1コリント15:2ーどんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。(新共同訳)
パウロは、教会として成長過程にあったコリントの教会へ宛てた手紙の中で、『私が告げ知らせた福音によって救われる』と言い、またガラテヤ人への手紙では、パウロははっきりと『キリストの福音とはパウロたちが宣べ伝えた福音だけであり、もう一つ別に福音があるわけではない』と言っているのよね。
ガラテヤ1:6~9ー私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。
ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。
しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もし誰かが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているなら、その者はのろわれるべきです。
パウロがここまで力を込めて語っている『福音』とは何でしょう…?
パウロはコリント人への手紙でこのように言ってます。
1コリント15:3~5ー私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
ここには『福音の三要素』または『救いの三要素』といわれる三つのことが書かれていて、それが『パウロたちが伝える福音』なのですよ。それらは
(1)キリストは、私たちの罪のために死なれたこと。
(2)葬られたこと。
(3)三日目によみがえられたこと。
でもね、日本のクリスチャンの伝道にあまり力が無いのは、伝えるべきこの『福音』の内容に確信がないからなんじゃない⁈
何を『罪』と言うか定義が曖昧だから、自信がなくて、質問されても答えられないから尻込みしちゃうんじゃない?!
でもみことばにより確認できた時、伝えたくなっちゃうってことがどのクリスチャンにも起こるのです。なぜって、御霊が内住されているからね。私たちに力があるのではなく、神のみことばに力があるのだから。
あのね、神様がアダムを地のちりから造られた時、その鼻から『いのちの息』を入れられて、アダムは初めて神様の目から見て『生きもの』となったの。創世記2:7。
『いのちの息』の『息』っていう原語は、詩篇104:30では『御霊』って訳されているの。同じ単語。
つまり、土地のちりで造られた肉体の中に、神様からの『御霊』が入れられて(内住して)初めて人は『生きもの』『神の御前に生きている』と認められるわけ。
アダムに与えられた住まいは、エデンの園。そこの管理が彼のお仕事。そこでのルールはたった一つだけ…『園の中央にある善悪の知識の木の実を食べてはいけない。』というもの。
違反したら、即『死刑』という厳しい法律。
食べてはいけない物を、なぜわざわざそこに置いたかって…?
事の善悪を決めるのは、創造主なる神様が基準だからですよ。神を神としていれば、神の命令を守って暮らし、たとえ禁断の木の実が近くにあっても、手を伸ばして食べたりしません。だからその木を置くことによって、被造物なる人間が神を神としているかのバロメーターだったのです。
同じく園の中央にあった『いのちの木の実』は食べてもよかったわけですから、先に食べればよかったのです。そうしたら、そのまま『義』が確定し、神の祝福のうちにエデンの園は拡大していったのです。
アダムがエデンの園に置かれ、神から園の法律(ルール)を告げられた後で、妻が与えられました。
妻り…違った(^^;;)。つまり妻であるエバは、園の法律を直接神様から聞かされたのではなく、夫アダムから聞いたの…又聞きってやつね。だからサタンは蛇を用いて、又聞きのエバを誘惑したのです。「本当?」って、神のみことばに疑いを起こさせるためにね。
創世記2:17で、神がアダムに命じられた内容と、創世記3:3で、エバが答えている内容を読み比べてみて。エバは三つも間違えてるのに気付くかな?4節で蛇は、神のみことばを完全否定してるでしょ?これ、サタンの手口ね。①みことばに疑いを起こさせ、②完全否定する…。ひっかかっちゃダメよ!
創世記3:5の蛇の言葉は、一言も『善悪の知識の木の実』って言ってないのよね〜。
『神のようになる』という誘惑の言葉と『善悪を知るようになる』というヒントだけなの。それだけで6節でエバは『その木=善悪の知識の木の実』と思い込んだわけさ。
先入観を持って『その木』を見れば、それはそれは美味しそうに見えるよね。
だから…ヤコブ1:14~15ー人はそれぞれ自分の欲に引かれ、おびき寄せられて、誘惑されるのです。
欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
とあるとおりです
エバが罪を犯す手順は…①欲に引かれて『それ』を見る。②美味しそうに見える。③魅力的に思える。④手を伸ばして、取る。⑤共犯者をつくる、です。
ん…?! 『共犯者』?
夫アダムはこの時、どこにいたんだ???
創世記3:6ー『いっしょにいた』?! なに?いっしょにいたって?
妻が蛇から誘惑されていたのに、アダムは妻を守ろうとした?妻が神の仰せを間違って理解して答えてた時、アダムは訂正した?アダムは何か言葉を発してる?
