一週間が七日だということは万国共通ですが、ユダヤ教やイスラム教では土曜日に仕事を休んで礼拝し、キリスト教では日曜日に礼拝しますよね。
『土曜日』と『日曜日』どちらが『安息日』に当たる第七日目なのでしょう?
壁掛けカレンダーを見れば、『週の初めは日曜日』から始まっています。聖書的には第七日目に当たるのは、『土曜日』です。
律法によって定められた『安息』は、400年間奴隷生活をしていたイスラエルの民に、自由人として仕事を休むことを教えー出エジプト記31:15~17,レビ記26:2ー神様のみわざを思い出し感謝するためのものでした。
創世記2:1ーこうして、天と地とそのすべての万象が完成された。
*天と地とそのすべての万象が完成…神は六日間ですべての被造物完成された。ここで注意しなくてはならないのは、人間的な視点で考えて『それは不可能だ。』と決めつけないこと。神は『人』ではない。
マタイ19:26ーイエスは彼らをじっと見て言われた。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」
ルカ1:31ー神にとって不可能なことは一つもありません。
マタイやルカが証言しているように、『神にはどんなこともできる』『神にとって不可能なことはない』と、無限大の神を信じることが大切です。自分の頭で理解できるような『小さな神』にしてしまわないように注意が必要でしょう。
創世記2:2ー神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
*わざの完成、なさっていたすべてのわざを休まれた…神様が休まれたのは『創造のみわざ』です。現在、何もされていないわけではありません。
まどろむこともなく、眠ることもない。
ヨハネ5:17ーイエスは彼らに答えられた。「わたしの父は今に至るまで働いておられます。ですからわたしも働いているのです。」
ヨハネ6:44ーわたしを遣わした父が引き寄せないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。
*イエスが証言しているように、父なる神様は『今に至るまで働き』『人々をイエスのところに引き寄せて』おられます。
創世記2:3ー神は第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。
*すべての創造のわざを休まれましたが、人々を『救う』というみわざは今に至るまで行われているのです。
*第七日目…この日だけ『夕があり、朝があった。第七日。』という締めことばがありません。それはどういうことなのでしょうか?
〜【安息】が持つ三つの意味〜
詩篇95:7~11ー主は、私たちの神。
私たちは、その牧場の民、その御手の羊である。
きょう、もし御声を聞くなら、
*メリバでのときのように、
荒野のマサでの日のように、
あなたがたの心をかたくなにしてはならない。
あのとき、あなたがたの先祖たちは
すでにわたしのわざを見ておりながら、
わたしを試み、わたしをためした。
わたしは四十年の間、
その世代の者たちを忌みきらい、そして言った。
「彼らは、心の迷っている民だ。
彼らは、わたしの道を知ってはいない。」と。
それゆえ、わたしは怒って誓った。
「確かに彼らは、わたしの安息に、はいれない。」と。
ヘブル4:9ーしたがって、安息日の休みは、神の民のためにまだ残っているのです。
*メリバでのとき…カデシュ・バルネアでの出来事 - サザエのお裾分け
*創世記2:2~3(創造のみわざ)も詩篇95:7~11(40年の奴隷生活から救い出す)もともに『わざの完了』です。
*適用:過去に対する『救いによる安息』であり、今はメシアの十字架のみわざに信頼することで得られる『安息』になります。
救いを求めて律法に回帰しようとしたり、良い行ないによって救いを完成しようとするものではありません。
信者は肉体の死を迎えると、地上生涯における働きを終えて、この『安息』に入ることになります。
②カナンでの安住(安息)…申命記12:10、ヨシュア記21:44。
申命記12:10ーあなたがたは、ヨルダンを渡り、あなたがたの神、主があなたがたに受け継がせようとしておられる地に住み、主があなたがたの回りの敵をことごとく取り除いてあなたがたを休ませ、あなたがたが安らかに住むようになるなら、
ヨシュア21:44ー主は、彼らの先祖たちに誓ったように、周囲の者から守って、彼らに安住を許された。すべての敵の中で、ひとりも彼らの前に立ちはだかる者はいなかった。主はすべての敵を彼らの手に渡された。
*これらは、敵との闘争を終え、土地を所有し、土地の祝福を楽しむという『歴史的意味』を持っています。
*適用:現在の信者自身の検診により、神の御心に沿って、みことばに従って生きることで得られる『安息』です。知恵、意思、心を従わせて、神の力に目を向けさせることによって、罪に打ち勝つ生活です。
③安息日の休み(安息)…創世記2:2~3、ヘブル書4:10。
ヘブル4:10ー神の安息にはいった者ならば、神がご自分のわざを終えて休まれたように、自分のわざを終えて休んだはずです。
*霊的安息、または信仰による安息の人生という『預言的意味』であり、狭い意味では『霊的成熟』、広い意味では『堕落によって失われ、千年王国(メシア的王国)で回復される安息』を意味します。
*適用:信者が地上生涯をしている間は、霊的成熟による安息の獲得であり、神の定めた人生の目的を全うするときに到達しうるものです。また将来、千年王国での安息にあずかることになります。
神は現在、この③の意味に『安息』にはいる人々を集めておられます。
『創造のみわざを休まれた安息』は、第七日目となりますが、広い意味で『千年王国での安息』がまだ残されているので『夕があり、朝があった。第七日。』という完了形にはなっていないのだと思われます。
人間の頭で考えて「たった六日で世界を造ることは無理だから、創世記1章はお伽話だ。」と簡単に結論付けるのではなく、神様の創造のみわざの中にある緻密さに霊の目を留めることができますように。