読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

実によって見分ける 〜マタイ7:15~16〜

使徒17:11bー非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。

 

このみことばは、とても大切です。
どんなに素晴らしいと思えるメッセージでも、みことばによる確認は必須です。

 

そしてもう一つ大切なことをイエス様は教えてくださいました。

マタイ7:15~16にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。

あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。

 

*『実』とは、御霊の実です。

ガラテヤ5:22~23ーしかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、

柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。

 

教会の指導者たちに『御霊の実』が結ばれているか否かで、本物か偽物かを見分けられる、とイエス様は教えてくださったのです。

愛、喜び、平安…神様から来るもの。

寛容、親切、善意…他者に対して流すもの。

誠実、柔和、自制…自分自身に対してすべきもの。

 

ですから『〜しなければならない。』と直接的な命令をしなくても、『聖書にこう書いてあります。』とみことばを使ってやんわりと…でも従わない時には『不従順』という空気が流れ、「悔い改めます。」と言うと「素晴らしい!」と褒めることにより圧力がかかる場合は注意が必要です。

 

その時にこそ、そのみことばが文脈的に適用できるかどうかを確かめ、主に祈る時間を取らなくてはいけないのです。『いついつまでに悔い改めなさい。』と時間を区切られるものではなく、主との時間を十分にとり、御霊の導きにこそ従うべきだと思います。

自分の気持ちが伴わないのに、口先だけで「悔い改めます。」と言うのは本当の悔い改めではないからです。

1サムエル16:7bー人はうわべを見るが、は心を見る。

 

先日、こんなことがありました。

心の病を抱えてしまった娘を持つ友人が、その苦労を婦人会で分かち合った時のこと。

そこの牧師は一言、「そういうことは『祈りと断食による』と書いてあります。(あなたはしているんですか?と言わんとばかりのニュアンスで…)」

 

聖書通読したことのある方なら誰でも、(そういえば、そんなことが書いてあったよなぁ。断食しないとダメなのか…。)と思ってしまいますよね!?

 

ここで大事なのは『はたしてそのとおりかどうかと、聖書で調べること』なのです。

はい、確かにみことばにありました。

 

悪霊を追い出すには、祈りと断食によるというみことば…。

マタイ17:21ー*〔ただし、この種のものは、祈りと断食によらなければ出て行きません。〕」

 

しかし、なぜかこの一文には *[  ] が付いています。そこで脚注を見てみると…。

*脚注:[ ]古い写本の多くは、この節を欠く。

とあります。写本は古い物の方が信憑性高いはず…ですよね。念のため、共観福音書で同じ箇所を探すと…。

 

並行箇所
マルコ9:29ーすると、イエスは言われた。「この種のものは、*祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」

*脚注:異本に「と断食」を加えるものもある。

 

『異本』…?異本とは何でしょ?と思い、聖書の『あとがき』を調べてみると…。

*異本…写本間に相違がある場合、本文には採らなかったが、重要と思われるものの訳。

とのこと。

 

つまり、この時点では『断食による祈り』が本当に必要かどうかは、まだはっきりしないのです。それを「こう書いてある。」ということですぐに適用するように指導することはできません。ですから今度は、『断食』を key word にして他の聖句を探すわけです。

 

マタイ9:14ーするとまた、ヨハネの弟子たちが、イエスのところに来てこう言った。「私たちとパリサイ人は断食するのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」

これは、バプテスマのヨハネの弟子たちの質問。
イエス様の返事は、15節。

 

マタイ9:15ーイエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。そのときには断食します。

*花婿が取り去られる時…十字架の時。


今の時代は、十字架の死から復活された後です。悲しみをあらわす『断食』よりも、復活の喜びに満たされ、みことばの食事を頂く時のように思うのですが…どうなんでしょ?という疑問がわいてきます。

 

そういえば、イエスも断食されたことがあった!と思い出し確認してみると…。

マタイ4:1~2ーさて、イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。
そして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。

 

神の御子イエス様と違って、単なる人間が四十日四十夜断食したら死んでしまいます。

*40は試みの数…『メシア』として悪魔の試みを受けられた神の御子の断食でした。

 

人間の断食に関しては、どうでしょう?

エステル記4:16ー「行って、シュシャンにいるユダヤ人をみな集め、私のために断食をしてください。三日三晩、食べたり飲んだりしないように。私の侍女たちも、同じように断食をしましょう。たとい法令にそむいても私は王のところへまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます。」

 

これはペルシャ帝国の時代に、バビロンの地に残っていたユダヤ人の根絶の危機に際して、ペルシャの王妃であるユダヤ人エステルが言った言葉です。『祈り・施し・断食』はユダヤ教の三本柱でした。

 

しかし、私たちはユダヤ教徒ではなく、キリスト者です。律法の時代ではなく、恵みの時代である教会時代に生きていますから、エステル記に書かれていることをそのまま適用するのは間違いです。

 

新約聖書の教会時代にも『断食』という言葉は出てきます。(イエス様の十字架よりも前は、まだ律法の時代です。)

使徒13:2~3ー彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。

そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。

バルナバとパウロの特別な召しの任務につくための『断食と祈り』でした。

 

Ⅱ コリント6:5ーまた、むち打たれるときにも、入獄にも、暴動にも、労役にも、徹夜にも、断食にも、

 

初代教会時代に『断食』という言葉が出てくるのは、私が調べた範囲ではこの二箇所です。しかし、どちらもどのくらいの期間の断食なのか、日中だけの断食なのか、水分補給はしてもいいのか、詳細はまったくありません。

もし本当に現代のクリスチャンにも断食が必要なのであれば、神様がその方法を明記していないということはあり得ません。

 

バルナバやパウロのように『断食』を個人的に示されることがあれば、『その人』に『どのように、どのくらいの期間』という指示も同時に来るのでしょう。

主の御前で祈り、示された人が、示されたとおりにすべきことであって、たとえ教会の指導者であっても信者に強制することはできないのではないでしょうか?

 

これはツイ友さんの意見ですが、いろいろ調べた結果、私も『アーメン』と言える意見です。

「僕も通常の史学資料ならば古い資料を支持しますが、聖書にとってこれは微妙な問題のようです。
断食は、やってもやらなくても良いものじゃないでしょうか。少なくとも断食を強要することは間違いで、断食を禁止することも間違いだと思います。断食の場合、それを他人に強要したり他人に誇るような態度で行うならば有害であり、喜んで自分と神との間で行うならば有益なものであろうと思います。

 

断食は、クリスチャンの『自由』の範囲ということかもしれませんね。

1コリント10:23ーすべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが有益とはかぎりません。すべてのことは、してもよいのです。しかし、すべてのことが徳を高めるとは限りません。

 

ローマ14:23b信仰から出ていないことは、みな罪です。

 

形からではなく、何事も信仰によってが大切ですね。