多くの日本人は『善行によって天国に行く』と信じていますが、聖書は何と教えているでしょうか。
モーセ五書(トーラー:創世記〜申命記までの五書)だけでなく、預言書も、口伝律法をも権威あるものと認めていました。
食卓に着かれた…当時、食事をするときは、左肘で状態を支えて、横になっていました。
ルカ7:37ー罪深い女…不道徳な女。
ルカ7:38ー食事の席で横になって、足を斜め後方に投げ出しているイエスの足元に立って泣いていました。そして頬を伝ってイエスの足に落ちた涙を、自分の長い髪でぬぐい、御足に口づけし、持って来た香油を塗りました。
なぜこの女は泣いていたのでしょう?何がそんなに悲しかったのでしょう?
ルカ7:39ー心ひそかに…自分だけ。他の人にはわからない。
このパリサイ人(シモン…7:44)は、この女の行為をどのように見ているでしょうか?またイエスのことをどのようなお方だと捉えているでしょうか?
ルカ7:40ーイエスは、パリサイ人シモンになぜ話しかけたと思いますか?
あなたは自分の心の内を主に知られずにすむと思いますか?
ルカ7:41ーイエスは『たとえ話』を語り始めました。ユダヤ人は『たとえ』で語る時は、決して『個人名』を使いません。常に『ある人が』で語ります。
1デナリ…労働者の一日分の賃金。
ルカ7:42ー500デナリ借りた人も、50デナリ借りた人も返済できなかったため、金貸しは返済を帳消しにするというあわれみをかけてやった、というたとえを話、イエスはパリサイ人シモンに質問します。
「ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」と。
ルカ7:43ーパリサイ人シモンは「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と、正しい答えをしています。
他人事、第三者の立場であれば、人は公平な判断をすることができるのです。
ルカ7:44ー正しい判断力を確認した上でイエスは、現実に目を向けさせます。
足を洗う水…当時はサンダル履きでしたから、外から帰って来た時また来客には、足を洗う水を用意し、きよめてから家の中に入りました。
パリサイ人シモンは、きよめのしきたりなど『口伝律法』をも重んじるユダヤ教徒ででした。しかしイエスに対しては、自分から食事に招いておきながら、通常のおもてなしすらしていなかったのです。
ですから、イエスは「あなたがしてくれなかった通常のもてなしを、この女が代わりにしてくれたのだ。」と言っているのです。
ルカ7:45ー口づけ…これも通常の挨拶。親しみを表わす。
イスカリオテのユダは、この『口づけ』をもって主を裏切った。
cf ルカ22:48ーだが、イエスは彼に、「ユダ、口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」と言われた。
この女は、イエスの足に口づけしてやめなかったのです。
ルカ7:46ーパリサイ人シモンは、客であるイエスに油(安価)を塗って祝福してくれませんでしたが、この女は香油(高価)を塗ってくれました。
44〜46節のパリサイ人シモンの態度から、彼はどのような思い(心)でイエスを食事に招いたと思いますか?彼の目的は何だったのでしょう?
ルカ7:47ーイエスは、この女の一連の行為を何と結び付けて見ておられますか?
ルカ7:48ーここで、この『罪深い、不道徳』な女に宣言されています。
「あなたの罪は赦されています。」と。
この女はなぜ『罪の赦し』を得たのでしょうか?立派な行ないによるのでしょうか?彼女が『罪の赦し』を得たのは、いつでしょうか?(*イエスの宣言の時制に注意。)
ルカ7:49ーいっしょに食卓にいた人たち…おそらくパリサイ人仲間が何人かいっしょに招かれていたのでしょう。
彼らはどのようにイエスを見ているでしょうか?
cf Ⅱ テモテ3:5ー見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。
ルカ7:50ーイエスは、何がこの女を救ったと言っていますか?
パリサイ人シモンは救われていると思いますか?
『信仰』とは何でしょう?
cf ヘブル11:1ー信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
『奉仕』は、感謝から出てくる自発的な行ないです。
人に言われたからというより、自ら進んで、静かに黙々と主に仕えていく行為です。
それは金銭的なものではなく、主との関係における本人の自覚の問題です。
あなたはイエスをどのような方と見ていますか?