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サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

エペソ人への手紙 5章

 

私が信仰の道に入るきっかけとなったのは、万物を創造された父なる神という存在があるのなら、その『父なる神の愛にすがって生きたい!』という願いからでした。

 

家庭を顧みない肉の父に愛されていないという現実に、潰されそうになっていた時に、友人から紹介された宣教師から「神様はあなたを愛しておられます。」と聞いたのがきっかけでした。

 

週に一度、彼女の家で聖書の学びをすることに同意し、通い始めました。しかし、マタイの福音書から共に聖書を開いて読むというだけで、1章読む度に「何か質問はありますか?」と訊かれても、「何を訊いたらいいですか?」という状態で、質問が出るほどみことばを理解してはいなかったのです。

 

本当に右も左も分からないまま数ヶ月が過ぎた頃、通勤途中の地下鉄の中で不思議な体験をしました。混雑する電車の中で(嫌だなぁ。仕事行きたくないなぁ。)という思いでつり革に捕まっていた時、真っ暗なトンネルの中を通っている自分、そしてはるか遠くにロウソクの炎のような小さな灯を見たのです。

 

(えっ!! 何?今の…)と思った次の瞬間、頭のてっぺんからつま先までブワ〜ッと何か不思議なもので満たされる気がして、全身鳥肌が立ちました。しかし次の瞬間、イエス様が私の心の中に入って来られたのだと確信したのです。

 

理屈などありません。言葉での説明もできません。でも私が見た幻(?!)の意味は理解できました。暗かった長い長いトンネルは、それまでの私の人生。娘として愛されたいのに、愛してくれない父を憎もうとし、恨もうとしてた私の醜い心。

 

でも長年「パパ」と呼んで育った情により、憎みきれない心の矛盾に直面した時、反抗心から死をも考えたことがありました。勇気がなくて死ねなかっただけ…。悶々とした日々を送る中で見えたロウソクの炎のような一筋の光は、そんな暗い人生の出口…光の中に住まわれる神の助け、導きの御手だったのです。

 

地下鉄を降り、地上に出てすぐに宣教師に電話で、今の経験と信仰告白をしたのです。『幻』と呼べるような経験をしたのはこの時一度だけですが、後にこの時の経験が聖霊によるバプテスマだと気付き(使徒の働き2章)、またこの体験があったからこそ『聖霊による証印』の確信により、信仰生活を維持してこられたのだと思います。

 

『神様の愛にすがって、これからの人生を生きたい!』…主を信じた時は、たったこれだけの信仰でした。でも神様を信じて、裏切られたことは一度もありません。それどころか、何も分からなかった聖書のみことばを少しずつ理解できるようさせてくださり、理解したことを分かち合うようにと『御霊の賜物』まで与えてくださいました。

 

また、私の子どもたちまで私と同じ思いをしなくてもよいようにと、息子たちには素晴らしい父親を与えてくださいました。この愛の神様に、私は何をもってお仕えできるでしょう。失敗だらけではあるけれど、私のうちに生きておられるキリストを証しし、神様の栄光を現わしていくことだと思っています。

 

ガラテヤ2:20私はキリストともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

 

 

エペソ人への手紙4〜6章は、信仰の具体的適用論であり、5章ではクリスチャン生活の勧めについて述べられています。

 

たとえ肉の親に愛されていないとしても、天の父なる神は私たちを愛してくださっています。クリスチャンである、ないに関わらず、ご自分のひとり子イエスを与えてくださるほどに…です。

 

ヨハネ4:10ー私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のためになだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 

その愛を受け入れたクリスチャンは、信仰により『神の子』となったのです。

ヨハネ1:12ーしかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

 

詩篇27:9b~10ーあなたは私の助けです。

私を見放さないでください。見捨てないでください。

私の救いの神。

私の父、私の母が、私を見捨てるときは、

が私を取り上げてくださる。

 

エペソ5:1ーですから、神に愛されている子どもとして相応しく、神にならう者となるようにと、パウロは勧めているのです。子どもが親の背中を見て育つように、私たち信者はイエス様の背中を見て、霊的に育つ必要があるのです。

 

エペソ5:2ーもっと身近では、パウロもこう言っています。

1コリント4:16ーですから、私はあなたがたに勧めます。どうか、私にならう者となってください。

 

キリスト・イエスの愛は、十字架の犠牲によって表わされています。

ピリピ2:6~8ーキリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、

ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。

キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。

 

ヨハネ15:13ー人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。

 

神へのささげ物、供え物、香ばしい香…これらはすべて旧約時代の律法に基づく犠牲のささげ物に用いられた言葉であり、キリストはまさに『神の小羊』として、私たちの罪の身代わりとして十字架につかれたのです。

 

エペソ5:3ー聖徒…キリストを信じる信仰により、神に『義』とされ、神と和解した人々。

 

