サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

⑶ベテスダの池の病人の癒し 〜ヨハネ5:1~18〜

ヨハネ5:1ユダヤ人の祭り…三大祭りの一つ、過越の祭り。

三大祭りとは、過越の祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのことで、ユダヤ人の成人男子は、祭りには必ずエルサレムに巡礼に来なければなりませんせんでした。

 

cf 申命記16:16ーあなたがたのうちの男子はみな、年に三度種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。の前には、何も持たずに出てはならない。

 

*種を入れないパンの祭り…『過越の祭り』がニサンの月の十四日、翌十五日から七日間は『種を入れないパンの祭り』。レビ記23:5~8。

 

*七週の祭り五旬節ギリシャ語:ペンテコステ

出エジプト記23:16~17ーまた、あなたが畑に種を蒔いて得た勤労の初穂の刈り入れの祭りと、年の終わりにはあなたの勤労の実を畑から取り入れる収穫祭を行なわなければならない。

年に三度、男子はみな、あなたの主、の前に出なければならない。

 

*仮庵の祭り…三大祭りの中で最も喜びと感謝を表わす祭り。レビ記23:34~44。

 

ヨハネ5:2ーベテスダの池…後に『アスクレピアスの神殿』が建てられました。イエスの時代、異教徒が病気になると癒しの神として祀られていたアスクレピアスの神殿に行きました。

 

ヨハネ5:3aーベテスダの池の周りには、なぜこんなに大ぜいの病人たちがいたのでしょう?

*異本には次のようにあります。(新改訳聖書脚注参照)

ヨハネ5:3b~4彼らは水の動くのを待っていた。

主の使いが時々この池に降りて来て、水を動かすのであるが、水が動かされたあとで最初にはいった者は、どのような病気にかかっている者でもいやされたからである。

 

ヨハネ5:5ー大ぜいの病人たちがいる中で、イエスの目は誰の上にとまりました?

その人はどのような苦しみの状態だったのでしょうか?

 

ヨハネ5:6ー長いこと病気で臥せっていた人にとって、『よくなりたい』というのは当然の願いだと思いますが、なぜイエスは彼に「よくなりたいか。」と声をかけられたのでしょうか?

エスはこの人の何に心を配られているのでしょう?

 

ヨハネ5:7ー「よくなりたいか。」というイエスの問いかけに、この病人は何と答えていますか?

そこには彼のどんな思いがありますか?

彼が『よくならない』のは、何が原因だと思っているのでしょうか?

 

cf 詳訳聖書:ヨハネ5:7ー病人は答えた。「主よ。私には、水がかき回されたとき、池の中に私を入れてくれる人がいません。(私が)行きかけると、もう他の人が先に(私の前に)降りて行くのです。」

*『私』が強調され、赤字は非常に強い言い方がされています。

 

彼は38年という長い闘病生活の間に『よくなりたい』ということと、『水がかき回された後のベテスダの池に一番乗りで入る』という目的とが、取り違ってしまっています。『私』という自己中心に陥り、池に入れないのは『私を入れてくれる人がいない』と周囲のせいにしているのです。

 

「よくなりたいか。」というイエスのことばは、この人の本来の目的を思い起こさせるためでした。

 

4節脚注は、とても迷信的です。

このように『迷信』を信じていた生き方をしていると、どのような人生になると思いますか?

このような迷信に惑わされたことはありますか?

 

ヨハネ5:8ー「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」…イエスの権威による非常に強い命令口調です。

 

起きて…目を覚ませ、の意。

*直接的には、肉体の癒し。間接的には、人間らしく生きるための霊的覚醒。

 

ヨハネ5:9ーこのイエスの命令を受けた後、彼はすぐに直り、命じられたとおり床を取り上げました。

 

このようなことをなさるイエスをどう思われますか?

 

しかし、その日は『安息日』でした。

 

安息日…紀元前3世紀頃に起きた『パリサイ派』により、律法に細かい規則(口伝律法)が作られました。律法の一つである『安息日』の休みを極端に曲解し、形式的な儀式、権力の悪用などが行なわれていました。イエスは彼らを非難しています。cf マタイ23:13~39。

 

ヨハネ5:10ーパリサイ人や律法学者たちが定めた『安息日の規定』には、「いかなる仕事もしてはいけない」を曲解し、『床を取り上げる』ことも仕事としていました。

 

ヨハネ5:11ーこの男性の答えをどう思いますか?彼は誰の権威を認めているでしょうか?

