サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

異言の賜物

「御霊の賜物について何度も学ぶ機会がありましたが、とてもデリケートな部分なのか、いつも避けて通るかのようにさら〜っと飛ばされてしまうのが『異言の賜物』でした。知りたいけど、質問し難い。質問してもなかなか納得のいくみことばからの答えが得られない、というのが常でした。

 

この賜物を持った信仰の友も大ぜいいます。彼女たちと祈りの時も定期的に持っていますが、私には『異言の賜物』がないので異言で祈ることができません。そして彼女たちが、異言で祈るその祈りの内容を理解する『解き明かしの賜物』も私にはないので、「アーメン」と言うこともできないのです。

 

異言の賜物を持った友人は言います。「最初は違和感があったけど、神様に求めて祈り続け、練習したら与えられた。」「異言の祈りは、御霊のことばで神様に向かって祈るものであり、聖霊様がとりなしてくれるので他の人が理解できなくてもいいのよ。」と。

 

また以前、幼なじみが受洗したペンテコステ系の教会では、「聖霊バプテスマが与えられるように◯◯姉妹のために祈りましょう。」とひとりの人の頭や肩に手を置いて、大ぜいで取り囲むようにして祈っていました。そして異言で祈れるようになったり、倒れたりすると、受洗の許可が与えられました。(おそらく、使徒10:47からかと思われます。)

 

海外の教会では、牧師が手を置くとバタバタと倒れていくという現象があることも知っていますし、友人でそのような経験をした人もいました。その友人は「怖くはなかった。気持ちよくなった。」と感想を教えてくれました。

 

現実としてこれらのことが起こっているのですが、誰一人聖書のみことばから説明できる人には、まだ会ったことがありません。私にはこれらのことの『基準』がよく分からないままでした。

最近になってやっと、ひとりの主にある友人が読んだ本(The Holy Spirit  チャールズ・ライリー著)に「『異言の賜物』について聖書から説明されていた。」と、その内容を教えてくれました。

 

とてもデリケートなものであり、ブログでお裾分けをすることにより物議をかもすかもしれないとも思います。でも『知りたい!』と思っている方も多いと思っています。

これから書くことが『すべてであり、これだけが正しい』とするものではなく、あくまで私が学び、理解したことの『お裾分け』として、『こういう解釈もあるのだ。』と参考にしてもらえたら嬉しいです。

 

 

 聖書が言う『異言』って何…?

使徒2:38ーそこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。(*新改訳聖書の誤訳箇所のひとつ)

まず、誤解を避けなくてはいけないのは、バプテスマを受けると “賜物として聖霊” を受ける のではなく(聖霊は物ではなく、第三位格の神です)、“聖霊の賜物” を受けるのであり、異言はその聖霊の賜物のひとつ』だということです。

 

旧約聖書39巻には、『異言の賜物』について言及している箇所はありません。すべて新約聖書になって初めて言及されている『奥義』です。

マルコ16:17ー信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわちわたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、

*新しいことば…以前は存在しなかった、という意味を含む。

 

使徒2:4ーすると、みなが聖霊に満たされ、御霊が話させてくださるとおりに、他国のことばで話した。

使徒たちが母国語以外の言語で話した、の意。

使徒2:4と2:11ーことば…ギリシャ語:glossa

 

使徒2:6~11ーこの物音が起こると、大ぜいの人々が集まって来た。彼らは、それぞれ自分の国のことばで弟子たちが話すのを聞いて、驚きあきれてしまった。

彼らは驚き怪しんで言った。「どうでしょう。いま話しているこの人たちは、みなガリラヤの人ではありませんか。

それなのに、私たちめいめいの国の国語で話すのを聞くとは、いったいどうしたことでしょう。

私たちは、パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤユダヤ、カパドキヤ、ポントとアジヤ、 フルデヤとパンフリヤ、エジプトとクレネに近いリビヤ地方などに住む者たち、また滞在中のローマ人たちで、

