サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

『礼拝』と『伝道』

『礼拝』と『伝道』…どのような区別があるのでしょう?

 

ヨハネ4:4ーしかし、サマリヤを通って行かなければならなかった。

*行かなければならなかったエス様も強いられました。それは、ひとりのサマリヤの女性を救うためでした。
主に従う『キリストの弟子』として、私たちは同じように動いているでしょうか?キリストを求める人の所へ、足を運んでいるでしょうか?


…考えさせられますね。


教会に未信者を連れて来ることが『伝道』だと思っているのなら…

福音を語るのは『牧師の仕事』と思っているのなら…

毎日曜日の礼拝は、常に未信者を対象としたメッセージになってしまいます。

 

何年も信仰生活を続けている信者は、もうその霊的初心者レベルではありませんから、段々と霊的飢え渇きを覚えていくのです。

実際、多くのクリスチャンが今、霊的成長に合ったみことばの学びに飢え渇いています。

 

Ⅱ コリント6:14~15不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。
キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。

 

よく未信者との結婚を注意するのに使われる聖句です。

でも、文脈に『結婚』の『け』の字も出て来ない不思議な適用だということに気づいているでしょうか…?

結婚についてパウロが語っているのは、Ⅱコリントではなく、1コリント7章になります。

 

*不信者…神を信じないという意志を持った人。
*くびき…同じ目的のために、ともに働かせるための物。『つりあわぬ』ということは、目的が違うということ。

*正義…信者は、キリストの義を身にまとう者。

*不法…罪の中に生きる不信者。
*光…世の光となった信者。
*暗闇…暗闇では、罪を罪と認識できない。不信者。
*キリスト…神の御子、救い主。
*ベリアル…『無価値』の意。サタンのこと。


*信者と不信者は、同じ目的で神を礼拝することはできません。
*正義と不法につながりはありません。そのため、教会でのつりあいはとれません。
*光が射した暗闇は、もはや暗闇ではないように、信者と不信者に交わりはありません。
*キリストとベリアル(サタン)に、調和はありません。

 

つまり、信者と不信者はいっしょに礼拝することは『出来ない』と、聖書は教えているのです。

 

 

礼拝は、神を信じる者が感謝と賛美と祈りを捧げるもの。

説教は、本来みことばを解き明かし、信者を教え導くもの。

ネヘミヤ8:8ー彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。

*適用は、聞き手の状況に合わせて人それぞれであり、ひとつだけではないはずです。

 


マタイ4:18~22ーイエスガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。
エスは彼らに言われた。
「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」
彼らはすぐに網を捨てて従った。
そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。
彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。


*イエスに出会った漁師たち、アンデレとシモン(ペテロ)の兄弟は網を捨てヨハネヤコブの兄弟は舟も父も残して、イエスに従った。
生活の優先順位が『神中心』となったのです。

もちろん、その後の失敗は多々あったけど…。この瞬間、彼らはイエスに『ふさわしい者』となりました。


マタイ10:37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。また、わたしよりも息子や娘を愛する者は、わたしにふさわしい者ではありません。

 

キリストの弟子の基準に沿わない妥協したクリスチャンが人に教える場合、教えられた人はその影響を受け、妥協した信仰の信者となる危険性があります。


1テモテ4:16ー自分自身にも、教える時にも、よく気をつけなさい。あくまでそれを続けなさい。そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。


求道者と聖書の学びを始める時は、
①落ち着いて学べる場所を選ぶこと。
②時間帯は、できるだけ相手の都合に合わせること。
③定期的(できたら毎週決まった曜日と時間)に学ぶこと。
または、学びを終える前に次回の約束をすること。
④信者を同席させることが、教えや証しを補い、訓練になります。


マタイ28:19『あらゆる国の人々を弟子としなさい。』と、主は命じられました。

 

ですから、受洗までの期間に
①導き手が信仰の友となるため…求道者と共に祈り、相談にのる。
②偽の回心者を防ぐため…『信者』ではなく『キリストの弟子』となる決心をしたかを見極める。
③クリスチャンとしてのライフスタイルを確立させるため…求道者が教会に通う習慣がつくように、聖書通読や祈りの重要性を理解し、習慣がつくように助ける。


*未信者との学びでは、あまり『教会用語』を使わないように注意が必要です。使う時は、その意味を必ず説明すること。
必要以上の情報を与えて、相手を混乱させないように注意すること。
*悩みや問題を打ち明けられた時は、似たような経験が自分にあれば、積極的に証しをすること。


1コリント10:13ーあなたがたの会った試練はみな人の知らないようなものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを耐えることのできないような試練に会わせるようなことはなさいません。むしろ、耐えることのできるように、試練とともに、脱出の道も備えてくださいます。


*『あなた聞く人、私語る人』ではなく、質問を投げかけて参加型で進めながら、本題に導入したり、相手の理解度を確認するようにすることが好ましいですね。

 

『特別伝道集会』でない限り、そのようなみことばの学びがある程度進み、キリストを理解し始めた段階で礼拝にお誘いしてみた方が、求道者にとっても無理なく参加できるでしょう。

『礼拝』は、あくまでもエスを『メシア』だと信じる者たちが、神様にささげるものであることを理解しておく必要があるのです。