サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

ピリポの信仰 〜ヨハネ14:6~11〜

ヨハネ14:6ーイエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。


キリストの十字架の死、葬り、復活を経て、昇天した時に初めて天の御国への『道』が開かれました。

それは神の愛だけでなく、厳しい裁きをも含むキリストの教えであり、真理の道です。

 

*道・真理・いのち…イエスの初臨は、私たちの*のための贖いのいけにえ『神の小羊』として、十字架でほふられるためでした。そして**葬られ、三日目によみがえり、40日後に昇天されました。私たちを天の御国へと導く『道』となってくださったのです。

…神を無視し、自己中心な生き方。

**葬られ…『無罪』だったことを意味する。十字架刑はローマの極刑。ローマ法では十字架刑で死んだ者は、葬られることはなかった。イスラエルの律法では、木に吊るされた者は呪われた者とされるが、罪人の墓に葬られた。申命記21:23

 

エスの初臨は『裁き』のためではなく、『イエスをキリストと信じる人々を救う』ためでした。

ヨハネ12:47ーだれかが、わたしの言うことを聞いてそれを守らなくても、わたしはその人をさばきません。わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです。

 

ヨハネ14:7ーあなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。

 

*しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです…これはどういう意味でしょうか?

ヨハネ10:30ーわたしと父とは一つです。

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ヨハネ14:8ーピリポはイエスに言った。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」

 

*そうすれば満足します。…このピリポのこの言葉から、目に見える神を求める信仰が伺えます。

 

主イエスは、復活を疑ったトマスに対し、このように言われました。

ヨハネ20:29ーイエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。

 

『目で見て確認できる神』を慕い求める彼の心は、人間の偶像に頼る信仰心をあらわしています。

 

ヨハネ14:9ーイエスは彼に言われた。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。どうしてあなたは、「私たちに父を見せてください』と言うのですか。


ヨハネ13章を注意深く読めば、14~16章の教えは最後の過越の食事の席でのものであり、既にイスカリオテのユダがイエスを裏切るために去った後でのことだとわかります。

 

エスのピリポに対する対応から、イエスのどんな心を感じますか?

エスは彼に何を教えようとしておられるのでしょう?

 

*こんなに長い間、いっしょにいるのに信仰生活が長いからといって、必ずしも霊的に成長しているとは限りません。霊の目が開かれ、みことばの乳を飲み、いのちのパンであるみことばを日々食さなければ、霊的成人にはなりません。

ヨハネ1:43~44によれば、ピリポは公生涯五日目にナタナエルと共に弟子に加わっています。

 

*『わたしを見た者は、父を見たのです。』…霊的存在である神が、人が肉の目で見ても死なないように、人と同じ『血と肉』とを持って地上に来てくださったのが、御子イエスです。

律法では御名をみだりに唱えることは禁止されていました。しかし『イエス』の御名は、第二位格の神が人として来られた『人としての名』『友となってくださった名』なので、私たちは呼ぶことができるのです。

 

ヘブル1:3御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめ成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

 

ヨハネ14:10ーわたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

 

*わたしが父におり、父がわたしにおられる〜わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられる…とは、どういうことでしょうか?

 

コロサイ2:9ーキリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。

 

エスはご自分が神と『同一』であることを、『わざ』によって示しておられます。

 

ヨハネ14:11ーわたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。

 

エスはご自分が父におられ、父もイエスにおられると言ったことばを信じられなくても、何によって信じるように言われていますか?

 

マタイ7:15~16にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。

あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、*いばらからは取れないし、いちじくは、*あざみから取れるわけがないでしょう。

*いばら、あざみエデンの園でのアダムの罪の結果の『土地の呪い』を象徴。 

 

エスが言われた『わざ』は、旧約の預言者たちによって語られた『メシア的奇蹟・しるし』のことです。イエスの言う『父とわたしは一つです。』『わたしが父におり、父もわたしにおる。』ということばが理解できなくて、信じられなくても、イエスが行なわれている『メシアとしてのわざ』を見れば信じることができるでしょう、という意味です。

それは旧約聖書という神のことばによって確認とれることだからです。

 

現在も『偽指導者』が多勢出て来ています。どの指導者が本物で、どの指導者が『偽物』『毒麦の種を蒔く者』なのかを見分ける唯一の方法は、みことばによって検証することです。霊の目が開かれ、霊的判断力が与えられますように。

 

主は言われました。

マタイ7:14ーいのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。

 

*神の愛だけで、人類がみな救われるわけではありません。

多くの人たちが集っているから『安心』『正しい』のでありません。

エスのみことばに立っているかどうかです。牧師の個人的話しばかりではなく、聖書のみことばが解き明かされているかどうかが重要なのです。

 

礼拝後、心が満たされていますか?

みことばの理解が深まっていますか?

何かチャレンジを受けていますか?

キリストに近づけていますか?