ユダヤ人もいれば改宗者もいる。またクレテ人とアラビヤ人なのに、あの人たちが、私たちのいろいろな国ことばで神の大きなみわざを語るのを聞こうとは。」

使徒2:6と2:8ーことば、国語…ギリシャ語:dialektosー国や地域で知られている言語、の意。使徒1:19,21:40,22:2,26:14でも同じ単語が使われています。

 

この時、話された『異言』は全部で三つ、アラム語ギリシャ語、ラテン語でした。 

*パルテヤ人、メジヤ人、エラム人、またメソポタミヤ…東方の人々ですべてアラム語

ユダヤローマ行政区を意識したことばでアラム語(おそらくシリヤを含む)

*カパドキヤ、ポントとアジヤ、 フルデヤとパンフリヤ…小アジア(現在のトルコ)ギリシャ語』

*エジプトとクレネに近いリビヤ地方北アフリカギリシャ語』

*滞在中のローマ人たちラテン語

 

使徒10:46ー彼らが異言を話し、神を賛美するのを聞いたからである。そこでペテロはこう言った。

*文脈からペテロがカイザリヤで、ローマの百人隊長コルネリオに会ったときの出来事であり、異邦人にも聖霊の賜物が注がれるという中で、異邦人の言語で話したということです。

 

使徒19:6パウロは彼らの上に手を置いたとき、聖霊が彼らに臨まれ、彼らは異言を語ったり、預言をしたりした。

*エペソ(現在のトルコ)での出来事

 

使徒19:1ーアポロがコリントにいた間に、パウロは奥地を通ってエペソに来た。そして幾人かの弟子に出会って、

 

黙示録5:9ー彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのにふさわしい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、

 

黙示録7:9ーその後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。

 

黙示録10:11ーそのとき、彼らは私に言った。「あなたは、もう一度、もろもろの民族、国民、国語、王たちについて預言しなければならない。」

 

黙示録11:9ーもろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。

 

*これらのことから、異言は『天的言語』などではなく、世界のどこかで使われている『外国語』を意味する、ということが分かります。

 

ところがKing James Versionを見ると、1コリント人への手紙14章のいくつかの節で “tongues”(異言)の前に “unknown”(知られざる)という形容詞を挿入して訳されているのです。

ex 14:2ーFor he that speaketh in an unknown tongue soeaketh not unto men,but unto God : for no man understandeth him ; howbeit in the spirit he speaketh mysteries. 

ex 14:4ーHe that speaketh in an unknown tongue edifieth himself ; but he that prophesieth edifieth the church.

ex 14:13ーWherefore let him that speakth in an unkown tongue pray that he may interpret.

ex 14:14ーFor if I pray in an unknown tongue,my spirit prayth,but my understanding is unfruitful.

ex 14:19ーYet in the church I had rather speak five words with my understanding,that by my voice I might teach other also, than ten thousand words in an unknown tongue.

ex 14:27ーIf any man speak in an unknown tongue, let it be by two, or at the most by three, and that by course; and let one interpret.

 

そのためコリント人への手紙14章での『異言』が、幻想的であり、『天的言語』として考えられるようになったと言えるでしょう。

しかしギリシャ語の “glossa”(ことば)が、聖書の他の箇所で外国語を意味する言葉として用いられていることを考えると、コリント人の手紙だけが別の『天的言語』という意味に捉える必要があるのでしょうか?これはサタンによるパン種であり、惑わしでしょう。

 

 

異言は、聖霊バプテスマのしるし…?!

ある人たちは『異言を語ることが、聖霊バプテスマを受けたことのしるし』だと主張します。また、ある人たちは『異言は、救われるために必要である。』と主張します。では、聖書は何と言っているのでしょう?

