キリスト教の信仰の土台は、イエスが私たちの罪のために十字架にかかり、死んで葬られ、三日目に復活された『キリスト』だと信じることです。
なぜ、それを信じることができるのでしょうか?
神をどのようなお方だと捉えるかによって、同じクリスチャンであっても信じ方に違いがあるように思います。
マタイ19:26ーイエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
ルカ1:31ー神にとって不可能なことは一つもありません。
Ⅱ テモテ3:16ー聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
これらのみことばを素直に受け入れられる人々は、『神が六日間で世界を創造された』ということも信じられるでしょう。
しかし、学校教育で習った『進化論』の影響を強く受けている人は、たとえクリスチャンであっても、創世記(もしくは、他の箇所も)の一部を『お伽話』として一蹴してしまうでしょう。
私は前者の信仰に立っていますので、その観点から『六日間の創造』についてまとめてみようと思います。
創世記1:1ー初めに、神が天と地を創造した。
*神…ヘブル語:エロヒム。複数形(三つ以上)を表す。日本語で例えるなら、バナナや葡萄を数える時の『房』のように『一房=実際には、実はたくさん付いている』という感じ。しかし、聖書の『神』は同時に『ひとり』のお方でもあります。
イザヤ44:24ーあなたを贖い、
あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主は
こう仰せられる。
「わたしは万物を造った主だ。
わたしはひとりで天を張り延ばし、
ただ、わたしだけで、地を押し広げた。
*天…原語では、複数形。英語:Heavens
神の御住まいは『第三の天』にあるため、神が永遠の存在であられるなら、第三の天も必然的に永遠の初めからあることになります。
『第三の天』があることは、パウロが証言しています。
Ⅱコリント12:2~4ー私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前にーー肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。ーー第三の天にまで引き上げられました。
私はこの人が、ーーそれが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神はご存知です、ーー
パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。
では、神が『創造された複数の天』とは何を指すのでしょう?
そのヒントは、Ⅱ歴代誌にあります。
Ⅱ歴代誌6:18ーそれにしても、神ははたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです。
『第三の天』があるのなら、当然『第一の天』と『第二の天』もあります。
*天(第一の天)…鳥が飛ぶ高さ
*天の天(第二の天)…天体のある部分
それらが『被造物の複数形の天』ということになり、神殿奉献の際、ソロモン王は『被造物の天(第一の天)も、天の天(第二の天)もあなた(神)をお入れすることはできない』と告白の祈りをしたと、学者エズラが記しました。
被造物であるが故に、全知全能なる大いなる神をお入れするには適していない、大きな天や、天の天が神をお入れできないのなら、自分が建てた小さな宮など当然お入れすることなどできませんという、大から小への聖書的論理がそこにはあります。
しかし、神の栄光はダビデの幕屋から、ソロモンの神殿に宿ってくださりました。
ペンテコステ以降は、キリストの福音を信じる者に三位一体の神が宿ってくださっています。そこに大きな恵みを感じますね。
Ⅱ歴代誌7:1ーソロモンが祈り終えると、火が天から下って来て、全焼のいけにえと、数々のいけにえとを焼き尽くした。そして、主の栄光がこの宮に満ちた。
ヨハネ14:16~17aーわたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。
その方は、真理の御霊です。
ヨハネ14:23ーイエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
最近 広がりを見せている『フラットアース』支持者たちは、「地球は平らで宇宙はない」と言いますが、多くのみことばを否定しなければ成立しないものではないでしょうか?
