サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

ふたりの盲人のいやし 〜マタイ9:27~31〜

マタイ8:34ーすると、見よ、町中の者がイエスに会いに出て来た。そして、イエスに会うと、どうかこの地方を立ち去ってくださいと願った。

 

マタイ9:8ー群衆はそれを見て恐ろしくなり、こんな権威を人にお与えになった神をあがめた。

 

ふたりの盲人の癒しの前には、会堂管理者ヤイロの娘や長血の女を癒されました。そのためこの頃になると、良きにつけ悪しきにつけ、イエスのうわさはこの地方全体に広まっていました。

マタイ9:26このうわさはその地方全体に広まった。

 

マタイ9:27ーダビデの子…旧約から約束された『メシア』の称号。ダビデ王の子孫からキリストが生まれ、その王座は永遠に続くことが預言されていました。

cf Ⅱ サムエル7:12~13ーあなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。

彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。

 

cf 1歴代誌17:12~14ー彼はわたしのために一つの家を建て、わたしはその王座をとこしえまでも堅く立てる。

わたしは彼にとって父となり、彼はわたしにとって子となる。わたしはわたしの恵みをあなたの先にいた者から取り去ったが、わたしの恵みをそのように、彼から取り去ることはない。

わたしは、彼をわたしの家とわたしの王国の中に、とこしえまでも立たせる。彼の王座は、とこしえまでも堅く立つ。

 

しかしイエスの時代、人々の多くはローマ帝国の圧政から救い出し、この地上に『ユダヤ王国』を再興させる政治的解放者としての王としての『ダビデの子』を待望していたのです。

 

人々のうわさ話を耳にしていたふたりの盲人は、イエスがすぐ近くを通られたことを知ったのでしょう。大声で「ダビデの子よ。私たちをあわれんでください。」と叫びながらついてきました。

 

この当時、盲人であるがゆえの苦しみとは、どのようなものだったでしょうか?

cf ヨハネ9:2ー弟子たちは、彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲人に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」

 

叫びながらイエスの後をついて行く彼らの言葉や態度には、彼らのどのような思いが込められていると思いますか?

 

マタイ9:28ー彼らの必死の叫びに一言も答えられずに、家に入られたイエスについてどう思いますか?なぜイエスは、このような態度をとられたのでしょう?

 

そんなこと…まだ、彼らは何も具体的に求めてはいない中、『そんなこと』とはどんなことでしょう?

 

なぜイエスは彼らにこのように言われたのでしょう?そこにはどのような配慮がありますか?

 

彼らの心の中の願いを知っておられるイエスについて、どう思いますか?イエスとは、どのようなお方なのでしょうか?

 

イエスのこの問いに、彼らはどう答えていますか?彼らはイエスをどういうお方だと信じていますか?

 

マタイ9:29「あなたがたの信仰のとおりになれ。」…この盲人たちのように、イエスにこう言われたら、あなたはどう答えますか?何が叶うと思いますか?

それは神に喜ばれることでしょうか?

 

彼らの一番の問題にじかに触れてくださるイエスの対応に、彼らはどう感じたでしょうか?

 

マタイ9:30ー彼らに起こった結果から、彼らはイエスに対してどのような信仰を持っていたとわかりますか?

 

彼らにとって一番の苦しみは『目が見えない』ということでした。その苦しみを取り除いてもらった彼らのその後の人生は、どのようなものだったでしょう?

 

嬉しいことがあったとき、私たちは黙っていることが難しくなります。しかし、イエスは彼らを “きびしく戒めて「決してだれにも知られないように気をつけなさい。” と言われました。それはなぜだと思いますか?

 

現在でも、イエスを正しく認識しない人たちがいます。イエスを正しく認識し、信じ、従うには、何が必要だと思いますか?

cf マタイ28:20ーまた、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

 

ヨハネ14:21わたしの戒めを保ち、それを守る人はわたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。

 

ヨハネだれでも行き過ぎをして、キリストの教えのうちにとどまらない者は、神を持っていません。その教えのうちにとどまっている者は、御父をも御子をも持っています。