サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

1ヨハネの手紙 3章

ヨハネ3:1ー私たちが神の子どもと呼ばれるために、―事実、いま私たちは神の子どもです―御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。

 

*どんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう…ひとり子の御子を与えるほどに愛してくださったのです。

ヨハネ3:16ー 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

神の方から先に、愛を示してくださいました。

ヨハネ4:10ー私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 

 

ヨハネ3:2ー愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現れたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

 *神の子ども…キリストを信じる信者。(神の子=御子イエス/神の子ら=御使いたち)

 ヨハネ1:12ーしかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

 

*キリストに似た者となる…やがて、私たちも復活の栄光のからだにされる時、復活の御子に似た者、同じからだになります。栄光のからだになれば、御子イエスと顔と顔をあわせて見ることになります。

ローマ8:29ーなぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

 

 

ヨハネ3:3ーキリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

*この望み…御子と同じ復活のからだをいただくこと。御子に似た者となること。 

だからこそ『キリストに似た者となる』ように、今から努力する生き方をするという意味。

ヨハネ2:28ーそこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリストが現れるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るということのないためです。

 

 

ヨハネ3:4ー罪を犯している者はみな、不法を行っているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。

 *罪…神の基準を満たしていないこと。足りないこと。

*律法…神の基準。『モーセの十戒』だけでなく、律法は全部で613ある。律法を与えられた神は同じ神様なので、一つでも守れなければ『律法の違反者』となる。

*違反…特定の戒めや命令(613ある律法の中でどれか一つでも)を、故意に破ること。

ヤコブ2:10ー律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となったのです。

 

ローマ14:23b信仰から出ていないことは、みな罪です。

 

 

ヨハネ3:5ーキリストが現れたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。

*キリストが現れたのは罪を取り除くためであったバプテスマのヨハネも証言しています。

 ヨハネ1:29ーその翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。

「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」

 

 

ヨハネ3:6ーだれでもキリストのうちにとどまる者は、罪を犯しません。罪を犯す者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。

 *罪を犯しません…まったく罪を犯さなくなるという意味ではなく、以前のように習慣的な罪を犯さなくなるという意味。

 

信者は、罪を犯す誘惑にあう時、聖霊の働きによるブレーキがかかります。それを振り切って罪を犯すと、聖霊の導きにより良心の呵責、罪悪感を感じ、主の御前に罪を告白し、考え方を変える『悔い改め』の祈りをし、罪の赦しを受け、少しずつキリストに似た者として聖化されていくのです。

ヨハネ1:9もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 

 

 【聖霊の働き】

ヨハネ14:26ーしかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたにはなしたすべてのことを思い起こさせてくださいます。

 

ヨハネ16:8ーその方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます。

 

1コリント12:3bーまた、聖霊によるのでなければ、だれも、「イエスは主です」と言うことはできません。

 

 

ヨハネ3:7ー子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。

*だれにも惑わされてはいけませんグノーシス主義者たちを意識しての警告。

彼らは『肉体は汚れたもの、霊はきよいもの』と考え、肉体においてどのような罪を犯そうとも、霊を汚すことはないと主張していました。この主張は聖書の教えとは異なります。 

 

*義を行う者モーセの律法を守るという『行いによる義』を求め、良い行いで救われようとするものではありません。『信仰による義』つまり、信じた結果、みことばを読み、キリストの命令に従うことこそが『義を行う』ことになるのです。

エペソ2:10ー私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。 

 

ヨハネ15:4わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。

 

 

ヨハネ3:8ー罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

 *悪魔から出た者ヨハネ8:44あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。

 

 

ヨハネ3:9ーだれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。

*神の種がその人のうちにとどまっている…三位一体の神が、信者のうちにとどまってくださっているのです。

 

聖霊の内住ヨハネ14:16~17aーわたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。その方は、真理の御霊です。

 

御父と御子の内住ヨハネ14:23ーイエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、私たちはその人のところに来て、その人とともに住みます。

 

 

ヨハネ3:10ーそのことによって、神の子どもと悪魔の子どもとの区別がはっきりします。義を行わない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。

*義を行わない者…キリストの律法に従わない者。キリストの律法は『黄金律』と言われています。

【キリストの律法/黄金律】 

マタイ22:37~39『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがだいせつな第一の戒めです。cf 申命記6:5

 

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じように大切です。cf レビ記19:18

 

 

ヨハネ3:11ー互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。

 *初めから聞いているモーセの律法で命じられていることを受け、主イエスが新しい戒め、『キリストの律法』として教えられたことです。その手本は『イエスが愛したように』です。

ヨハネ13:34ーあなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したようにあなたがたも愛し合いなさい。

 

 

ヨハネ3:12ーカインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行いは悪く、兄弟の行いは正しかったからです。

cf 創世記4:3~8 

* 自分の行いは悪く…カインは『血を伴う捧げ物』という、神の基準を満たしていなかったのです。

*弟の行いは正しくアベルは『羊の初子の中から最上のもの』を捧げました。

 

 

