サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

苦しみの十字架

ヘブル12:2ー信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。

 

最近、礼拝で『十字架の主』があまり語られなくなったと感じているのは、私だけでしょうか?

バイブルスタディでは、時々語られているのでしょうか?

 

マタイ26:39ゲッセマネの園での「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」という祈りの『杯』を『十字架の苦しみのこと。神の子としても肉を持っていたので、痛み苦しみに対する恐怖があった』と思っている方も多いかもしれません。

 

マタイ16:21ーしかしそれでは『ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。』というみことばと矛盾します。

 

イエスは自ら十字架で死ぬことを預言されていたのです。自ら進んで十字架にかかってくださったのです。

 

イエスが『はずかしめをものともせずに』忍ばれた十字架を正しく理解することなく、中世の宗教画のような『綺麗な十字架』や『アクセサリー的な十字架』のイメージで語っても、たましいを救う力は半減されてしまいます。十字架の真の意味を知って初めて、自分の罪の大きさや神の愛が分かってきます。

 

 もう一つ、宗教画が間違って描かれている点があります。それは下着を着けている点です。

当時の男性の衣服は、頭を覆う布、上着、下着、サンダル、外套でした。4人のローマ兵が一つずつ分け合い、下着はくじで一人が独占しました。ーcf ヨハネ19:23~24、詩篇22:18。

 

女性が言うには少々抵抗がありますが…十字架刑は、丸裸で受けるものです。トイレに行くために、いちいち降ろしてくれるわけではありません。当然…(#^.^#)…ですね。

 

これらを踏まえて、十字架の主を見て行きたいと思います。

 

マルコ15:25午前9時…イエスは十字架に付けられました。ゴルゴダの丘で、神の子羊がほふられたのです。一方神殿では、過越の子羊がほふられていました。

 

十字架は、罪人を長時間苦しめるために考案されたローマの極刑です。「手の釘の痕」と言うと、すぐに手の平を思い浮かべますが、実際は手首の骨と骨の間に釘が打ち込まれました。他に支えるものがないので、手の平だと体重で肉が裂けてしまうからです。足は両足を重ね膝を曲げて、1本の釘が打たれました。

 

十字架の死因は何だと思いますか?

多くの人々は「失血死」と答えられるでしょうが、失血死ではありません。死因は『呼吸困難』です。

 

両手首と両足の3カ所で全体重を支えていて、膝は少し曲げられた状態です。このような状態だとまず自分の体の重みで下にさがり、両肩の関節がはずれます。肩の関節がはずれることにより、胸が広がらなくなり肺が圧迫されて、呼吸が苦しくなります。

 

そこで足元の足台を使って曲げられた膝を伸ばすことにより、体を上にあげて息を吸うのです。賛美歌にもあるように、十字架の木は荒削りです。イエスの背中は鞭打ちにより傷だらけ…それが呼吸をする度に木にこすりつけられる状態です。あなたなら耐えられますか?自分に罪はないのに…

 

イエスはユダヤの最高刑である39度の鞭打ち(イエスの十字架の少し前に、ローマ政府により死刑制度は剥奪されていました)とローマによる鞭打ち(鞭の先に動物の骨や釘などがついたもの)の刑を受けていました。その分、身体は弱っていたので十字架の横木を途中で背負えなくなってしまったのです。

 

一方、両隣の強盗たちは鞭打ちの刑は受けていないので、体力が残ってたので、死期を早めるためにすねを折られ、踏ん張ることができないようにされたのです。イエスは既に息を引き取られた後だったので、すねを折られずに済んだのですが、それは預言の成就でもありました。cf 詩篇34:20。

 

マタイ27:34ー提供された「苦みを混ぜたぶどう酒」とは、没薬入りで鎮痛剤として用いられ、十字架の苦しみを和らげるものでした。しかしイエスはそれをなめられただけで、飲もうとはなさいませんでした。霊の戦いを最後まで戦い抜くため。私たちのために死の苦杯を最後の一滴まで飲み干すためです。

 

このような苦しみの十字架の上で、イエスは七つのことばを発しておられます。順を追って見て行くと、イエス様の息遣いが分かってきますよね?!  時間の経過とともにことばが段々短くなってきています。

 

ルカ23:34十字架にかけられた直後。父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 

ルカ23:43「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」

 

ヨハネ19:26母マリヤに対して。「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」

 

