読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

携挙(空中再臨) 〜1テサロニケ4:16~17、1コリント15:52〜

患難時代前のどのタイミングで起こるかはわかりませんが、クリスチャンに深く関わっている出来事が『携挙』です。

携挙の恵みに与るのは、イエスを救い主(キリスト)だと信じ、信頼する教会時代の信者(聖霊の内住がある者)たちだけであり、旧約時代のエノク(創世記5:24、ヘブル11:5)とエリヤ(Ⅱ 列王記2:11)は、その『型』です。

 

携挙…教会によっては、牧師ですらどういう漢字で表記するのかすら知らないというこの言葉…。

実は、「携挙」という言葉自体は「三位一体」と一緒で、聖書には出てきません。しかし聖書の示す神が三位一体の神であるように、携挙という現象が聖書に預言されています。問題は言葉の有無より実態です。

 

1テサロニケ4:16ー 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、

 

【空中再臨】

既に亡くなった教会時代の信者が復活し、キリストと共に天から下って来られること。

 

【携挙】

1テサロニケ4:17ー次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。

*「携挙」の意味は、字の如く『携え、挙げられる』のです。『携挙』と『空中再臨』は、同時期に起こります。

 

この時、空中で主に会い、そのまま天に挙げられるのです。天から迎えに来るキリスト 神様側からの視点でいうと『空中再臨』、地上にいるクリスチャンである人間側からいうと『携挙』という表現になるわけです。

携挙されるクリスチャンは一瞬にして、キリストと同じ栄光のからだに変えられます。

 

1コリント15:52終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

*携挙に与る者は、肉体の死を経ずに天に挙げられる『幸いな者』です。

 

【キリストの再臨のタイミング】

マタイ24章にはキリストの再臨について、主自らが語られています。そこには二種類の『再臨』が語られているので、きちんと区別しないと混同してしまいます。

マタイ24:15~35ー患難時代後半〜『地上再臨』…患難時代の終わり。

マタイ24:36~51ー患難時代前の『空中再臨』…教会時代の終わり。

 

カトリックプロテスタントも御国に入る時には関係ありません。

問題は、信じていることが聖書通りか否か…。

神から出たものか、人から出たものか…?

信仰が、キリストなのか?組織または人なのか…?

 

無駄な信仰にならないように、みことばで確認することが重要です。

信仰もメンテナンスを‼

…といっても、人や組織信仰の人は、みことばを軽んじて『聖書を調べる』こともしません

聞いたこと、副読本に書かれていることを鵜呑みにしていては危険です…。

 

バイスタで聖書を使わない学びは、要注意…‼

今のうちに軌道修正しないと携挙に間に合わなくなります。なぜなら、携挙は『たった今〜反キリストとイスラエルの七年契約までの間に必ず起こること』だからです。

 

【空中再臨と地上再臨の違い】

空中再臨人の目には見えない。マタイ24:40~41

 

地上再臨しるしが天に現われ、人の目で見える地上の人々は、イエス様が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。マタイ24:30

 

マタイ24:36~37ー36節…ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。

 

携挙 (キリストの空中再臨) は、いつ起こるのかわからないと聖書は言っています。

『七年間の患難時代』の始まりは、反キリストとイスラエルの契約時…ダニエル9:27ーならば誰の目にも明らかです。

始まりがわかれば、当然3年半経てば中期、七年経てば終わることも分かります。

 

『患難期中期携挙説』と『患難期後携挙説』は、携挙の時期を特定出来ることになり、マタイ24:36のみことばと矛盾します。

 

患難期中期説を指示する人々は、1コリント15:52『終わりのラッパ』を黙示録11:15『第七のラッパ』と混同しています。パウロがコリント人への手紙を書いたのはAD55~56年頃ですから、AD90年頃にヨハネが書くことになる黙示録の内容を知る由もなかったはずです。

 

“その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。” ーこのみことばが成就するには【患難期前携挙説】しかあり得ないのです。

 

使徒17:11ーここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと、毎日聖書を調べた。

 

【患難期前携挙説の意味】

教会は『キリストの花嫁』ですから、キリストと結婚式を挙げるために、花婿の実家である天の父の家に行くのです。今はそこで式場の用意を、御子おひとりで整えてくれているのです。ヨハネ14:1~4。挙式そのものは、地上の七年間の患難期にあたります。

 

患難期前携挙を待ち望むのは、花婿なるキリストのお迎えを待ち望む『真の花嫁』を意味します。

患難期中・後携挙を待ち望むというのは、実際には誰を待ち望むのでしょう?

何の目的を持って、患難期の終わりに天に行くのでしょう?

すぐに地上は『千年王国』となり、キリストの地上再臨があるのに…。

 

実は…キリストの地上再臨は患難期の終わり、先に来るのは偽の花婿である『反キリスト』です。

みことばをみことばで確認しながら、文脈に沿って読み『偽の花嫁』にならないように気をつけなくてはなりません。

 

携挙はいつでも起こりうる事実。

明日も今日と同じ平和な一日を過ごせる、と思っていてはいけないのですよ。

今日を無事に過ごせたことを神に感謝し、明日も精一杯生きる。そしてイエス様にしっかりと繋がって、いつ花婿のお迎えが来てもいいように、花嫁として目を覚ましていないといけない時なのです!!

 

ヘブル10:37~39ー「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。遅くなることはない。

わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」

私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。

 

「キリストを信じている。」と言いながら、救いの確信のない人は何を信じているのだろうか…?と不思議に思います。

「イエスが救い主だと信じている。」と言うのなら、なぜ「天国に入れるだろうか?」と疑うのでしょう…?救い主だと信じるなら、その信仰により当然御国の民になってるはずじゃないですか!!

 

イエスが救い主であるならば、七年間の患難時代からも教会時代のまことの信者は救われるのです!!

黙示録3:10ーあなたが、わたしの忍耐について言ったことばを守ったから、わたしも、地上に住む者たちを試みるために、全世界に来ようとしている試練の時には、あなたを守ろう。

 

それともキリスト・イエスは『全知全能の神』ではないとでも思っているのでしょうか…?でもそれじゃ異端信仰になってしまいます。

 

『救い主』だからこそ、神の大いなる御怒りの日(患難時代)からも信者を救うことがお出来になる方なのです。

 

救いは『神の恵みにより、信仰によって』です。

エペソ人への手紙2:8~10をよく読んでください!良い行ないは、救われた人がみことばに従った結果であって、救いの条件ではありません。

 

聖書の神を人間の頭で理解しきれるほど、縮小してはダメです!

全知全能なる神様は、人知を超えるお方ですから。

人間の頭で理解できる程度に下げて、神様の働きを縮小したり、制限したりしないことが大事です!

 

ルカ1:37神にとって不可能なことは一つもありません。

f:id:bluemome:20161004084033j:plain