 

ヨハネ5:12ーパリサイ人たちは、自分たちの教えの権威を守らず、「床を取り上げて歩け」と命じられた人物を知ろうとしていますが、それはなぜだと思いますか。

 

ヨハネ5:13ーこの人はそれがイエスだとはわかりませんでした。祭りの期間であり、周りは人々でごった返している中で、床を取り上げている間にイエスはその場を離れて行かれたからです。

 

ヨハネ5:14ーこの男性の問題に対し、ベテスダの池でも宮でも、イエスの方から彼を『見つけて』声をかけてくださいました。

 

なぜ「イエスはもう罪を犯してはいけません。」と言われたのでしょう?

この人の『罪』とは、何だったのでしょう?

 

エスと出会った後に、『再び同じ罪を犯す』とはどういうことでしょうか?

cf マタイ12:43~45。

*この時代はまだ、モーセの律法に従って生きている『律法の(旧約)時代』です。聖霊の内住はペンテコステの時に始まりましたから、迷信を信じていた人が次にユダヤ人(パリサイ人、律法学者)による律法の曲解、過大解釈である『口伝律法』を信じることがないように、とイエスは注意したのです。

 

人間による言い伝えではなく、神のみことばに聞き従うことが、神を喜ばれる生き方です。

 

ヨハネ5:15ーこの人は、自分を癒してくださった方はイエスだとわかると、わざわざパリサイ人のところに告げに行きました。

 

しかし、それが本当にイエスにつく信仰であったのでしょうか?

 

その人は行って…38年もの間寝たきりだった人が、このように変えられるというのは、イエスによる癒しがどのようなものっだことを示していますか?

 

ヨハネ5:16ー彼のとった行動の結果、どうなりましたか?

その理由は何でしょう?

 

ヨハネ5:17ーパリサイ人たちは、イエス安息日の(口伝)律法に違反したとして迫害しました。しかしイエスは「父(なる神)は今に至るまで働いている。」と言われました。

 

わたしも…神の御子、メシアとして、の意。

 

安息日の規定は、もともと神の創造のみわざの完成と関連しています。

創世記2:1~3ーこうして、天と地とそのすべての万象が完成された。

それで神は、第七日目なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。

神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

 

*神が第七日目に休まれたのは、『創造のわざ』です。しかしイエスは『神は今に至るまで働かれている』と言われます。神は何をして働かれているのでしょう?

 

cf ヨハネ6:44ーわたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

 

ヨハネ6:29ー イエスは答えて言われた。「あなたがたが、神が遣わした者を信じること、それが神のわざです。」

 

ヨハネ5:18ユダヤ人たち…パリサイ人のこと。

なぜ彼らはイエスを迫害したのでしょう?

 

38年間寝たきりだった病人は、ベテスダの池がかき回された直後に一番乗りで池の中に入れば治る、と思っていました。

パリサイ人たちは、神の律法よりも人が決めた『口伝律法』を守ることが、神に従うことだと思っていました。

どちらも真の神よりも迷信・人の言い伝えの方を大事にしていたのです。

あなたの信仰はどうでしょうか?

もし人が築いた伝統、神秘的な体験など、神のことばである聖書のみことば以外をより大切にしているのなら、彼らと同じ『罪』を犯していることになります。

 

神様は私たちが、御子イエス・キリストに立ち返り、神のことばである聖書に従って信仰の歩みをすることを願っておられます。そればかりでなく、信仰の歩みができるようにと聖霊を与えてくださいました。(実際には三位一体の神が内住してくださっているのです。cf ヨハネ14:16~17&23

 

ベテスダの池の周りには、たくさんの病人がいました。しかしイエスが選ばれ、癒しの奇蹟をなさったのは、この男性一人でした。

一方、イエスは民の中のあらゆる病気、あらゆる患いを癒されたのもまた事実です。

cf マタイ4:23ーイエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。

 

*イエスはベテスダの池で、そこにいたすべての病人を直す力をもっていましたが、そうすることは、エスのその時の『目的』ではありませんでした。

エスが神の子キリストとして永遠に存在される方であるという事実は、常に『同じ行動』をするということではありません。あくまでも主権は、神にあるのです。

 

キリストを信じる者として、主権者なる神に信頼し、御霊に導かれて信仰の歩みができますように。

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