「・・・」
なぜ…?妻を愛してなかったのかなぁ?…そんなことないよね。だって愛の神様に似せて造られたんだもの。創世記1:27。アダムはね、妻エバといっしょにいて蛇の言葉を聞いているうちに、エバと同じように誘惑されちゃったんだよ。ただ神の命令を直接受けてたから、自分からは罪を犯せなかっただけ。
もし神様の仰せのとおり、善悪の知識の木の実を食べたその時 エバが死んだなら、アダムは神様にこう答えることができたのよ。「主よ。私は仰せのとおり、善悪の知識の木の実は食べませんでしたが、妻は仰せに背き食べてしまったので死にました。」とね。わかる?アダムは食べても死ななかったエバを見て食べたのよ
つまり、アダムは神のことば(命令)と蛇の言葉とを天秤にかけ、どちらが正しいかを妻であるエバを使って確認してから(なぁ〜んだ、大丈夫!食べても死なないじゃん!!)という確信を持って食べたのです。確信犯なのよ。(男ってズルイよね〜^^;;)
蛇は『神のようになる』と誘惑し、神の法律違反者となった二人は『目が開かれた』…自我の目が開かれ、そしてお互いに『自分たちが裸であることを知った』のです。
神が『すべては非常によかった』と言われた裸であることを『恥ずかしい』と思うようになったのです。
全知全能の神のようになるはずでした。でも二人が裸を隠すために用意したのは『いちじくの葉をつづり合わせた腰のおおい』です。人類初のお裁縫です。耐久日数はどのくらいでしょう?ただの人工的な間に合わせでしかありません。
神は人を愛する対象として造られたのに、人は神の声を聞いて身を隠すようになりました。
神はアダムに「善悪の知識の木の実を取って食べるその時、必ず死ぬ。」と言われたのは、嘘だったのでしょうか?
やっぱり蛇を使って語られたサタンの言葉の方が正しかったのでしょうか?
神との交わりを避け、身を隠した…アダムのうちに入れられた『いのちの息(御霊)』が無くなったのです。つまり『霊的に死んだ』のです。それは、善悪の判断基準を『神中心』から『自己中心』になったことを意味します。それが『原罪』です。
罪人となった二人に、神の方から探しに来てくれました。「あなたは、どこにいるのか。」と。これが『恵み』です。アダムとエバは「ごめんなさい。」と神の招きに応じればよかったのです。しか〜し!自己中心となった二人は、謝罪をするどころか、アダムは妻エバとエバを造った神のせいにしてるのだ。
創世記3:12ー「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」
だから〜『責任を嫁に転がす』って書いて『責任転嫁』っていうでしょ?!
そしてエバは『責任転蛇』w。誘惑を仕掛けた蛇(サタン)は、神がどういうお方かよく知ってるだけに無言…。
ここからは、神様の判決が言い渡されるのです。男性代表としてアダムには、重労働と土地の呪い。いばらとあざみは、呪いの象徴。イエスのいばらの冠は、アダムの呪いを引き受けてくれたものなんだよ。泣けちゃうよね。(T T) 霊的に死んでしまったために、肉体の死が入って来たのもこの時から。
女性の代表であるエバは、月経痛と悪阻、陣痛というみごもりの苦しみを大いに増されてしまいました。
蛇(サタン)に対しては、呪いと3:15の『原初福音』を通して敗北を宣言されたのです。
自己中心になった人間を、永遠に生かして罪を犯し続けさせないようにするため、食べてもよかった方の『いのちの木の実』を食べさせないため、『いのちの木への道を守るために』エデンの園の東に二人を追放したのです。創世記3:24。
このとき二人の罪のための犠牲となったのが、皮の衣の提供者です
ローマ6:23ー罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。
とあるように、霊的に死んでしまったため神を神としなくなり、自己中心的に善悪を判断するようになった人間は『罪人』となったのです。
キリストを信じないから救われないのではなく、罪人となったアダムの子孫として生まれてきたために、生まれながらにして『死刑』を宣告されているわけです。死なない人間はいないでしょ?! 肉体が生きている間が刑の執行猶予期間。その間に霊的死の身代わりとなってくれる人を見つけるわけです。
鼻から『いのちの息』を入れられ『生きもの』となったのが、『いのちの息(御霊)』が抜けてしまった心に、キリストの十字架の死が自分の罪の身代わりだったと信じる信仰により、ペンテコステ以降ひとりひとりの信者のうちに戻ってきてくださったのです。ヨハネ14:16~17(14:23では御子も御父も内住されます)それが『霊的復活』です。
こうして『いのちの木』へ至る道は、キリスト・イエスが回復してくださったのです。ヨハネ14:6。
イエス様が花婿として迎えに来てくださる『携挙』の時、教会時代の信者は『復活のからだ』になります。
これが、パウロが宣べ伝えた最も大切な『福音』の三要素のひとつ
①キリストは、聖書の示すとおりに、『私たちの罪のために死なれたこと』です。