 

1コリント12:3bーまた、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。

聖霊によるバプテスマによって、人は初めて「イエスは主です。」と信仰告白できるのです。

 

パウロは1コリント人への手紙で、賜物は神がくださるものであることを記しています。従って、人間の努力や訓練によって習得するものではありません。

主権は神にあり、神が『おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださる』のです。

ある人々が言うように、異言道場や異言キャンプのようなところに行って、誰かの真似をして話せるようになるものでもありません。

 

1コリント12:7~11ーしかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現れが与えられているのです。

ある人々には御霊によって 知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、

またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、

ある人には奇蹟を行う力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。

しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。

 

1コリント12:30ーみながいやしの賜物を持っているでしょうか。みなが異言を語るでしょうか。みなが解き明かしをするでしょうか。

*この疑問形式は『否』という答えを想定しています。

 

パウロは、『1コリント14:5ーみなが異言を話すことを望んでいます。”』と言っていることから、コリントの教会の信者の中には、聖霊バプテスマを受けながら、異言で語らない人々がいたということです。

異言の賜物は、すべての信者に共通して与えられるものではないということがわかります。

 

 

 

私たち個々のキリスト者に与えられた賜物を、パウロは人間のからだの各器官に例えて解説しています。それは、将来キリストの花嫁となる『普遍的教会』のことです。

 

ローマ12:4~8一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、

大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。

奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。

勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。

 

1コリント12:14~27確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。

たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

たとい、耳が、「私は目ではないから、からだに属さない」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。

しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。

もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。

しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。

そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない」と言うこともできません。

それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、

かっこうの良い器官にはその必要がありません。しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。

それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

 

【異言を用いる上での原則】

1コリント14:27もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。

 

*私は、いわゆる『天的言語』としての異言で『祈る人』には、たくさん会ったことがあります。しかし『天的言語』としての異言で『話す』人には会ったことはありません。グループで『天的言語』としての異言で祈る人には会ったことがありますが、『天的言語』としての異言を解き明かす人には、まだ会ったことがありません。

*外国語としての異言で祈り、解き明かしをする人は大ぜい知っています。

 

1コリント14:28もし解き明かす者がだれもいなければ、教会では黙っていなさい。自分だけで神に向かって話しなさい。

*教会で『天的言語としての異言』で祈る人には会ったことがありますが、教会であってもその祈りを解き明かす人には会ったことがありません。

*『外国語としての異言』で祈りを聞き、解き明かしも聞き「アーメン。」と言えた経験は何度もあります。

 

異言を外国語ではなく『天的言語』『御使いの言葉』とした場合、聖書は何と言っているでしょう?

人類史上『天的言語』を本当に聞いたことのある人は、異邦人への使徒となったパウロです。そのパウロの証言が、Ⅱコリント人への手紙にあります。

 

Ⅱコリント12:2~4ー私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前にーー肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです、ーー第三の天にまで引き上げられました。

私はこの人が、ーーそれが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存じです、ーー

パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。

 

天的言語は、地上にいる『人間には 語ることを許されていない、口にだすことのできないことば』なので、異言が天的言語であるというのは偽りであることがわかります。

 

異言を話すとするある人たちは、1コリントのみことばを出して『御使いの異言』を主張します。

1コリント13:1ーたとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。

 

ここの『私』とは、現代の異邦人信者のことではなく、コリント人への手紙の著者である『パウロ』のことです。

パウロはこの手紙を書く14年前に第三の天にある『パラダイス』にまで引き上げられて『天的言語』を聞いていますから、ここでは『たとい〜しても』と誇張表現を用いています。パウロが普段から『天的言語』を話していたわけではありません。

 

もし、パウロが普段から『天的言語』を話していたとしたら、いったい何のためにそうする必要があるのでしょうか?

それを聞く人たちが誰も理解しない言葉で話す意味は何でしょうか?

