帰って行かれました。また、その人がその御業をするのに相応しくない罪を犯すと、聖霊をその人から取り去り、目的達成のために別の人をたてて、その人に聖霊をお授けになりました。

 

cf 1サムエル16:14主の霊はサウルを離れ、主からの悪い霊が彼をおおった。

【主】の御声に聞き従わなかったサウル王は、聖霊を取り去られてしまいました。

 

cf 詩篇51:11ー私をあなたの御前から、投げ捨てず、

あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。

姦淫の罪を犯したダビデは、「聖霊を取り去らないで欲しい。」と祈っています。

 

しかし新約の教会時代になると、「聖霊を取り去る」という表現ではなく、「悲しませないように」と勧められています。

cf エペソ4:30神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

 

せっかくイエスを救い主と信じ救われたのにも関わらず、いつまで経っても霊的に成長せず「みことばの乳」だけを飲んでいるような信仰では、聖霊を悲しませることになります。

 

父なる神様は、恵みにより信仰によって「神の子」となった私たちクリスチャンの『霊的成長』を願っておられます。生まれたばかりの我が子の成長を願う父親のように…初めての誕生日を迎える頃には伝い歩きをしてるでしょう。二度目の誕生日を迎える頃には、片言会話もできるようになってるでしょう。三度目の誕生日を迎える頃には、走り回ったり、幼いながらも下の子の面倒をみるのを手伝ってくれるようになっています。

 

しかし信仰により霊的に新たに生まれ(霊的復活)、神の子となった後はどうでしょう?離乳食に進みましたか?ドロドロのゴックン期ですか?モグモグ期ですか?それとも大人と同じ固形物を咀嚼できるほどに成長しているでしょうか?cf ヘブル5:12~14。

 

霊的成長は、行動となって現われます。

cf ヤコブ2:14ー私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。

 

cf ヤコブ2:17~18信仰も、もし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

さらに、こう言う人もあるでしょう。「あなたは信仰を持っているが、私は行ないを持っています。行ないのないあなたの信仰を、私に見せてください。私は、行ないによって、私の信仰をあなたに見せてあげます。」

 

では、行ないだけがある人はどうでしょう?

自分は信仰があると思い込み、「クリスチャンはこうあるべき」という自分の中でイメージした『クリスチャン像』に従って一生懸命生きている人がいます。

そういう人は、肝心なことを理解していません。

 

聖書が言う「良い行ない」は、人間が「〜すべき」と決めたり、勝手に思い込んだことをすることではありません。それは聖書のみことばを読み、主イエスの命令に従った結果「良い行ない」として外側に現われてくるものです。

 

cf エペソ2:8~10ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

 

ですから、みことばを読まずして、自分が良いと思う行ないだけしていても、聖霊を喜ばすことはできません。みことばを読んでいても、行ないが伴わなければ、正しい意味で理解した(固形物を咀嚼できる大人の)信仰とは言えないのです。

 

では、なぜこのようなことになったのでしょう?

ヒントは、パン種のたとえとラオデキヤの教会にあります。

 

マタイ13:33ーイエスはまた別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」

女…霊的・宗教的存在のことです。cf 黙示録17章。 

パン種…罪の象徴。cf 1コリント5:6~8,マタイ16:6,11~12。

三サトン…三つに分かれた教会ーローマ・カトリック東方教会プロテスタント。どれも内部に教義的腐敗があります。 

入れる…原語では「隠す」の意。

 

黙示録3:20ー見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

戸…文脈から「ラオデキヤにある教会の戸」です。心の戸ではありません。ラオデキヤの教会の記述は、一世紀当時実在した教会についてだけでなく、教会時代の終わりの「背信の教会時代」ーつまり現在の教会を預言しています。

 

約二千年の教会時代の中で、ローマ・カトリック東方教会プロテスタントとそれぞれ大きくなったものの、サタンによって聖書の教義にパン種を入れられてしまい、今では多くの教会が、キリストを教会から追い出し、文脈を無視した私的解釈の適応メッセージばかりが中心に語られるようになってしまいました。

 