神を信じない不信者の生き方(不品行、汚れ、むさぼり)との違いがあります。本当の信仰の結果は、生き方に変化が現れるからです。

 

ヤコブ2:26ーたましいを離れたからだが、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。

 

エペソ5:4ーみだらなこと、愚かな話、下品な冗談…心にあることが言葉となって出て来ます。神の御霊に満たされていなければ、このような汚れですぐに心はいっぱいになってしまうのです。それが外に『言葉』となって出た時に、誰かを傷つける結果を招いてしまうのです。

 

ヤコブ3:8~10ーしかし、舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。

私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。

賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

 

エペソ5:5偶像崇拝…人間の手で作った偶像を拝む者だけではなく、全知全能の神以外のものを、神よりも大切なものとしていること自体が『偶像崇拝者』なのです。ある人にとっては、それはお金であり、名誉であり、プライドであり、趣味や仕事、また親や子ども、恋人だったりします。

 

本当の神を知った者にとって、これらのことは二の次、三の次の優先順位となるのです。もし神よりも大事なものが何か一つでもあるならば、悔い改めによる優先順位の変更が必要です。なぜならば、神を第一としない信仰は『キリストと神との御国(千年王国)を相続することはできない。』と聖書は言っているからです。イエス様もこう言われています。

 

マタイ10:37ーわたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

 

エペソ5:6ーそういう人たちのことをパウロは『不従順の子ら』と言っています。

 

エペソ5:7ー神を信じる者は、むなしい言葉にだまされて不従順の子らの仲間にならないようにと警告しています。

 

エペソ5:8ー暗やみ…私たちを愛してくださる神の存在を知らず、また知ろうともせず、自分勝手な道を歩んでいる人はすべて、この『暗やみの中』にいるのです。

 

しかし、神は『光』ですから、その神様とともに歩む者は『光の中』を歩むのです。光があれば、何が危険であり、どう避ければよいかわかります。私たちはこの『光の子ども』として招かれたのです。

 

ヨハネ1:5ー神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

 

光の子どもらしく歩みなさい…神様の光の中で、神様と調和して歩むということ。

 

エペソ5:10ー光の結ぶ実『善意、正義、真実』⇔御霊の実『愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制』cf ガラテヤ5:22~23。

 

エペソ5:11ー洞窟のような真っ暗な中にいると、目の前にかざしたはずの自分の手すら見えません。しかし、ライターの炎のようなたとえ小さな灯が一つでも点れば、もはやそこは『暗やみ』ではなくなります。そして今まで見えなかった自分の手が見えるようになるのです。

私たち信者の働きは、このように小さくても『神の光』として、今まで『暗やみ』に隠れていた『罪』をはっきりと示すことなのです。

 

マタイ5:14あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。

 

エペソ5:12ー言葉で他者が犯した罪を糾弾するのは簡単です。しかし、私たちは、自身が『光の中』を歩むことにより、彼らが行なっている『口にするのも恥ずかしいこと』を明るみに出すべきです。

 

エペソ5:13ー私たちがキリストに似た者になればなるほど、明るみに出される罪が明らかになり、神に立ち返る人が増えるのです。

(罪…神様の聖なる法に対する違反行為。)

 

エペソ5:14ー「キリストを信じます。」と口先だけで行ないの伴わない『眠った状態』の人を起こし、『死んだ信仰』から立ち返らせ、キリストの光の中を歩む時なのです。

 

黙示録3:2目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。

 

cf イザヤ26:19ーあなたの死人は生き返り、

私のなきがらはよみがえります。

さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。

あなたの露は光の露。

地は死者の霊を生き返らせます。

 

エペソ5:15ー賢くない人…神を無視して、自分勝手に生きている人。

詩篇53:1ー愚か者は心の中で「神はいない。」と言っている。

彼らは腐っており、忌まわしい不正を行なっている。

 

賢い人…神を信じ、神を恐れ、光の子として歩んでいる人。

箴言9:10ー主を恐れることは知恵の初め、

聖なる方を知ることは悟りである。

 

エペソ5:16ー機会を十分に生かして用いる…伝道の機会や奉仕の機会を十分に注意しながら用いること。

 

ヨハネ6:27ーなくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。

 

*ただし自分は親切・善意のつもりでも、相手にとっては不快感を持つほどの『おせっかい』となることもあるので、程よい距離感を保つことも大切。特に異性間は、要注意。

 

エペソ5:17ー主のみこころ…その時々に応じた成すべき最善。神のみこころに叶うこと。そのためには日々聖書を読み、みことばを心に蓄えることが重要。

 

詩篇119:11あなたに罪を犯さないため、

私は、あなたのことばを心にたくわえました。

 

