イエス・キリストを信じて救われて欲しいと願い、私たちは伝道します。
しかし、洗礼準備会を経て、バプテスマを受けた後の『クリスチャンとしての信仰生活』は、苦しい時の神頼み、みことばの切り張り適用ばかりになっていませんか?
神様の御心を求める信仰生活を送っているでしょうか?
みことばの適用は、文脈に沿って適切に、一貫性を持ってなされているでしょうか?
その時、その時で適用がズレてしまっては、神の御心に沿ってというよりは、むしろ自己中心的にみことばを利用していることになってしまいます。
ローマ人への手紙は、大きく二つに分けることができます。
①1〜11章…基本的教理。信仰による義。
*9〜11章…イスラエルの救いについての教理。
②12〜15章…神のご計画を知ったクリスチャンの信仰生活について。
13章では、『上に立つ権威』について教えています。
私たちはどのような基準で、適用すべきでしょうか?
歴史において、神様はこの『上に立つ権威』をどのように用いてこられたのでしょう?
ローマ13:1ー人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
聖書は『人は、上に立つ権威に従うべき』だと教えています。それは、すべての権威は『神によって立てられている』からです。
ノア契約によって『人間による統治の時代』が始まりました。ノアは人類代表として神様と契約を結びましたから、存在するすべての『国家』には『政府』が存在します。
『人間による統治の時代』は、やがて来る七年間の患難時代の中期に三人の王たちが倒されるまで続きます。患難時代は、世界は統一政府のもと『十の王国』になり、『十人の王たち』がいます。
世界統一政府 〜ダニエル書7:23~24〜 - サザエのお裾分け
患難時代中期に、反キリストと『十人の王たち』との戦い(世界戦争)が起こり、三人の王たちが倒されます。すると、残った七人の王たちは恐れをなし、王の権威を反キリストに差し出し『人間による統治の時代』が終わります。
患難時代後半の3年半は、全世界は反キリストの支配下(サタンの支配下)に置かれることになります。つまり、Ⅱ テサロニケ2:6~7の反キリストの現われを『引き止めているもの』とは、『人間による統治=人間政府』なのです。
Ⅱ テサロニケ2:6~7ーあなたがたが知っているとおり、彼がその定められた時に現われるようにと、いま引き止めているものがあるのです。
不法の秘密はすでに働いています。しかし今は引き止める者があって、自分が取り除かれる時まで引き止めているのです。
『政府』が存在する理由は、法秩序を保つためです。しかし、人間の政府関係者がキリストを信じる者たちで形成されているわけではありません。むしろ、キリストを知らず、サタンの支配下にあります。ですから、サタンは元々『鉱物でできたエデンの園ーエゼキエル28:12~15』を任されていたように、この世の人に任された権威を奪おうとしています。
クリスチャンにとって住みやすい国は、現在の地球上には存在しません。
キリストを信じる者たちにとって本当に住みやすい国は、キリストが『王の王』として統治される『千年王国』だけです。だから『神の御国』を待ち望むのです。
異邦人のための使徒パウロだけでなく、テトスもペテロも『上に立つ権威に従うように』教えています。
テトス3:1ーあなたは彼らに注意を与えて、支配者たちと権威者たちに服従し、従順で、すべての良いわざを進んでする者とならせなさい。
1ペテロ2:13~15ー人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、
また、悪を行なう者を罰し、善を行なう者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。
というのは、善を行なって、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。
1ペテロ2:17ーすべての人を敬いなさい。兄弟たちを愛し、神を恐れ、王を尊びなさい。
*すべての『権威』の背後には、神の許しがあるからです。
ローマ13:2ーしたがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
*権威に逆らっている人…どんな『大義名分』があっても、権威に逆らうことは『神の定めにそむいている』ことになります。
*自分の身にさばきを招く…神からくる『さばき』とこの世の権威者からくる『さばき』とがあります。
アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として知られ、ノーベル平和賞まで受賞したキング牧師は、働きは素晴らしかったかもしれませんが、時の政府に逆らったために投獄され『自分の身にさばき』を招く結果となりました。
ローマ13:3ー支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。
* 支配者…権威者。
*善を行ないなさい…cf ローマ12:21ー悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
ローマ13:4ーそれは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。
*悪を行なう人には怒りをもって報いる…神様は時に『悪政』をも立て、ご自分の民イスラエルを悔い改めに導かれました。その良い例が『バビロン捕囚』と言えるでしょう。
土地の安息を守らず、偶像崇拝の罪を重ねた南ユダ王国の人々を悔い改めに導くために、バビロン帝国を用いられました。その時、神は預言者エレミヤを通して助言を与えられました。
エレミヤ29:4~7ーイスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。「エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に。
家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。
妻をめとって、息子、娘を生み、あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。
わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるのだから。
しかし、時のユダの王ゼデキヤは、再三エレミヤの預言を無視した結果、目の前で息子たちをバビロン軍に殺された挙句、目をくり抜かれ、足かせをかけられて捕囚に引いて行かれる結果となりました。神の立てた『預言者』という権威に逆らった『さばき』でした。
バビロンの地で悔い改めたユダの民を、神は次に興ったメド・ペルシャ帝国のペルシャの王クロスの命令によりイスラエルに帰還させました。またユダヤ人を苦しめたバビロン帝国を滅ぼされました。
ローマ13:5ーですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。
パウロは、『良心のためにも』権威者に従うべきだと教えています。
ローマ13:6ー同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。
*みつぎ…当時のイスラエルを政治的に支配していたローマ帝国に対する直接税。
ローマ13:7ーあなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。
*みつぎ、税…納税のすすめ。ごまかしてはならないのです。
神の御子として納税の義務がなかった主イエスも納税されました。
マタイ17:27ーしかし、彼らにつまづきを与えないために、湖に行って釣りをして、最初に釣れた魚を取りなさい。その口をあけるとスタテル一枚が見つかるから、それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい。
イエスは罪人とともに食事をし、福音を語られました。
自分の目にたとえ『悪』や『無能』に見える権威者であっても、聖書は『従う』ことを命じておられます。
では、私たちは『上に立つ権威』に盲従すべきでしょうか?
いいえ。私たちは牧者であっても、国の政府であっても、聖書の権威の方が上にあるということをしっかりと理解すべきです。常に聖書の権威と照らし合わせ、どちらの権威に従うかを決断する賢さが必要です。
1テモテ2:1~2ーそこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。
それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。
旧約の律法でも『殺してはならない』とあり、キリストの新しい戒めでは『互いに愛し合いなさい』とあります。ですから、たとえ国が戦争を決めたとしても、神を信じる者として反対の立場をとるべきでしょう。ときには『投獄・拷問』を受ける結果になることがあるかもしれませんが、聖書の権威に従うことを選び取る信仰が求められています。
そうならないようにするためにも、神を恐れない政府関係者たちであっても、倒そうと運動するのではなく、彼らが正しい判断ができるようにととりなしの祈りをして、支える責任がクリスチャンにはあるのです。イエス様もご自分を捕え、十字架につけた人々のために、十字架の上からとりなしの祈りを捧げられました。
私たちが『上に立つ権威』に対して同意できないのは、聖書の権威に逆らう命令が出された時だけです。『キリストの福音を伝えるな』『信仰を捨てよ』…このような命令が出された場合、殉教することさえ求められることになります。
黙示録2:10bー死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。