使徒たちの中でだれが好きですか?
・ユダヤ人に対する使徒…シモン・ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、ピリポとバルトロマイ(ナタナエル)、トマスとマタイ、アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンとマッテヤ(イスカリオテ・ユダの代わり)。cf マタイ10:2~4、使徒1:25~26
・異邦人に対する使徒…パウロ。cf ガラテヤ2:8
使徒たちの中には名前だけの登場で、その働きが記載されていない者たちもいますが、私はペテロがなんとも人間味があって好きです。熱し易くて、冷め易い…ここは、そんな彼の性格があらわれている箇所だと思います。
さて、イエスはこれまでに2回、ご自分が去って行くこと、イエスが行く所には弟子たちは来ることができないことを伝えられました。
ヨハネ7:33~36ーそこでイエスは言われた。「まだしばらくの間、わたしはあなたがたといっしょにいて、それから、わたしを遣わした方のもとに行きます。
あなたがたはわたしを捜すが、見つからないでしょう。また、わたしがいる所に、あなたがたは来ることができません。」
そこで*ユダヤ人たちは互いに言った。「私たちには、見つからないという。それならあの人はどこへ行こうとしているのか。まさかギリシャ人の中に離散している人々のところへ行って、ギリシャ人を教えるつもりではあるまい。
『あなたがたはわたしを捜すが、見つからない。』また『わたしのいる所にあなたがたは来ることができない。』とあの人が言ったこのことばは、どういう意味だろうか。」
ヨハネ8:21ーイエスはまた彼らに言われた。「わたしは去って行きます。あなたがたはわたしを捜すけれども、自分の罪の中で死にます。わたしが行く所に、あなたがたは来ることができません。」
今回はユダヤ人たちにではなく、弟子たちに向かってはっきりと告げられています。
ヨハネ13:33ー子どもたちよ。わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない。』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです。
ヨハネ13:36ー「主よ。どこにおいでになるのですか。」と、ペテロはどのような気持ちで尋ねたと思いますか?
『わたしが行く所』『わたしを遣わされた方のもと』とは、どこのことだと思いますか?
なぜ弟子たちは、『今はついて来ることができない』のでしょうか?
*ここでの『今は』は『今しばらくの間は』という意味です。
『しかし後にはついて来ます。』とは、どういう意味でしょうか?
ヨハネ13:37ーイエスは十字架を前に、このことを弟子たちに語られています。
イエスが『行く所』とは、明らかに『死後の世界』があることを指しています。
cf 金持ちとラザロ
もしも『今日』あなたの地上での人生が終わるとしたら、あなたの魂はどちらに行くと思いますか?
問題は『わからない』とか『その中間(“無になるだけだ”とか、“煉獄”ということは、聖書は述べていません)』はありません。聖書が伝えているのは『燃える火の池』か『アブラハムのふところと言われるパラダイス』かの二カ所だけです。
あなたのためには命も捨てます…ペテロは、主イエスの言われた意味をどう理解したのでしょう?
*ここでペテロが言った『今は』は『今まさにこの瞬間』という意味です。
ヨハネ13:38ーイエスに対する思いに熱く語るペテロに、イエスは何と答えておられますか?イエスは何をご存じだったのでしょう?
『鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います』
cf マルコ14:30ーイエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏がニ度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」
この予告はあとほんの数時間で成就します。イエスはなぜ、ペテロに予告できたのでしょう?ペテロ自身は、イエスが言われた通りになると思っていましたか?
このことから、人間はどのような存在だということがわかりますか?
ヨハネ14:1ーあなたがたは、心を騒がせてはいけません…イエスのこのことばから、弟子たちがどういう気持ちになったかを伺い知ることができます。
ヨハネ14:2~3ーイエスは何のためにこの世を去ると言っていますか?
ユダヤ人たちには、『あなたがたは、自分の罪の中で死にます。あなたがたは来ることができません。』と言われたのに、弟子たちには『わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。』と言われました。
天の御国に行くために必要なのは何だと思いますか?
神の愛と恵みにより頼むだけでいいのでしょうか?
cf ヨハネ3:16ー神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
cf ヨハネ3:36ー御子を信じる者は永遠のいのちを持つが、御子に聞き従わない者は、いのちを見ることがなく、神の怒りがその上にとどまる。
*神の怒りがその上にとどまる…聖書は、『御子に(御子を神の怒りから救い出してくださるメシアだと信じなさいという命令に)聞き従わない者は、神の怒りがその上にとどまる。』とはっきりと伝えています。このみことばを無視することは、危険です。
cf ヨハネ11:25~26ーイエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」
cf ヨハネ14:6ーわたしが道であり、真理であり、いのちなのです。
イエス以外に『天国への道』はないのでしょうか?
答えは、『イエス以外にはない。』と聖書は言っています。cf 使徒4:12
だからこそ、救いは『神の愛と恵みに、信仰によって応答した者だけ』なのです。あなたは信仰によって、神の招きに応答し救われていますか?
さて、イエスがペテロに予告したとおりのことが、大祭司カヤパの中庭で現実のものとなりました。
マルコ14:67ーペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、あのイエスといっしょにいましたね。」
女中にじっと見つめられている時のペテロの心境はどのようなものだったでしょう?
マルコ14:68ーしかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、*出口のほうへと出て行った。
一度目の否定…*異本:『すると、鶏が鳴いた。』を加えるものもある。
なぜ、ペテロは女中にきかれた時、イエスとの関係を否定したのでしょう?イエスの弟子だとわかると何か不都合なことがあるのでしょうか?
見当もつかない…ペテロは真実を語っていますか?
この一言により、彼は何を失うことになりますか?
あなたは『神の真理(みことばの真理)』をとりますか?それとも『人との和(相手の気分を害したり、自分の評価を気にして、みことばの真理を語らずに耳障りの良いことだけを語ること)』をとりますか?
なぜ、ペテロは出口の方へと出て行ったのでしょう?そこには、彼のどのような心がありますか?
ペテロにとってイエスは、『あなたのためにはいのちも捨てます。』と言えるほど大切な存在でした。そこから一歩退いたペテロの行動から、人間のことばや心についてどう思いますか?
マルコ14:69ーそばに立っていた人たちに…別な女中が周りの人々にはっきりと知らせるかたちで「この人はあの人の仲間です。」と断言しました。
マルコ14:70ーしかし、ペテロは再び打ち消した。
二度目の否定。
この時、ペテロは周囲の注目の的になったことでしょう。ペテロはどんな気持ちでいたと思いますか?
マルコ14:71ーしかし、彼は*のろいをかけて誓い始め、「私は、あなたの話しているその人を知りません。」と言った。
*のろいをかけて…神の名にかけて、の意。
三度目の否定。
なぜペテロは『神の名にかけて』まで、イエスを否定したのでしょうか?
マルコ14:72ーすると、すぐに鶏がニ度目に鳴いた…この鶏の泣き声を合図に、ペテロは、ハッと我に返ります。
彼は何を思い出しましたか?
ペテロはイエスを否定したものの、そこを立ち去ろうとはせずにどうしていますか?
罪を犯したとき、ペテロのようにイエスにとどまって悔い改めるのか、イスカリオテ・ユダのように後悔しても自分で自分の罪を始末しようとするかで、結果は大きく変わるのです。悔い改めなくして、救いはないのです。