生まれながらの人は、人生で起こる喜怒哀楽の様々の出来事を通して、神様がご自分に立ち返れるように『分岐点』を、また教会やクリスチャンの友人を側に置いて『道しるべ』を示してくださっていることにも気付かずに生きています。
それでも『天国』に自分は入れてもらえると思っているし、実際の葬儀では残された者たちは、あたかもその人が『天国』にいるかのように話しています。
これって、どこかに『セカンドチャンス』があると思ってるってことかな?
エホバの証人の方たちは、にっこり微笑んで「エホバの良いたよりを聞かずに亡くなった方は、死後永遠の楽園に復活して来て、エホバの証人から教育を受けることができますよ。」みたいなことを言われます。
あっ、でも『エホバの良いたより』を聞いた上で拒んだ人は『無』になり、復活はしないそうですが…(だったら家に尋ねて来て欲しくないな〜。復活のチャンスがなくなっちゃうもん。)
でも、ものみの塔(通称:エホバの証人)だけでなく、一部の教会でも『セカンドチャンス』ーこの場合、復活ではなく『永遠のいのちに至る救いの機会は死後にもある!』とする教えを説いている所がありますね。
本当に死んだ後にもう一度『救い』のチャンスがあるのなら、今のこの人生は自分の好き勝手に生きて、死後(あら、本当に神様っていらしたのね。じゃあその『永遠のいのち』とやらを頂くために、神様を信じてあげましょうか。)ということになりませんか?だってその方が得じゃない?!
もし本当に死後にも『セカンドチャンス』があるのだとしたら、『今』主イエスを救い主として信じ、みことばに従う人生に何の目的があるのでしょう?
何のために神は66巻からなる分厚い聖書を人間に与えられたのでしょう?『セカンドチャンス』を説く人たちが、主に頼みとする聖句は、この66巻もある聖書の中でたった9つの聖書箇所しかありません。
それらは、ルツ記2:20、エレミヤ18:8、ヨハネ5:25 & 28、1ペテロ3:18~20 & 4:6、ピリピ2:10~11、1コリント15:29、1ペテロ3:19、黙示録5:13 & 20:11~15です。その中でよく引用されるのが1コリント15:29と1ペテロ3:19の2つの聖句です。
これら聖句のゆえに、その他の箇所が無駄になるなんてことがあり得るのでしょうか?
おそらく、聖書解釈に違いがあるのでしょう。
私は、聖書解釈にはルールが必要だと思っています。そのルールに従って旧約聖書も新約聖書も理解すべきだと思っています。そのルールとは、以下のことです。
①字義通りに読む。
②文脈に沿って読む。
③みことばに付け加えたり、差し引いたりしないー申命記4:2。
④私的解釈をしないーⅡペテロ1:20。
⑤聞いたことを鵜呑みにせず、みことばで確認するー使徒17:11。
(みことばをみことばで確認する。)
このルールに沿って、この2つのみことばを見ていきましょう。文脈に沿って読むことが必要なので、章全体か少なくともその前後、1コリント15:12~34くらいの範囲は読むべきですね。
1コリント15:12ーコリントはギリシャにある町で、そこの教会に集っていたのはギリシャ人(異邦人)でした。ギリシャは元々、ギリシャ神話でも分かるように多神教の国です。当然教えもそれぞれの神々に合わせて複数あったことでしょう。cf 使徒17:22~34。
ギリシャ人は霊魂の不滅を信じていましたが、肉体は復活しないと考えていたようです。その古い教えが基で、キリストの福音を聞いても「死者の復活はない。」と言う人々が、コリントの教会の中にもいました。
1コリント15:13ーそこでパウロは「死者の復活はないのなら、キリストも復活されなかったはずだ。」と逆説的に言っているのです。
1コリント15:14ーキリストの復活がないのだとしたら、パウロたちの宣教活動もコリントにいる信者たちの信仰も、実質がないものとなってしまいます。
1コリント15:15ーそれだけではありません。復活がないのに「神はキリストを復活させた。」と宣べ伝えていたパウロたちは、神に逆らう証言をしたことになってしまう、とまで言っています。
1コリント15:16ーギリシャ人が言うように、もし死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったはずですよね?!
