マタイ7:1~5は、5章1節の『八福の教え』から始まり、7章29節まで続く『山上の垂訓』の一部です。この箇所は、『主の祈り』を中心に『逆順法(交差配列)』という表記がなされています。
A)群衆ー5:1~2
B)三つの話ー5:3~16
C)律法の成就ー5:18~20
D)六つの対立命題ー5:21~48
E)慈善・施しー6:1~4
F)主の祈りー6:9~13
E') 断食ー6:16~18 *慈善・施し・断食…ユダヤ教の3本柱。
D') 六つの神を信じる歩みー6:19~7:11
C') 律法・預言者ー7:12
B') 三つの話ー7:13~27
A') 群衆ー7:28~29
*『逆順法』を用いた書き方は、聖書の他の箇所にも見られます。
『さばいてはいけません』という教えは、上記の『 D') 六つの神を信じる歩み』の中で教えられているということを念頭に置いて理解する必要があります。
マタイ7:1ーさばいてはいけません。さばかれないためです。
イエス様はどういう意味で『さばいてはいけません』と言われたのでしょうか?
パウロはコリント人への手紙 第一で、次のように言っています。
1コリント6:2ーあなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
ん⁉︎ 矛盾してる?…と、思う人って意外と多いのでは?
私たちは、人を裁いていいの?いけないの?
それとも、難しい問題だからと何も言わずに黙ってる?
主の御前でどうすることが正しいんでしょう?
*さばく…『ギリシャ語:クリノー』。判断する、告訴する、有罪を宣告する、最終的な罪に定める等の意味。
最終的な裁きは神様にありますから、ここではその意味でないことは理解できますね。
詳しく知りたい方は、こちらからどうぞ。
それ以外の意味では、具体的には『相手の小さな欠点を指摘し、罪に定めること』ということになります。この場合の裁きの基準は、聖書のみことばではなく、裁く人個人の基準であるということです。
この裁き方は、クリスチャンの特徴ではなく、この世に属する『不信者の基準』です。
エデンの園で蛇が女を最初に誘惑した時、このように言ったのを覚えていますか?
創世記3:4~5ーそこで蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」
つまり、この誘惑に負けた人間は『原罪』を有する者となり、『神のように振る舞い、自分を基準にして善悪を決めるようになった』のです。
人を裁くのは、『保身』のためです。
人を裁かないと、自分自身を保つことができないのです。常に誰かと比べ、(自分の方がマシ)という優位性を欲しているのです。自分の基準で裁くので、自分は常に『正しい人』でいられます。
たとえ世間的に『弱者』と思われる人であっても、さらに弱い人を裁き、『自分が一番弱い人ではない』ことを確かめようとしてしまいます。
だから、主は『さばかれないためです』と、さばいてはいけない理由を2節で述べています。
マタイ7:2ーあなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
ヨハネ8:15ーあなたがたは肉によってさばきます。わたしはだれをもさばきません。
主は、『人間は肉(自分の基準)によってさばくが、わたしは(肉によっては)だれをもさばかない』と言われました。裁きは、神の基準であるべきだからです。
神の基準ではなく、人間の自己中心の基準で他者をさばくことは、やがて自分自身もその同じ基準で今度は神様から裁かれることになります。そのことを教えているのが『ミナのたとえ』です。
マタイ7:3ーまた、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。
人は往々にして他者の欠点・粗探しは得意としますが、自分のことになると大きな欠点・罪でさえなかなか気づかないものです。
『罪』とは、神様の定めた基準を満たしていないこと、欠け・不足があることを意味します。
『悔い改め』とは、自分の基準から神の基準への方向転換、考え方を改めることを意味します。
ですから、ここで主は『まず、自分自身を神の基準で吟味し、視界を遮っている目の中の梁を取り除けなさい』と教えておられます。
マタイ7:4ー兄弟にむかって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい。自分の目には梁があるではありませんか。
自分自身の中に大きな罪があるのに、自分の基準で相手の小さな罪を指摘してはいけません。自分も同じ基準で量られたとき、もっと大きな梁があることが明らかになってしまうからです。
マタイ7:5ー偽善者たち。まず自分の目から梁をとりのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からもちりを取り除くことができます。
*偽善者…ギリシャ語:ピッポクリシス。元々は演技の世界の言葉で『舞台の見せかけの役』の意。
ここでは、『神のようになる』という誘惑に負けた人間が、『神のように振る舞う』ことを指しています。つまり、自分を神とする『偶像礼拝』となる罪です。
では、イエス様はまったく『裁くこと自体を禁止』されているのでしょうか?