イスラエルの民は、『神の選びの民』というメシア的王国(千年王国)樹立の鍵となる民族です。そのため、いつの時代もサタンはイスラエルの民を根絶し、メシア的王国の樹立を阻止しようと暗躍しています。
しかし、神は次のように語り、イスラエルの民を守っておられます。
エレミヤ書31:35~36ー主はこう仰せられる。
主は太陽を与えて昼間の光とし、
月と星を定めて夜の光とし、
海をかき立てて波を騒がせる方、
その名は万軍の主。
「もし、これらの定めがわたしの前から
取り去られるなら、ーー主の御告げーー
イスラエルの子孫も、絶え、
いつまでもわたしの前で
一つの民をなすことはできない。」
※フラットアース派に惑わされないように、気をつけたいものです。
*創造した…無から創り出す、の意。
ここでは、主語の『エロヒム』が複数形を表わすの対し、動詞は単数形が用いられており、三位一体を示唆している。
エレミヤ10:11ーあなたがたは、彼らにこう言え。「天と地を造らなかった神々は、地からも、これらの天の下からも滅びる。」と。
ヨブ記38:4ーわたしが地の基を定めたとき、
あなたはどこにいたのか。
あなたに悟ることができるなら、告げてみよ。
創世記1:2ー地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
*形がなく、何もなかった…カオス:混沌とした。ヘブル語:トーフー ワボーフ。無秩序の状態。
イザヤ34:11ーペリカンと針ねずみがそこをわがものとし、
みみずくと烏がそこに住む。
主はその上に虚空の測りなわを張り、
虚無のおもりを下げられる。
*虚無…創世記1:2の『形がなく、何もなかった』と同じヘブル語:トーフー ワボーフが使われています。
ここはエドム人の地『ボツラ』が千年王国で、黙示録9:1~3で『底知れぬ所』から解き放たれた悪霊たちの住処となることを預言した箇所です。
*創世記1:31を見ると『神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。』とありますから、創世記1:1で造られた世界も『非常によかった』はずです。
なのになぜ、『形がなく、何もなかった』『虚無』『混沌とした』状態だと、聖書は記しているのでしょうか?神が『そのように創造された』とは理解しがたいですね。
創世記1:1で神が造られた世界も完全であり、美しいものだったはずです。そこで聖書の他の箇所から考えられる一つの説が『ギャップセオリー』と言われるものであり、創世記1:1と1:2の間には『時間的隔たりがある』とするものです。
つまり1節と2節の間に、サタンの堕落があり、その結果『地は混沌とした』と考えるものです。
それを伝えていると思われる箇所が、エゼキエル書28:12~15とイザヤ書14:12~15です。
創世記1:1で神が造られた世界の中で、被造物の頂点を極めた天使ケルブの堕落により、天の聖所は汚され、地は混沌としてしまったわけです。
その天の聖所を『神の小羊』の血できよめられたのが、復活直後のイエス様でした。
創世記1:2bをユダヤ教のラビ的表現では『神の霊は、最古の混沌の上を鳩のように動き、飛び交い、秩序と美を吹き込んだ。』ーby バークレー ーとなっています。
サタンの堕落により混沌とされたものであっても、神が創造された世界を聖霊が大事そうに守られているイメージです。
創世記1:3ーそのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。
*そのとき…And but 希望がある。
*神…三位一体の第一位格。御父が発せられた『ことば』によって『光』ができました。
しかし、この『光』は太陽の光ではなく、『シャカイナグローリー=神の栄光』です。太陽が造られるのは『第四日目』ですから、最初の三日間は神の栄光、シャカイナグローリーの光のもとに世界が存在していたことになります。
ヨハネ1:1ー初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
ヨハネ1:14ーことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られた独り子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
ヨハネが証言した『ことば』こそ、創世記1:3の『光よ。あれ。』であり、その『神のことば』こそが、肉をもった人として誕生されたメシア、神の御子イエス・キリストなのです。
つまり、創世記1:1ー御父、1:2ー御霊、1:3ー御子として『三位一体の神』が天と地の創造の御業に携わっておられるのです。
創世記1:4以降、神様の創造の御業はすべて、『ことば』を発することで行われています。私たちのように材料を用いたりはしていないのです。本当に『無からの創造』であることがわかります。
このことを理解したとき、人は『六日間の天地創造』をお伽話と一蹴することはできなくなるのではないでしょうか?