1コリント15:17ーキリストの復活がないのなら、キリスト教信仰は意味がなくなり、罪の赦しもなくなってしまいます。なぜなら、罪から来る報酬が「死」だからです。
cf ローマ6:23ー罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
1コリント15:18ー復活がないとしたら、当然永遠のいのちもないわけですから、キリストを信じて肉体の死を迎えた人たちは滅んでしまったことになります。
1コリント15:19ーこの世で単にキリストに希望を置いているだけであるなら、キリストを信じる者たちは、この世のすべての人々の中で一番哀れな者だとまでパウロは言っています。
*これも逆説法です。
1コリント15:20ーここでパウロは、力強く説いています。実際にキリストは『眠った者の初穂として死者の中からよみがえられた』と。
初穂…後に続く者があるから「初穂」と言うのです。つまり、キリストの復活に続いて、信者の復活もあるのだ、とパウロは説いているのです。
1コリント15:21ー死がひとりの人を通して来た…cf ローマ5:12ーそういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、ーそれというのも全人類が罪を犯したからです。
アダムによって罪がはいり、罪によって死がはいったのなら、キリストひとりによって死者の復活もあるのだ、とパウロは説いてます。
1コリント15:22ーアダムによってすべての人が『霊的に死んだ』ように、キリストひとりによって『霊的に生かされる』ようになると。
1コリント15:23ーしかし、復活には順番があるのだと。以下、聖書から復活の順番を挙げてみます。
①初穂であるキリスト。
②空中再臨の時、教会時代のキリストにある死者ー1テサロニケ4:16。
③携挙の時に生き残っているキリスト者ー1テサロニケ4:17。
*②と③は同時に起こります。厳密に言うと③は復活ではなく、変えられるということです。cf 1コリント15:52。教会時代の信者はキリストの花嫁として、天で結婚式を挙げることになります。
④二人の証人ー黙示録11:3~13。
⑤旧約時代の聖徒たちーダニエル12:1~2、イザヤ26:19。
⑥患難時代の聖徒たちー黙示録20:4~5。
*⑤と⑥は、千年王国への準備期間である『75日間』に同時に起こります。cf ダニエル12:11~12。
⑦神とキリストを信じなかった者たちー黙示録20:13~14。
*⑥と⑦の間は千年という隔たりがあり、復活後の行き先が違います。⑦は天国ではなく、燃える火の池の中へと送られます。
1コリント15:24ー終わり…地上での『千年王国』の終わりのこと。
『千年王国』というキリストを王とする専制君主国を、父なる神にお渡しになります。
1コリント15:25ーすべての敵…千年王国の最後に『底知れぬ所』に閉じ込められていたサタンは解き放たれ、最後の反撃を試みた後、燃える火の池に投げ込まれます。cf 黙示録20:7~10。
1コリント15:26ー最後の敵はサタンではなく『死』です。
つまり人間は神とキリストを信じる者も信じなかった者も復活させられ、永遠のいのちを与えられるということです。しかし、信じない者は復活のからだで永遠に苦しむことになる『燃える火の池』に送られることになります。cf 黙示録20:14~15。
1コリント15:27ーすべての被造物がキリストに従うことになります。この時、キリストは万物の創造主ですから、ご自身はその中に含まれることはありません。
cf コロサイ1:16ーなぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。
1コリント15:28ー三位一体の第二位格なる『御子』としての働きは『万物をその足の下に従わせた』時までです。cf 詩篇8:6
神がすべてにおいてすべてとなられる…神は『死ぬ』ことはありません。罪を犯し『死』がはいってしまった人間を救うには、人間より尊い存在の犠牲を必要とします。神が神としてだけで人間界に来られても『贖いの死』を遂げることは出来ないので、神は『人』として『死ぬ』ために来られたのがキリスト・イエスです。cf ピリピ1:6~11。
