サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

ツァラアトに冒された人の癒し 〜マルコ1:40~45〜

「あなたにとって、イエス・キリストとはどんなお方?」と訊かれたら、何と答えますか?

救い主…助け主…慰め主…主の主…心の友…神様…いろいろあると思います。

 

今回の箇所の登場人物は、きっと『癒し主』と答えられるでしょう。

なぜなら、彼の『ツァラアト』という病気を治してくださったのが、イエス様ご自身だからです。

 

マルコ1:40ーこのツァラアトに冒されている人の置かれている状況を理解するには、レビ記13章全体を参考にしてください。

 

レビ記13:45~46ー患部のあるそのツァラアトの者は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口髭をおおって、『汚れている、汚れている。』と叫ばなければならない。

その患部が彼にある間中、彼は汚れている。彼は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければならない。

 

このような生活を強いられる時、人はどのような気持ちになるでしょう?明るく希望を持って生きられるでしょうか?

 

この人はイエスのみもとにひざまづいて、願って言いました。

「お心一つで、きよくしていただけます。」と。

 

なぜ「この病気を治してください。」と言わずに、「きよくしていただけます。」と言ったのでしょう?

この人にとっての本当の苦しみとは、何だったのでしょう?

『ツァラアト』という病気ですか?それとも『汚れている者』としての生活ですか?

 

マルコ1:41ーこの人のことを、イエスは深くあわれまれました。

私たちはどうでしょう?このような人が自分のそばに来たら、深くあわれんで、その人に触れることができるでしょうか?

 

この人にイエスは「わたしの心だ。きよくなれ。」と命じられました。

 

マルコ1:42ーすると、すぐにそのツァラアトは消えて、きよくなったとあります。おことば一つで、彼を苦しめる原因となっていた病気が消えたのです。

 

創世記1:3ーそのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。

 

*ことばでもって命じられるだけで、そのようになるというのは、人間には不可能です。しかし『神にとって不可能なことは一つもありません。』ルカ1:37

 

マルコ1:43ーなぜ、イエスは癒された彼を厳しく戒めて、すぐに彼を立ち去らせたのでしょう?

 

マルコ1:44ーイエスはこの人に行って何をするように求めていますか?また、それは何のためでしょう?

 

詳細は、レビ記14:2~10にあります。

レビ記14:7ーそれを、ツァラアトからきよめられる者の上に七たび振りかけて、彼をきよいと宣言し、さらにその生きている小鳥を野に放す。

 

祭司はツァラアトが消えたことを確認して『きよい。』と宣言するだけでした。

しかし、イエスが「きよくなれ。」とに宣言すると、直ちにツァラアトが消えました。このようなことをなさるイエスは、どのような方なのでしょうか?

 

マルコ1:45ーイエスに「気をつけて、だれにも言わないようにしなさい。」と戒められたのにもかかわらず、この人はふれ回り、言い広め始めました。なぜ、黙っていられなかったのでしょう?

 

嬉しい時、喜びに満ちあふれている時、人は黙っていることができなくなります。本当に救いを経験したクリスチャンも、同じように救われた喜びを人々に告げ知らせるのです。それが証しであり、『福音ー良い知らせ』なのです。

 

しかしこの時は、イエスがツァラアトを癒されたという『奇蹟』を求めて(イエスを『メシア』と捉えるのではなく、癒しの奇蹟を行なうお方として)、人々が殺到するようになりました。

そのため『町の中』に入ることができなかったとあります。結果として、彼は宣教の働きを妨害してしてしまったのです。

 

私たちもイエスを正しく認識し、正しく宣べ伝える必要があります。イエスは『奇蹟を行なう方』ではなく、私たちの不信仰の罪のために十字架で贖ってくださり、神様の裁きから救い出してくださる『メシア』であることを宣べ伝えなくてはなりません。

 

自分の願いを叶えてくれる方でもなければ、奇蹟のわざを行なうだけの方ではないのです。もし、イエスをそのような方と捉えているのであれば、自分の願う通りにならなかった場合、簡単に失望し「神はいない。」という結論に至ります。

 

聖書の神様は『ご利益宗教の神』ではありません。

町はずれの寂しい所にイエスを追い出すことのないように、イエスの命令(聖書のみことば)には従順である必要があるのです。

 

この時の人々は、町はずれの寂しい所におられるイエスのもとに、あちこちからやって来ましたが、現代人はイエスを探そうともせず、自分のことだけに関心を示します。

 

彼らにイエスを紹介できるのは、イエスを知り、イエスを信じ、神の子として頂いたクリスチャンだけなのです。

私たちの罪と汚れをきよめてくださったイエス・キリストが『救い主』であることを、今日も告げ知らせることができますように。