「かっこいいから」「敬虔な信者に見られるから」…それらは人間に栄光を帰すだけで、神の栄光の現れにはなりません。

 

1コリント14:34教会では、妻たちは黙っていなさい。彼らは語ることを許されていません。律法の言うように服従しなさい。

*女性は異言や預言の賜物を持っていても、教会では語ってはならない、と聖書は命じています。

 

1コリント14:39ーそれゆえ、私の兄弟たち。預言することを熱心に求めなさい。異言を話すことも禁じてはいけません。

*聖書的賜物の行使を禁じてはいけません。ただし、解き明かす者がいない場合は例外。

 

1コリント12:10ーある人には奇蹟を行なう力、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力があたえられています。

*神は『教会の中で』人々に御霊の賜物を分け与えてくださいました。1コリント12:28~30。

であるなら、異言の賜物と同時に、『異言の解き明かしの賜物』を持った人も必ずいるはずです。『異言の解き明かしの賜物』を持った人は、異言を話す賜物を持った人が近くにいなければ、せっかく頂いた賜物を行使する機会がありません。異言の賜物と異言を解き明かす賜物を持った人は、セットで働くべき御霊の賜物なのです。

 

1コリント14:40ーただ、すべてのことを適切に、秩序をもって行ないなさい。

異言の信憑性のテストとして、異言の解き明かしの賜物を持った人 二人以上にその場で聞いてもらい(Ⅱ コリント13:1)、それぞれ紙に解き明かしを書いてもらいます。その内容が一致していれば、その異言の内容は信憑性がある、つまり御霊から来ている賜物だと言えるでしょう。しかし、もしそうでないなら…。

 

 今日の『異言の賜物』は『天的言語』として捉えられ、解き明かす(神の御前にとりなす)のは御霊の役割とされ、聖書本来の教えからズレてきています。神が御霊によって聖書的賜物を与えておられるのなら、聖書の基準を満たしているはずです。もしそうでないなら、『賜物』に見えるその贈り主は、嘘の達人である『サタン』からということになります。ヨハネ8:44

 

なぜなら、もし異言が本当に御霊の賜物であるのなら、教会の徳を高めるために与えられる、信者に限定された賜物であるはずだからです。しかし今日の『天的言語』と称される異言と似た現象は、ボルネオ、中国、東アフリカ、フィリピン、トルコなどのキリスト教以外の人々の中にも見られ、だれもそれらを『御霊の賜物』と認める人はいないでしょう。このような異言の現象は、信者間、不信者間関係なく『聖書的賜物』とは言い難いものでしょう。

 

 

もしこれらの聖書のみことばによって確認してもなお、異言は『天的言語』であり、御霊が御父の御前にとりなしてくださるから、この世に解き明かしの賜物を持った人がいなくてもかまわないと思う人がいるならば、それはサタンによってそう思わされているということではないでしょうか。サタンは、敬虔さを装い、人々を騙すことを目的としているからです。cf Ⅱ テモテ3:5 

 

 

異言の目的って何…?

しるし…初代教会の時代、福音が人々に拒絶されたときに、その福音と神の裁きの信憑性を証明することにありました。外国語としての『異言』は、キリスト教の真実性を示すしるしであり、福音を拒否した人々への警告となりました。

 

徳を高める1コリント14:4ー異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。

*預言の賜物と解き明かしを伴う異言の賜物は、教会の徳を高めますが、解き明かしの伴わない異言の賜物は、教会の徳を高めることはできません。

預言の賜物は、明瞭にそれを聞く人々が理解出来ることばで直接教会に語られるので、解き明かしをを必要としません。

 

 

【解き明かしのない異言の祈りについて】

 1コリント14:14もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。

 

*ある人々は、異言での祈りは個人的祈りのことばであると解釈します。

しかし、ここの文脈では『教会』がテーマであり、『異言で祈ること』について、パウロは語っており、異言での祈りは『霊との結びつきをもたらすが、知性との結びつきはない』と言っています。

 

異言で祈る人に「今何を祈ったのですか?」ときいたら「自分でも分かりません。」という答えが返ってきた、という話を聞いたことがあります。それはまさにこの箇所でパウロが言っている通りです。祈り手自身が何を言っているかわからない…祈りなのか、願いなのか、無意味な言葉を並べ立てているのかが分からず、困惑してしまいます。

 

自分が何を求め、何を神に願っているのか分からなければ、神が応えてくださる(くださった)かどうか、どうして確信が持てるでしょうか?

