イエスは、私たちを罪の奴隷から解放し、御国へ招き入れるために来られたメシア(=油そそがれた者)として、この地上に来てくださいました。しかし、当時のユダヤ人たちは、ローマ帝国からの政治的メシアを期待していました。
バプテスマのヨハネは『悔い改め』を説きました。それは来るべきメシアは、旧約聖書の預言にある通り、律法の動物のいけにえの血によるのではなく、さらに優れた神の小羊の尊い血による贖いを与えるものだということを意味します。
旧約聖書の預言書には、たくさんのメシア預言があります。
マタイ11:5ー盲人が見、足のなえた者が歩き、ツァラアトに冒された者がきよめられ、耳の聞こえない者が聞き、死人が生き返り、貧しい者たちに福音が宣べ伝えられている。
*これらはすべて旧約の『メシア預言』であり、その奇蹟をなさったのがイエスなのです。イエスが公生涯でなさったしるし・奇蹟は、それを見たユダヤ人たちが『イエスこそメシアである』ことを知り、信じるためでした。
ユダヤ人たちはイエスのなされるしるし(奇蹟)を見て、「この人は、ダビデの子(メシアの称号)なのだろうか。」と思いました。信仰的に、救いまであと一歩というところまで近づいたのですーマタイ12:23。
ユダヤ人たちは『リーダーコンプレックス』を持っており、自分でイエスを『メシア』だと結論づけることはせず、指導者の決定を待ちました。
しかし、民の指導者であるパリサイ人たちが考える『メシア』は、以下のことを満たす者だとしていました。
・パリサイ人の一員である。
・モーセ律法(記述律法)に忠実。
・口伝律法(言い伝え)にも忠実。
・パリサイ派の伝統を守る。
イエスは、モーセ律法には忠実でしたが、他は否定されました。イエスがパリサイ主義を否定していたため、彼らはイエスを『メシア』だとは認めたくなかったのです。しかし、もしイエスのメシア性を公に否定するのであれば、民の指導者として『イエスがメシア的奇蹟を行なっている理由』を民衆に説明する責任がありました。
そして考え出したのが、マタイ12:23『悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出している』というものでした。
これと同じ理由が、古代のラビ文書の中に言及されています。
ユダヤ教では、祭りの日に人を処刑してはいけないとあるのに、イエスを『過越の祭り』で処刑する理由として、イエスが悪霊のかしらに取り憑かれ、魔術を行なっていたからだとしています。
そのため当時の(そして現在でも)ユダヤ人たちは、イエスを正しく認識することができないのです。
今日、私たちが伝道するのは、異邦人の救いの完成がなった時に『携挙』が起き、ユダヤ人が民族的に回心したときに『キリストの地上再臨』が起き、千年王国という御国の時代を早く来たらせるためです。
ヨハネ12:12ーその翌日、祭りに来ていた大ぜいの人の群れは、イエスがエルサレムに来ようとしておられると聞いて、
*その翌日…ベタニヤのマリヤがイエスのからだに純粋なナルドの香油を塗り、『葬りの準備』をした翌日のこと。ニサンの月の十日(日)の出来事。
*祭り…過越の祭り。イエスが十字架にかかられたのはこの時。
*大ぜいの人の群れ…ユダヤ人の歴史家ヨセフスによると、『過越の祭りには世界中から270万人のユダヤ人が集まって来た。』とある。
ヨハネ12:13ーしゅろの木の枝を取って、出迎えのために出て行った。そして大声で叫んだ。「ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」
*しゅろの木…なつめやしの木(ヘブル語:タマル)。メシアを迎え入れる行為。
*ホサナ…ヘブル語:ホシャー=あなたは救いなさい、の意。ナー=ああ。(命令・嘆願形…どちらになるかは、文脈で判断)ここでは、嘆願形『救ってください』の意。
詩篇118:25aーああ、主よ。どうぞ救ってください。
*_部:ホサナ。この意味で、ユダヤ人たちがメシア(油そそがれた者、救い主)を呼び求めなければ、キリストの再臨はありません。
1マカバイ記13:51ー第172年の第二の月の二十三日にシモンとその民は、歓喜に満ちてしゅろの枝をかざし、竪琴、シンバル、十二絃を鳴らし、賛美の歌をうたいつつ要塞に入った。イスラエルから大敵が根絶されたからである。
*シリヤの支配下にあったイスラエルで、シリヤの王アンティオコス・エピファネスによって 汚された神殿をBC164年ーハスモン家のユダ・マカバイが奪還し、きよめたのを記念して始まったのが『ハヌカの祭り』、BC142年ーシモン・マカバイがイスラエルの独立を勝ち取りました。
ユダヤ人たちはイエスの初臨時、この時と同じようにローマ帝国の支配下からの政治的メシアを待ち望んでしまいました。イエスの公生涯において、一度も『政治的メシア』としての預言をされたことはありませんでした。
ですから、イエスは十字架を前にしてこのように言われました。
マタイ23:39ーあなたがたに告げます。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたが言うときまで、あなたがたは今後決してわたしを見ることはありません。」
