*ヨハネの福音書7:53~8:11は、古い写本のほとんど全部が欠いていたり、この部分を含む異本も相互間の相違が大きいため、[ ]で括られています。
一週間続く仮庵の祭りの最終日、イエスが聖霊について預言されると、人々の間に分裂が起こりました。
A)『あの方は、確かにあの預言者なのだ。』と言う者たちーヨハネ7:40。
B)『この方はキリストだ。』と言う者たちーヨハネ7:41。
C)『まさか、キリストはガリラヤからは出ないだろう。』と言う者たちーヨハネ7:41。
その中にはユダヤ人たち(律法学者、パリサイ人、祭司長たちのこと)から遣わされた役人たちもいました。その役人たちの報告を聞き、話し合っているときに、ニコデモの提案により、イエスがガリラヤ出身かどうか調べることにしました。
ヨハネ7:53ーこのようなことがあった後、『そして人々はそれぞれ家に帰った。』となるわけです。52節で『調べてみなさい。』とあるので、ユダヤ人たちは家に帰って調べたのでしょう。
ヨハネ8:1ー一方、イエスはオリーブ山に行かれました。おそらく御父に祈るために、ひとり山へ行かれたのでしょう。
ヨハネ8:2ー姦淫の女が連れて来られた時、イエスは宮でみもとに寄って来た民衆に教え始めておられました。
イエスが宮のあるエルサレムに上って来られたのは、公生涯3年目の秋の『仮庵の祭り』を祝うためでした。十字架につかれる約半年前のことです。
ヨハネ7:2ーさて、仮庵の祭りというユダヤ人の祝いが近づいていた。
その時の雰囲気はどのようなものだったでしょうか?
みもとに寄って来た民衆も『仮庵の祭り』を祝うために、エルサレムに来ていた人々です。
祭りを祝うとは、『神を礼拝する』という意味です。
モーセの律法では、成人男子は年に3回神殿で神を礼拝するように命じられていました。(ただし、遠方の人々は年に1回でよかった)
申命記16:16ーあなたのうちの男子はみな、年に三度、種を入れないパンの祭り、七週の祭り、仮庵の祭りのときに、あなたの神、主の選ぶ場所で、御前に出なければならない。主の前には、何も持たずに出てはならない。
*イエスはすわって…当時、教える人が座り、聞く人々がその周りを取り囲むように立っていました。
ヨハネ8:3ー姦淫の場で捕らえられた女性は、民衆とイエスの間の真中に置かれました。律法学者とパリサイ人たちのこの行為により、その場はどのような空気になったと思いますか?
この時、この女はどのような思いだったでしょうか?
*姦淫…狭義では、不倫の関係のこと。性的不道徳全体、または独身者が性的罪を犯す場合は『不品行』という言葉が使われています。
1コリント6:18ー不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。
1コリント6:9~10ーあなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、
盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。
出エジプト記20:17/申命記5:21ーあなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。
※出エジプト記20章の『十戒』は、出エジプトを経験した第一世代に向けて、
申命記5章の『十戒』は、約束の地を前にした第二世代に向けてのもの。
ヨハネ8:4ー*姦淫の現場…なぜ現行犯でこの女性を捕まえることができたのでしょうか?
なぜ男性は連れて来られなかったのでしょうか?
ヨハネ8:5ーこの当時のイスラエルは、ローマの占領下にあったので、裁判はローマ政府が優先されていました。
律法学者とパリサイ人は、あたかも律法の専門家の如く「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。」と訴えていますが、何か違和感を感じませんか?
ここで私たちは、モーセの律法がどのように命じているのかを確認する必要があります。当時の指導者である律法学者やパリサイ人の言葉だからといって、鵜呑みにするのは危険です。
律法学者やパリサイ人たちは、本当にモーセの律法に従おうとしているでしょうか?
それとも、人間的な策略が別にあるのでしょうか?
申命記22:22~24ー夫のある女と寝ている男が見つかった場合は、その女と寝ていた男もその女も、ふたりとも死ななければならない。あなたはイスラエルのうちから悪を除きさりなさい。
ある人と婚約中の処女の女がおり、他の男が町で彼女を見かけて、これといっしょに寝た場合は、
あなたがたはそのふたりをその町の門のところに連れ出し、石で彼らを打たなければならない。彼らは死ななければならない。これはその女が町の中におりながら叫ばなかったからであり、その男は隣人の妻をはずかしめたからである。あなたがたのうちから悪を除き去りなさい。
レビ記20:10ー人がもし、他人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。
モーセの律法によれば、姦淫の罪を犯した場合は、男女共に石打ちの刑でした。
姦淫罪は、ひとりでは犯すことのできない罪だからです。
本来なら、宮で民衆を教える立場にいる律法学者たちが、律法の適用に欠陥があるということです。
ヨハネ8:6~7ー彼らは何故 このような矛盾をあらわにしてまでイエスに問い続けたのでしょうか?