祈る時は、霊だけでなく『知性』で祈ることです。それはつまり、神も自分も理解出来る言語で祈るということです。

 

osusowake.hatenablog.com

  

私たちは現在、完成された神のことばである『聖書』が与えられています。その聖書を通して『生ける神のことば』を体験していくのであり、読み手も、聞き手も、神も理解できる『ことば』で、『道であり、真理であり、いのちであるキリスト』を宣べ伝えていくのです。

 

パウロは、コリントのクリスチャンたちに『より優れた賜物を熱心に求めるように』と勧めています。 1コリント12:31

それは『愛』であって、神の愛を知り、キリストに似た者となることが、クリスチャンとしての目標です。

1コリント14:1愛を求めなさい。また、御霊の賜物、特に預言することを熱心に求めなさい。

 

 1コリント13:8~10愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識ならばすたれます。というのは、私たちの知っているところは一部分であり、預言することも一部分だからです。完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。

 

*『完全なもの』とは…?

ペンテコステで誕生した『教会』が、さまざまな霊的成長過程(教会史)を経て、キリストの空中再臨(携挙)時に完全な成熟に至る『花嫁』となるということ。

 

*『預言の賜物、知識がすたれ、異言がやむ』とは…?

『預言、知識、異言』の賜物は聖書の啓示に関連するか、ユニットで表現されます。つまり『聖書』が完成されるまでの間、教会に神の真理を伝えるという役割を担っていました。現在のような語学学校などない時代に、異邦人伝道するには、どうしても『異言の賜物』と『解き明かしの賜物』が必要だったのです。

 

この箇所の解釈には、二通りあります。

これらの賜物は、キリストの再臨前のどこかの時点で終わるというもの。

キリストの再臨までは続くとするもので、この場合は、異言は今日も存在する賜物です、しかしもし存在するのであれば、当然『解き明かしの賜物』も存在することになります。

 

1コリント13:8~10のみことばは、預言と知識の賜物よりも前に、異言の賜物が終わることを示唆しています。

(預言と知識は)すたれる…ギリシャ語:katargeo。 終了する、の意。

神がそれらを『終了させる』という受動態。

 

(異言ならば)やむ…ギリシャ語:pauo。止まる、の意。

異言自体が自動的にその働きを止める、という意味。異言が止んだ、という意味。

異言は自ら止むため、誰かがそれを止めるのはない、ということ。

 

神はご自分の選びの民であるイスラエルの民(ユダヤ人)を用いて、福音を異邦人に伝えるというご計画をお持ちです。それが成就するのは、黙示録7章にある144,000人の患難時代の初穂となる世界中に離散しているユダヤ人たちによってです。

彼らはユダヤ人でありながら離散の地にいるため、その国の言語=異言を話すことができるため、賜物としての異言を必要としません。

 

エペソ2:20ーあなたがたは使徒預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

 

使徒…キリストの公生涯、十字架の死と復活の目撃者。

預言者…初代教会時代の預言者  1コリント12:29

 

*異言の賜物は、教会の土台が完成する前に止んだ可能性があります。(補完するはずの異言の解き明かしの賜物を持った人とのバランスを考慮すると、その可能性は高いと思えます。離散の民となったユダヤ人たちの次世代以降は、その国の言語を必然的に話すようになるからです。)

 