詩篇118:26ー主の御名によって来る人に、祝福があるように。
私たちは主の家から、あなたがたを祝福した。
*ユダヤ人たちが民族として『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』と、イエスを政治的メシアではなく、正しく罪の支配下から解放するために来られた『霊的メシア』だと認識しなければ、地上再臨は起きないのです。
そしてそれは、ハルマゲドンの戦いと関連して成就します。
七年間の患難時代を生き延びたユダヤ人たちを根絶するために迫って来る反キリストの軍勢を前に、キリストの地上再臨三日前にまず民の指導者たちが『イエスこそメシアである』ことに気づき、民を悔い改めに導き、イスラエルのレムナントであるその時のユダヤ人たちが民族的に回心して「ホサナ。」と主に肉体的・霊的救いを呼び求めた時に、彼らの祈りに答えてキリストの地上再臨が起こるのです。
では、キリストの初臨時のユダヤ人たちはどのような意味で『ホサナ。』と言ったのかを見ていきましょう。
ヨハネ12:14ーイエスは、ろばの子を見つけて、それに乗られた。それは次のように書かれているとおりであった。
*ろばの子…イエス誕生の約500年も前にゼカリヤによって預言されています。
ゼカリヤ9:9ーシオンの娘よ。大いに喜べ。
エルサレムの娘よ。喜び叫べ。
見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で、救いを賜わり、
柔和で、ろばに乗られる。
それも、雌ろばの子のろばに。
ヨハネ12:15ー「恐れるな。シオンの娘。見よ。あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
ヨハネ12:16ー初め、弟子たちはこれらのことがわからなかった。しかし、イエスが栄光を受けられてから、これらのことがイエスについて書かれたことであって、人々がそのとおりにイエスに対して行ったことを、彼らは思い出した。
13節で、メシア初臨時のユダヤ人たちは、「バンザイ!ローマから救ってくれ!!」という意味で言っており、この預言の言葉を本来の正しい意味で言ってなかったので成就しなかったのです。
*この箇所では、四つのグループの人々が登場します。
その最初が①『弟子たち』です。彼らは、後にゼカリヤの預言はイエスを指していたことを思い出しました。
ヨハネ12:17ーイエスがラザロを墓から呼び出し、死人の中からよみがえらせたときにイエスといっしょにいた大ぜいの人々は、そのことのあかしをした。
*②大ぜいの人々…イエスがラザロを墓からよみがえらせたときにイエスといっしょにいて、イエスが死者を復活させたことをあかした人々。
ヨハネ12:18ーそのために群衆もイエスを出迎えた。イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからである。
*③群衆…勘違いをして、イエスを間違った『政治的メシア』像で迎えた人々。
現在でも、イエスのことを勘違いしている人々がいます。その人たちが、正しくイエスを認識できるように、私たちは福音を伝えていく責任があるのです。
ヨハネ12:19ーそこで、パリサイ人たちは互いに言った。「どうしたのだ。何一つうまくいっていない。見なさい。世はあげてあの人のあとについて行ってしまった。」
*④パリサイ人たち…イエスを殺そうと企んでいた人々。彼らの意に反して、群衆が喜んでイエスを迎えていることを苦々しく思っている人々です。
私たちクリスチャンは、②の大ぜいの人々のように、イエスのことを正しく『霊的メシア』『御国の王』として認識し、証ししていく人々なのです。
ユダヤ人たちが正しくイエスを『霊的メシア』『御国の王』として認識するのは、ホセア書5:15~6:3の預言と合わせて、患難時代の終わりに起こり、メシア(キリスト)の地上再臨となります。
ホセア5:15ー彼らが自分の罪を認め、
わたしの顔を慕い求めるまで、
わたしはわたしの所に戻っていよう。
*わたしの所…天の御国。御父の御座の右。
ホセア6:1ー「さあ、主に立ち返ろう。
主は私たちを引き裂いたが、また、いやし、
私たちを打ったが、
また包んでくださるからだ。
*イスラエルの民族的回心。
ホセア6:2ー主は二日の後、私たちを生き返らせ、
三日目に私たちを立ち上がらせる。
私たちは、御前に生きるのだ。
*ユダヤ人の民族的回心は、メシアの地上再臨の三日前から起こります。
ホセア6:3ー私たちは、知ろう。
主は知ることを切に追い求めよう。
主は暁の光のように、確かに現われ、
大雨にように、私たちのところに来、
後の雨のように、地を潤される。」
私たち異邦人信者であるクリスチャンは『ホサナ』という賛美をよく歌いますが、本当に『ホサナ』と言わなくてはならないのは、ユダヤ人なのです。
キリストの花嫁である私たちが今 待ち望んでいるのは、花婿なるキリストのお迎え『携挙』ですから、『マラナタ』と待ち望むべきなのです。
携挙は、教会に対する神様のご計画の一つであり、
地上再臨は、イスラエルに対する神様のご計画の一つであることを、私たちは知らなくてはなりません。