イスラエル国家が再建されている「今」は、いつでも反キリストと契約を結ぶことができるようになっています。それは「七年間の患難時代」の幕開けを意味します。そしてその前に、神はご自分の民をキリストの花嫁として(イスラエルは父なる神の妻、教会はキリストの花嫁として聖書は描写しています。)迎えに来られるのです。それを「携挙」と言います。cf 1テサロニケ4:16~17,1コリント15:52。

 

私たちはキリストの御前に立った時、この世での信仰生活の決算報告をしなくてはなりません。

和訳聖書では「さばき」という言葉が使われていますが、有罪か無罪かを決める「さばき」ではなく、どのように信仰生活を送ってきたのかによる、褒美を決めるためのものです。cf 1コリント3:10~15。

 

1コリント3:10ーあなたの信仰の土台はどこに据えられていますか?

「行ない」ですか? 「伝統」ですか? 「感情」ですか?「牧師や神父の説教」ですか? 聖書以外の「副読本」ですか?

 

1コリント3:11ー聖書は、私たちが信仰の家を建てる土台とすべきは『イエス・キリスト』であると断言しています。イエスは『神のことば』ですから、聖書のみことばの上に信仰の家を建てるべきです。cf ヨハネ1:14。

 

1コリント3:12ー信仰の家のが問題にされています。

金・銀・宝石…火で試された時、燃えずに残ります。しっかりとみことばに結びつき、みことばに従った「行ない」を伴う信仰生活をした人のことです。

 

木・草・わら…みことばの種が『岩地』や『いばらの中』に蒔かれた、不安定な信仰生活をしてきた人のことです。救われてはいますが、霊的に幼子の信仰なので、結ぶべき信仰の「実」を結んで来なかった人です。cf マタイ13:20~22。

 

1コリント3:13ーキリストの御前で信仰生活は、火によって真価を試されます。

信仰による働きの真価が試されるのです。

 

1コリント3:14金・銀・宝石で信仰の家を建てた人は、建物が残るので報いを受けることができます。

 

1コリント3:15木・草・わらで信仰の家を建てた人は、燃えてしまうので損害を受けることになります。しかし、イエスを救い主と信じる信仰により、その人自身は「火の中をくぐるようにして助かる。」とあるので、天の御国に入れてはもらえますが、報いは何もありません。

 

あなたは、主イエス・キリストの御前に神の栄光と喜びを持って出られますか?それとも恥じ入りながら、命からがら恐る恐る立ちますか?

 

私たち異邦人が救われたのには、もう一つ、神様のご計画があります。

異邦人信者(メシアニック・ジェンタイル)が救われた喜びに満たされ、生き生きとした信仰生活を送ることにより、ユダヤ人たちに妬みを起こさせるというものです。その妬みを通して、ご自分の民であるユダヤ人をメシアであるイエスを信じる救いへと導くというものです。cf ローマ11:11~14。

 

ローマ11:11ーでは、尋ねましょう。彼ら(ユダヤ人)がつまずいたのは倒れるためなのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、彼らの違反によって、救いが異邦人に及んだのです。それはイスラエルにねたみを起こさせるためです。

11:12ーもし彼らの違反が世界の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのなら、彼らの完成は、それ以上の、どんなにかすばらしいものを、もたらすことでしょう。

11:13ーそこで、異邦人の方々に言いますが、私は異邦人の使徒ですから、自分の勤めを重んじています。

パウロは、異邦人の使徒であって、12使徒の一人ではありません。

11:14ーそして、それによって何とか私の同国人にねたみを引き起こさせて、その中の幾人でも救おうと願っているのです。

 

しかし、現実はどうでしょう?私たちの信仰は、彼らに妬みを起こさせていると言えるほど、熱い信仰でしょうか?「このみことばの意味さえ知らなかった。」という方もおられるのではないでしょうか?

私たちが救われたのには、目的があるということをみことばから再確認してください。みことばを読んでください。みことばに従って歩んでください。天に宝を積む信仰生活をしてください。

すべては今、この地上でどのような信仰生活を送るかに掛かっています。

 

救われた者として、豊かな信仰の実を結ぶことができますように。いつでも主の御顔を仰ぎ見ることができるよう、みことばによって霊的覚醒したクリスチャンとして、成長していけますように。

 

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