ヨハネ3:13ー兄弟たち。世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません。

*世があなたがたを憎んでも…イエスはあらかじめ警告されていました。

マタイ5:11~12ーわたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。あなたがたより前にいた預言者たちを、人々はそのように迫害したのです。

 

ヨハネ15:18~19ーもし世があなたがたを憎むなら、世はあなたがたよりもわたしを先に憎んだことを知っておきなさい。

もしあなたがたがこの世のものであったなら、世は自分のものを愛したでしょう。しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがを憎むのです。

 

 

ヨハネ3:14ー私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。

イエスを信じて救われたものは、イエスの教えに聞き従います。その教えが『互いに愛し合いなさい』ですから、その愛を行いで示すことにより『永遠のいのち』を持っていることの証しとなるのです。

 

 

ヨハネ3:15ー兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。

*兄弟を憎む者はみな、人殺しです…主の教えは、徹底しています。

マタイ5:21~22ー昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高誤解に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 

 

ヨハネ3:16ーキリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。

*ご自分のいのちをお捨てになりました…キリストは、良い牧者として羊たちを『永遠の滅び』から守るために、いのちを捨ててくださったのです。

ヨハネ10:11ーわたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

 

 

ヨハネ3:17ー世の富を持ちながら、兄弟が困っているのを見ても、あわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょう。

 *あわれみの心…信者が立つ『キリストの裁きの座』では、信仰を持った後の信仰生活に対して問われます。信仰による行いは、あられみの心の表れです。

 

 

ヨハネ3:18ー子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行いと真実をもって愛そうではありませんか。

*ことばや口先だけで愛することをせず…主の兄弟ヤコブも同じように言っています。

ヤコブ2:15~17ーもし、兄弟また姉妹のだれかが、着る物がなく、また、毎日の食べ物にもこと欠いているようなときに、

あなたがたのうちだれかが、その人たちに、「暗視して行きなさい。暖かになり、十分に食べなさい」と言っても、もしからだに必要な物を与えないなら、何の役に立つでしょう。

同じように、信仰も、もし行いがなかったなら、それだけでは、死んだものです。

 

私たちは、行いのない『死んだ信仰』ではなく、行いの伴う『生きた信仰』生活を送るべきなのです。

 

 

 

ヨハネ3:19ーそれによって、私たちは、自分が真理に属するものであることを知り、そして、神の御前に心を安らかにされるのです。

*真理に属する者… イエスは『真理』であり、真理に属する者は『自由』があります。私たちはもはや、罪の誘惑に対して “NO” と言えない『罪の奴隷』から解放されて、キリストの真理に従う『義の奴隷』となりました。神の子どもとして、御父の教えに聞き従うのは当然のことであり、従順でいることが喜びなのです。

 

ヨハネ14:6ーイエスは言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

 

ヨハネ14:27ーわたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたはこころを騒がしてはなりません。恐れてはなりません。

 

ローマ6:18罪から解放されて、義の奴隷となったのです。

 

 

ヨハネ3:20ーたとい自分の心が責めてもです。なぜなら、神は私たちの心よりも大きく、そして何もかもご存じだからです。

 *何もかもご存じです…私たちが信じる神様は、全知全能なるお方です。

ヨハネ21:17bー主よ。あなたはいっさいのことをご存じです。

 

 

ヨハネ3:21ー愛する者たち。もし自分の心に責められなければ、大胆に神の御前に出ることができ、

 *大胆に神の御前に出ることができ…キリストのみことばにとどまり、愛の実践を日々行なっているならば、『キリストの裁きの座』の御前に大胆に出ることが出来るのです。

 

 

ヨハネ3:22ーまた求めるものは何でも神からいただくことができます。なぜなら、私たちが神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているからです。

*求めるものは何でも…イエスも、信仰によって(神の命令を守り、神に喜ばれることを行っているから)イエスに祈り求めるものは何でも受けると約束しておられます。 

ヨハネ16:24ーあなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。 

 

 

ヨハネ3:23ー神の命令とは、私たちが御子イエス・キリストの御名を信じ、キリストが命じられたとおりに、私たちが互いに愛し合うことです。

*神の命令①御子イエス・キリストの御名を信じること。

②互いに愛し合うこと。

 

 

ヨハネ3:24ー神の命令を守る者は神のうちにおり、神もまたその人のうちにおられます。神が私たちのうちにおられるということは、神が私たちに与えてくださった御霊によって知るのです。

 

私たちが神の子どもとなったことを証明してくれるのは、私たちのうちにおられる聖霊です。この聖霊によって、私たちは『証印』を押されているのです。

Ⅱコリント1:21~22ー私たちをあなたがたといっしょにキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です。

神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちに与えてくださいました。

 

エペソ4:30ー神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。

 

私たち信者には、聖霊だけでなく、御父も御子も内住してくださっています。すでに内住されている聖霊を待ち望むのではなく、聖霊に満たされて、神の愛を示す器として、日々平安のうちに喜んで主に仕えていくことができますように。

神の聖霊を悲しませるのではなく、神に喜ばれる信仰の歩みを送れますように。