1コリント13:13こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

*天の御国では、キリストを信じる『信仰』を持った者のみが入ります。

信者にとって、天の御国に行くことが『希望』です。

しかし天の御国に行っても、神や信者同士の間には『愛』の関係が存在します。

だから『愛が一番すぐれている』のです。

 

【異言は不信者のしるし…!?】 

1コリント14:21~23ー律法にこう書いてあります。「『わたしは異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない。』と主は言われる。

それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。

ですから、もし教会全体が一カ所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかがはいって来たとき、彼らは、あなたがたを気違いだと言わないでしょうか。

 

使徒の働きによると、異言が与えられた目的は、福音が拒否された時に、その福音と裁きの信憑性を証明することにありました。

 

1コリント14:21は、イザヤ28:11~12からの引用です。

 

イザヤ28:11~12ーまことに主は、もつれた舌で、

外国のことばで、この民に語られる。

主は、彼らに「ここにいこいがある。

疲れた者をいこわせよ。ここに休みがある。」

と仰せられたのに、

彼らは聞こうとはしなかった。

 

*外国のことば…アッシリヤの言語。

ユダの指導者たちは、預言者イザヤの警告の言葉を信じず、エジプトとの同名に踏み切りました。 イザヤ書30章

 

預言のことばを信じなかった結果、ユダはアッシリヤからの侵略を受けました。

そして侵略を受け、アッシリヤの軍隊のもつれた言葉を聞く時に、ユダの指導者たちは、イザヤを嘲ったように嘲られたと認識するようになります。

 

その時、アッシリヤの言語が、ユダの不信仰を示すしるしとなるのです。

もし、ユダが信仰によってイザヤの警告のことばを受け入れていたなら、アッシリヤの侵略を受けることもなく、彼らの言語を『約束の地』で耳にすることもありませんでした。『約束の地』で新しい言語を聞くことが、ユダの不信仰のしるしとなったのです。

 

*ここでも『異言=外国の言語』という意味で使われています。

同様に、異言(外国語)は、キリスト教の真実性を示すしるしであり、そのメッセージを拒否した者への警告となりました。

 

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【終わりに…】

ここまで読まれた方の中には、非常な不快感を持たれた方もいるでしょう。動揺されている方もいるかもしれません。

それでも、主にあってあえて質問します。

『異言の賜物』について、今まで本当にみことばからきちんと検証されてきたでしょうか?

 

「教会で周りの人たちがみな異言で祈っているのに…。」

「祈って練習したら、みんなと同じような異言が出て来たのに…。」

「教会でそう教えられてきた。」

 

そのように言われる方は、『異言の解き明かしの賜物』についてはどの程度ご存じでしたか?

ご自分の異言の祈りや話しを『解き明かす賜物』を持った方が、同じ教会にいらっしゃいますか?

ご自分で異言で祈ったことを理解していますか?

 

1コリント13:13ーこういうわけですから、異言を語る者は、それを解き明かすことができるように祈りなさい。

 

 

ある方が異言で祈ったことを、しっかりと解き明かしてくれる賜物を持った他の方には、まだお会いしたことはありません。

他者の『異言の解き明かしの賜物』を持った人に出会ったこともまだありません。

 

異言の賜物を持った人々に、異言について質問したことは何度もありますが、その説明は千差万別で納得するには不十分でした。

もし、異言が現在でもまだあるのだとしたら、その用い方に問題があるのではないでしょうか。

異言が神様への祈りのツールであるのなら、解き明かしの賜物を持った人がいないのならば、奥まった部屋で一人で神に向かって祈るべきであり、4人以上のグループや教会でそれぞれが異言で祈ることを聖書は勧めてはいないと思います。

 

マタイ6:6ーあなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 

1コリント14:23ーですから、もし教会全体が一カ所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかがはいって来たとき、彼らは、あなたがたを気違いだと言わないでしょうか。

 

異言の賜物は、聖書に従って、取り扱いに十分な注意が必要な聖霊の賜物ひとつではないかと思います。