人類救済のみわざを完成された後は、『御子』としての役割を終えられたことになります。ですからもう『三位一体』という形ではなく、創世記1:1にある『エロヒム』なる神としての存在に戻られるのです。
1コリント15:29ーパウロはこのようにキリストの復活だけでなく、神を信じる者はみな復活の恵みに与るということ、また信じなかった者にも復活はあるということを説いてきた中で、問題の聖句となるわけです。
もしこうでなかったら…つまりここでパウロが言わんとしていることは、『死者の復活がない』としたらという『仮定法』です。
死者のゆえにバプテスマを受ける…『キリストの復活がなく、死にっぱなしっだたら』何のために死んだ人『キリストの御名によるバプテスマ』を受けるのか?ということを訊いているのです。
1コリント15:30ーパウロたちは迫害によっていつも殉教の危険にさらされていました。しかし彼らが耐えられたのは『死者の復活はある』という希望があったからです。
1コリント15:31ーパウロたちにとっては、日々殉教の死を隣り合わせだったのです。
1コリント15:32ーキリストの復活も死者の復活もないのだとしたら、自暴自棄になるとパウロは言っています。
1コリント15:33ーパウロはギリシャの諺を用いて、誰から教えを受けるかが重要だと言っています。
1コリント15:34ー死者の復活はあるのだから、自暴自棄にならず、希望を持って正しい生活を送り、罪をやめるようにと勧めています。
神について正しい知識を持っていない人から教えを受けると、とんでもない思い違いをすることになるのです。
ですからみことばは、字義通り、文脈に沿って解釈すべきでなのです。
1コリント15:29の聖句を一つだけとって①死者の代わりにバプテスマを受ける習慣があったとか、②故人を喜ばせるためにバプテスマを受けるとか、③殉教の比喩的表現だとか、④事実として、コリントの教会で『死者のゆえのバプテスマ』が行なわれていたというのは、どれも間違いです。
私たち現代のキリスト者も『父・子・聖霊の御名によるバプテスマ』を受けるということは、十字架で事実死なれたキリストの『死者のゆえのバプテスマ』を受けています。なぜならキリストは、『私たちの罪のために十字架で死なれ、三日目によみがえられた』からです。
ですから『死者のゆえのバプテスマ』とは、死んで復活されたキリストにつくバプテスマなので、現在でも行なわれているものです。
セカンドチャンスを説く人々が引用するその他の箇所でもそうですが、『死人』という言葉を『肉体の死』と限定し、人間は『霊的に死んだ状態で生まれて来ている』ということを理解していません。
また『復活』も今の罪ある肉体での『蘇生』的なイメージを持っているのです。だからパウロはこの後、『天上のからだ』があると言っているのです。
では、もう一つの聖句、1ペテロ3:19を見てみましょう。
1ペテロ3:19ーその霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。
捕われの霊たちのところ…文脈からここでは『ノアの時代に従わなかった特定の霊たち(堕落した天使たち)のいるところ』を指しています。cf 1ペテロ3:20。
みことばを宣べられた…これは日本語の訳に問題があります。原文には『みことばを』という目的語はありません。また『宣べられた』と訳されている言葉は、原語では『ケイルッソ』という動詞で、『宣言する』という意味です。
では、キリストは何を『宣言された』のでしょうか?
それが創世記6章でノアの洪水の原因となった墮天使たちが閉じ込められている所に行って、『女の子孫』として誕生する『メシアの誕生を阻止しようとした計画は失敗に終わった』ことを宣言されたのです。
死者にもみことば(福音)を語って悔い改めを迫り、セカンドチャンスを与えたわけではありません。救いのチャンスは、今、肉体が生きている間だけです。だからパウロたちは殉教の危険があるにも関わらず、みことば(福音)を宣べ伝え続けたのです。
どうか聖書を正しく文脈に沿って読み、理解することができますように。肉体のいのちがあるうちに、万物の創造主であり、救い主である神の御子イエスをキリストと信じることができますように。
また信じるだけでなく、御霊によって成長し、豊かな霊の実を結べるクリスチャンとなれますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。