サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

キリストの弟子 〜ヨハネ12:20~26〜

♪ありのままで♪ という歌が流行っていますが、神様に立ち返るときも『罪あるままの姿』でいいのです。自分で自分を清めることの出来ない人間のために、神の御子イエスが十字架で代価を払ってくださったのですから。

1コリント6:20あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

 

『義認』…神を信じる決心をした者を、その信仰による『義』と認めてくださいます。

その人には、保証として聖霊の内住が与えられます。

1コリント12:3b聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です。」と言うことはできません。

 

ヨハネ14:16~17a私は父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

その方は、真理の御霊です。

 

これは、信仰生活のスタート時点でのことです。

マタイ28:19~20にあるイエス様の三大命令は、「信者をつくりなさい。」ではなく『弟子としなさい。』『わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。』というものでした。

 

新約聖書には『クリスチャン=キリスト者』という表現は、ほとんどありません。大部分が『弟子たち』と言われています。

使徒11:26彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。

 

つまり、キリストの十字架の贖いを信じて、その死につくバプテスマを受けるということは、自己中心の古い性質、生き方に死に、キリストの弟子として『師』であるキリストの教えに倣う生き方が求められているわけです。

Ⅱ コリント5:17だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古い者は過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

 

ローマ6:3それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。

 

『キリストの死にあずかるバプテスマとは何か…?

新しく『キリストの弟子』となった者たちに何を教えたのか…?

 

 

ヨハネ12:20さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。

*祭り過越の祭り。公生涯最後の過越の祭り。

cf ヨハネ12:1aイエスは過越の祭の六日前にベタニヤに来られた。

 

ギリシャユダヤ教に改宗したギリシャ人。彼らもイスラエルの神を礼拝するために、エルサレムに上って来ていた。

 

ヨハネ12:21この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、「先生。イエスにお目にかかりたいのですが」と言って頼んだ。

*この人たちユダヤ教に改宗したギリシャ(異邦人)

*ガリラヤのベツサイダの人ピリポ…ピリポはユダヤ。キリストの十二弟子のひとり。

 

ヨハネ12:22ピリポは行ってアンデレに話し、アンデレとピリポとは行って、イエスに話した。

*アンデレとピリポ…共にガリラヤ出身のユダヤ人のキリストの弟子。彼らが、ユダヤ教に改宗したギリシャ人たちをイエスに取り次ぐつなぎ役になった。

このように福音』は、もともと神の選びの民であるユダヤ人が、メシアと異邦人をつなぐという役割を担っていました。

 

しかし、肝心のユダヤ人たちはイエスのメシア性を『御国の王』ではなく、ローマ帝国から解放 してくれる『政治的メシア』と勘違いして、イエスを『この世の王』として迎え入れたところだったのです。cf ヨハネ12:12~19

 

そこにこのギリシャ人(異邦人)の改宗者たちが、イエスが聖書の預言通りの『御国のメシア』かどうかを確かめに来ました。

 

ヨハネ12:23すると、イエスは彼らに答えて言われた。「人の子が栄光を受けるその時が来ました。

*栄光を受けるその時十字架。

異邦人改宗者たちが、イエスのメシア性を正しく理解し、確認しに来た時のことばです。

 

ヨハネ12:24まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

*一粒の麦イエスご自身のこと。イエスは自分の罪のためにではなく、他者(全人類)の罪のために、身代わりの『十字架の死』という犠牲を払われた。

私たちキリストにつく者は、師であるキリストに倣う者として、他者のために犠牲を払う生き方が求められています。人は自分の生活や懐に影響のないギリギリのところで『犠牲っぽい』生き方をしています。しかし、イエス様の公生涯は、

マタイ8:20すると、イエスはに言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕する所もありません。」*彼…律法学者。 でした。

 

*豊かな実(新共同訳:多くの実)…イエス様がおられたその時代の人々だけでなく、のちの時代の人々をも救うことになります。

ヨハネ3:16ー神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

ヨハネ12:25自分のいのちを愛する者はそれを失い、この世でそのいのちを憎む者はそれを保って永遠のいのちに至るのです。

*自分のいのちを愛する者…『自分の生活を大事にする者』の意。 

*この世でそのいのちを憎む者…『自分の生活を優先させない者』の意。自己中心的な生き方ではなく、神中心の生き方を選び取る者のこと。

 

ヨハネ12:26わたしに仕えるというのなら、その人はわたしについて来なさい。わたしがいる所に、わたしに仕える者もいるべきです。もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます。

*私に仕える…イエスを信じて『クリスチャン』となった者は、イエスに従って生きる決心をした人々のはずです。決心し従ったからこそ、最初の命令である『バプテスマ』を受けたのです。

 

水の『バプテスマ』を受けたから『クリスチャンになる』のではなくイエスの十字架の贖いを信じたからこそ聖霊バプテスマ。cf 1コリント12:3b)、水の『バプテスマを受けたのです。

 

イエスを信じ、従う決心をした『弟子』たちにも、『自分に死ぬ』という覚悟を持つことを神様は求めておられます。

そのような生き方を選び取る人には、天の父が『報いてくださる』と主は約束されています。

 

*報いてくださる…「ご利益宗教と同じじゃないか!」と言われる方がおられますが、『報いてくださる』というギリシャ語は『ティマオー』値をつける』『尊敬する』という意味です。そしてこれは、聖書の約束でもあります。

 

マタイ6:1~4人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。そうでないと、天におられるあなたがたの父から、報いが受けられません。

だから、施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません。まことに、あなたがたに告げます。彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです。

あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。

あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

 

では、この『報い』とは何でしょう?

ルカ16:10小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。

*小さい事…この世のこと。

*大きい事…御国のこと。御国の管理を任せることが『報い』です。

 

イエス様は、宗教指導者たちにではなく『群衆』(信者全員)に対して、次のように言われました。

ルカ14:25~27さて、大ぜいの群衆が、イエスといっしょに歩いていたが、イエスは彼らの方に向いて言われた。(新共同訳:イエスは振り向いて言われた。)

「わたしのもとに来て、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そのうえ自分のいのちまでも憎まない者は、わたしの弟子になることができません。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。

*これが、教会時代の信仰の基準です。

神様が求めておられるのは、ただ「信じる」と口で言うだけの『信者』ではなく、自分の生活を第一とする生き方を捨て、キリストの福音を告げ知らせるという神の御国を第一とするために犠牲を払う『キリストの弟子』です。

足りない者ですが、このような生き方のできる『キリストの弟子』としての新たな一歩を踏み出したいと思います。