ローマ12:2ーこの世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 

1テサロニケ4:3~7ー神のみこころは、あなたがたが聖きなることです。

あなたがたが不品行を避け、

各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、

神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、

また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。

神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。

 

エペソ5:18ー酒によってはいけません…ある人たちは『飲酒は罪だ』と言いますが、もし『酒を飲むこと』が罪だとしたら、カナの婚礼で水をぶどう酒に変え、招待客たちにふるまったイエス様も『罪人』となってしまいます。

 

箴言23:31ーぶどう酒が赤く、杯の中で輝き、なめらかにこぼれるとき、それを見てはならない。

*酒に酔うこと、またアルコール依存症の人への警告です。酒に酔うことで現実逃避をしたり、心を満たそうとする人は放蕩に走ることになります。

 

クリスチャンはぶどう酒や酒に酔うのではなく、聖霊によって満たされ、支配されるべきです。酒に酔っても、聖霊によっても『人格』に影響を及ぼします。私たちは、聖霊によって『神に似た者』としての人格になるべきです。

 

聖霊に満たされなさい…原語のギリシャ語では、継続を表わす命令形であり聖霊に満たされ続けなさい。』という意味です。

 

エペソ5:19ーこれは聖霊に満たされた結果です。心に喜びがわき上がり、共に集い、神を賛美するようになります。

 

エペソ5:20聖霊の満たしも、神に感謝することも、信仰による結果です。

 

1テサロニケ5:16~18いつも喜んでいなさい。(喜び続けなさい、の意。)

絶えず祈りなさい。(祈り続けなさい、の意。)

すべての事について、感謝しなさい。(感謝し続けなさい、の意。)これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

 

エペソ5:21ーcf ピリピ2:3~4ー何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。

自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。

 

エペソ5:22ー信者が主イエスに従うように、信者である妻は、自分の夫に従うようにと勧められています。

 

ここからは『教会論』という枠組みの中で、パウロは語っています。私たちクリスチャンは『キリストの花嫁』ですから、パウロはそれを『花婿なるキリストと花嫁なる教会』という関係の中で例えているのです。

 

神によって立てられてはいても、教団、教祖、牧師は人間による組織である以上間違いを犯します。ですから、信者は彼らの言うことを盲信するのではなく、みことばによって確認することが必要となります。それによって、ともに成長するためです。

 

cf 使徒17:11ーここのユダヤ人たちは、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた

 

エペソ5:23ーかしら…権威を持っている、の意。

 

夫が家庭内における司令塔となり、家族全員の益となるように決断していくのです。最終的に主に御前での責任は、夫に与えられているからです。

 

エペソ5:24ー花嫁なる教会が人に従うのではなく、夫であるキリストに従うのと同じように、妻は自分の夫に従うのです。

 

すべてのことにおいて…ギリシャ語:エンパティ。すべての項目において、の意。

従う…ギリシャ語:フポタソー。夫の権威を認め、その権威のもとで従うこと。

 

エペソ5:25ー夫は、キリストの持つ『アガペの愛』をもって、妻を愛するようにと命じられています。つまりそれは言い換えると、『夫たちよ。妻のために死ねるほど、妻を愛してますか?』また、『妻たちよ。夫のために生きていると言えるほど、夫を愛していますか?』ということになります。

 

エペソ5:26キリストの教会に対する愛と目的:①教会をきよめて聖なるものとするため。

 

エペソ5:27ー②しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとして、ご自分の前に立たせるため。

 

エペソ5:28ーここは夫が見習うべきお手本です。つまり、自分の妻を自分のからだのように愛するということです。それはまた、自分自身を愛することにつながります。

 

エペソ5:29ーキリストが、教会を養い育てるのと同じように、夫も自分の妻を養い育てるのです。

 

エペソ5:30ローマ12:4~5ー一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、

大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

 

エペソ5:31創世記2:24それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となるのである。

*これが聖書のいう『結婚制度』です。一夫多妻でもなく、多夫一妻でもなく、同性婚でもありません。

 

エペソ5:32ーこれは『奥義』であり、神は『キリストと教会の関係』をさして言っているのです。キリストのものではない教会は、花嫁にはなれないのです。

 

エペソ5:33ー妻は、神への献身という観点と同じように、自分の夫にも『献身』して仕えていくように、夫は、キリストの十字架の愛にならって、妻を愛していくようにとの神の命令です。

 

親から愛されずに育った人でも、万物の創造主なる神に出会うとき、本当の愛に触れ、神の愛に包まれ、その御手の中で『愛すること』を学ぶことができます。

妻を愛すること、夫を愛すること、子どもを愛することに行き詰まりを感じておられるなら、聖書の神に立ち返ってキリスト・イエスから本当の愛を学びましょう。主は両手を広げて、あなたを迎え入れてくださいます。

 

マタイ11:28~30すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。