ヨハネ19:27ー愛する弟子、ヨハネに対して。「そこに、あなたの母がいます。」

信仰により神の子とされた『神の家族』を大事にするように教えられました。母マリアにはヨセフとの間に6人(以上)の子供たちがおり、そのうち4人は男の子でしたから普通なら彼らがマリアの面倒をみるはずです。cf マタイ13:55。しかし実際にマリアを引き取ったのは、弟子のヨハネでした。

 

マタイ27:46イエスの苦しみの絶頂。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」

*「エリ、エリ、」はへブル語。「(エロイ、エロイ)レマサバクタニ」はアラム語。 

朝9時に十字架に付けられたイエスは、正午〜午後3時までの間、私たちの身代わりとして神の怒りを体験しました。この時、全地が真っ暗になったのです。イエスの4番目の十字架のことば「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」は、この時に発せられました。

 

これは詩篇22:1わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。の引用ですが、当時の理解では、22篇すべてを引用したことになります。イエスは福音書の中で神を「父」または「わたしの父」と呼ばれ、常に密接な関係を持たれていました。(ですよね…ヨハネ10:30だもの)

 

しかし、ここでは「わが神」と呼びかけられています。この時、イエスは霊的に死んだ状態となり、神に助けを求めているのです。この『御父との霊的断絶』をイエスは、血の汗を流して祈られるほど辛く苦しい状態であり、それが『杯を取り去って欲しい。』という意味です。

 

また御父は、愛するひとり子が人類の身代わりとなって苦しむ姿を直視できず、目を背けられたのだとか、人間の罪は真っ暗(黒)なほどに汚れたものであり、光の無いやみの世界だという解釈も可能でしょう。

 

ヨハネ19:28聖書が成就するため。「わたしは渇く。」…御父との霊的断絶による『霊の渇き』であると同時に、不信仰により神と永遠に断絶された者たちがハデスやゲヘナで味わうことになる『霊的渇き・苦しみ』。

 

ヨハネ19:30「完了した。」*テテレスタイ…「借金が返された」の意。ギリシャ語。

 

ルカ23:46死の直前。父よ。わが霊を御手にゆだねます。」

この時点で、イエスは霊的に復活しています。つまり、聖霊によって母マリヤから誕生したイエスは、神の御子として生まれながらに『霊・肉』ともに生きていました。それが、十字架上での後半の3時間、霊的に死に、霊的に死んだ状態で生まれてくる私たち人間と同じになられたのです。そして、私たちが肉体が生きている間にキリストの贖いを信じると、御霊が宿り、霊的に生きる者となるように、イエスは肉体の死を迎える前に『霊的に復活』されたのです。

・御子…霊・肉ともに生きた状態で誕生→十字架上で霊的死→霊的復活→肉体の死→三日後に肉体的復活。

 

・信者…『原罪』により、霊的に死んだ状態で肉的に誕生→信じた時に御霊の内住により、霊的復活→肉体の死→栄光のからだで復活。

 

イエスが十字架で息を引き取られたのは、ニサンの月の15日(金)午後3時です。各家庭で過越の子羊がほふられるのは、午後3時頃だったことと符号しているのです。

 

死の直前のことばは再び「父よ」と呼びかけられているので、御父との関係が回復していることがわかります。このことから、主イエスは十字架の上で肉体の死を遂げる前に、霊的にも死んで復活されたことがわかるのです。

 

 

イエスとともに十字架に付けられた強盗は二人。一人は右に、一人は左に…イエスが再臨された時、羊を右に、山羊を左に分けられるのと同じことに気付かれましたか?そのことから、最初は二人共イエスをののしっていましたが、最後にぎりぎりのところで救われたのは、右側の強盗だったことが分かります。

 

十字架についた状態での信仰告白ですから、何の働きも出来ていません。しかし、彼はその信仰告白により『パラダイス』に行く切符を手に入れました。そして聖書に記されることにより、二千年もの間、『救いは恵みと信仰によってである』ことを証言して、主のための働きをしています。

まさにエペソ2:8~10にある通りです。

 

しかし、これを読まれているあなたは十字架の上から読んでいるわけではありませんよね?!

主の御用のために働くことのできる足があり、手があり、みことばを語る口があり、他者の苦しみや辛さを聞いてあげることのできる耳もありますよね?! 

 

であるなら、いつまでも教会のお客様信者で聞くだけの、受けるだけの者でいるのではなく、このイエスの十字架の土台の上に信仰の家を建てる時が来ているのではありませんか?

まずは、あなたが知っているイエス様のことを誰かに話すことから始めてみませんか?

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