モーセの律法に自らが従い、民衆にも律法を教え従うように導く立場にありながら、その律法を『イエスを告発する理由を得るため』に悪用していました。
これは、現代のキリスト教界にも起こり得ます。だからこそ、私たちたちは指導者の言葉を鵜呑みにするのではなく、聖書のみことばとおりかどうかを確認する必要があるのです。聖書はそうすることを勧めています。
使徒17:11bー非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
彼らの訴えに対して、イエスは何を地面に『書いていた』と思いますか?
ーおそらくレビ記20:10の律法を書いていたのではないかと、私個人としては思います。それにより、彼らの専門分野である律法が何と言っているのかを、彼らに思い起こさせるためではないかと…。
彼らのこの訴えは、イエスをどのような窮地に立たせているでしょうか?
石打ちにしないとどういうことになりますか?
彼らの要求通り石打ちにすれば、どういうことになりますか?
ヨハネ8:7ー*罪のない者…罪の性質のない者、の意。
新共同訳:罪を犯したことのない者。
*『罪のない者』だけが、人を裁く権威を持っています。
マルコ2:7ー「この人は、なぜ、あんなことを言うのか。神をけがしているのだ。神おひとりのほか、だれが罪を赦すことがことができよう。」
マルコ2:10ー人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために。」こう言ってから、中風の人に、
ヨハネ8:46ーあなたがたのうちだれか、わたしに罪があると責める者がいますか。わたしが真理を話しているなら、なぜわたしを信じないのですか。
1ペテロ2:22ーキリストは罪を犯したことがなく、その口 に何の偽りも見いだされませんでした。
ヨハネ8:8ー何も答えられない沈黙の時間は、彼らにも考える時間を与えたことになります。
この女性はどのような思いでいたと思いますか?
ヨハネ8:9ー7節のイエスのことばに、律法学者やパリサイ人たちはどのような反応しましたか?
なぜ『年長者たちから』去って行ったのでしょう?
なぜこの女性は、そこから去らなかったのでしょう?
ヨハネ8:10ーイエスがこの女性に話しかけられたのは、彼女とイエスさまとふたりきりの状況になったときでした。
今まで『罪人』として扱われてた女性に対し、イエスは「婦人よ。」と 声を掛けられました。そこには、イエスのどのような心が表れていますか?
そのようなイエスをどう思いますか?
イエスさまは、律法学者やパリサイ人たちのように『人間の基準』で人を裁くことはなさいません。神の赦しを持って、悔い改めに導かれるお方であり、その神からの和解を拒み続けた人のみ、最終的な神の権威において裁かられるお方です。
私たちが地上で生きている限りは、いつからでもこのキリストにおける神との和解を受け入れる機会は与えられています。
ヨハネ8:11ー原文では「*主よ。だれもいません。」となっています。
イエスはこの女性に何を与えていますか?
そのようなことを言われるイエスは、どのようなお方だと思いますか?
Ⅱ コリント5:21ー神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。
この女性はイエスを『主よ。』と呼んでいます。*新改訳聖書脚注参照。 ここに彼女の信仰があるのがわかりますか?
ローマ10:9~10ーなぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたのこころで神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
1コリント12:3bーですから、私は、あなたがたに次のことを教えておきます。神の御霊によって語る者はだれも、「イエスはのろわれよ」と言わず、また、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。
一方、律法学者やパリサイ人たちは『先生』と呼んでいるところに、イエスに対する姿勢に違いがあります。
ヨハネ8:4ーイエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場で捕まえられたのです。
このことによって、この女性の人生は今後どうなると思いますか?
あなたもイエスあって、罪赦された人生を歩みたいと思いませんか?
<おまけ>
これは、イエスの十字架の半年前の出来事です。このときはまだユダヤ教の『律法』による死刑『石打ちの刑』が有効でした。またイエスの昇天後の早い時期に、使徒7:57~59でステパノは『石打の刑』で殉教しています。
しかしこの出来事から半年後の過越の祭りの時には、ローマ政府によりユダヤ人から死刑の執行権が剥奪されていたのです。それはほんの短期間のことでしたが、イエスの裁判はちょうどその間に行なわれたのです。
ヨハネ18:31ーそこでピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、自分たちの律法に従ってさばきなさい。」ユダヤ人たちは彼らに言った。「私たちは、だれを死刑にすることも許されてはいません。」