いいえ、主は『他者の小さい罪を裁く前にすべきこと』を教えておられます。
まず、自分の目から梁を取り除けること!!
『そうすれば』はっきりと『神の基準』で、相手のちりを取り除くことができると教えておられます。
私たちはやがて、復活の主と同じ『栄光のからだ』を与えられます。
その時には、キリストと同じ基準で人を見て判断することができるようになります。
現在の地上生涯は、神の御国(千年王国)の準備期間、訓練期間なのです。
そのことを踏まえて読むと、パウロがコリントで言っていることの意味がより深く理解できると思います。
1コリント6:2ーあなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。
*聖徒が世界をさばくようになる…キリストの地上再臨後〜千年王国でのことです。
*ごく小さな事件でさえさばく力がないのですか…コリント人への手紙は、コリントの信者たちに向けて書かれた手紙です。ですから、御国の前段階として教会内の問題は、神の基準で裁きなさいということです。それが訓練となるからです。
しかし、そのためには、まず自分自身をよく吟味する必要があります。
誰かを裁きたく感じた時、その思いが愛から出たものなのか、それともその人の前で自分自身の正しさを証明しようという動機なのか、静まって自問自答し、神に委ね、愛を持って語れるように祈る必要があります。祈りに費やす時間が、主が相手にも語りかけ、整えてくださる時間になるからです。
では、次に教会の中で何か問題が起こった、または、罪が発覚した場合はどうしたらいいのでしょう? パウロはこのようにコリントの兄弟たちに記しています。
1コリント5:9ー私は前にあなたがたに送った手紙で、不品行な者たちと交際しないようにと書きました。
*前に送った手紙…パウロはコリントの教会に全部で4通の手紙を送っていて、コリントの教会の信者たちの中で『不品行』の罪を犯している人に対し、どのような対応をとるべきかを『厳しい手紙』で書き送っていました。
①厳しい手紙→②1コリント人への手紙→③涙の手紙→④ Ⅱ コリント人への手紙
1コリント5:10ーそれは、世の中の不品行な者、貪欲な者、略奪する者、偶像を礼拝する者と全然交際しないようにという意味ではありません。もしそうだとしたら、この世界から出て行かなければならないでしょう。
*世の中…この世はサタンの誘惑に満ちており、神の武具(特に、みことばの剣)を持たない未信者たちにとって、誘惑に打ち勝つことは困難です。信者もかつてはこのような世界に住んでいました。
エペソ2:1~2ーあなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
そのころは、それらの罪の中にあって、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
1コリント5:11ー私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。
*兄弟と呼ばれる者…信者。
今回の手紙では『不品行な者』だけでなく、『貪欲な者 、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者 』にまで、罪の範囲を広げて指示を出しています。
それは厳しいもので、『つきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない』というものでした。
これは一種の『さばき』ではありますが、パウロの目的はこのような罪を犯しているコリントの兄弟たちが悔い改めて、再び群れに加わるようになるためでした。
1コリント5:12ー外部の人たちをさばくことは、私のすべきことでしょうか。あなたがたがさばくべき者は、内部の人たちではありませんか。
*外部の人たち…教会外の未信者たち/神を信じない者たち
神を信じない者たちを裁くのは、千年王国後の最終的な神のさばきである『白い大いなる御座の裁き』の時です。
*内部の人たち…教会に集う信者/兄弟たちのこと
キリストのからだである教会の中から罪を取り除き、きよくなることを求めているのです。
1テサロニケ4:3~7ー 神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、
各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、
神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、
また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。
神が私たちを召されたのは、汚れを行わせるためではなく、聖潔を得させるためです。
1コリント5:13ー外部の人たちは、神がおさばきになります。その悪い人をあなたがたの中から除きなさい。
*悪い人をあなたがたの中から除きなさい…パウロはすでに一度、コリントの教会へ『厳しい手紙』を書き送っていました。それでも尚、『罪を犯し続け、悔い改めようとしない悪い人』を教会の群れから除くようにということです。
後にパウロは Ⅱコリント人への手紙で、この時の人々を赦し、慰めてあげるようにと勧めています。
Ⅱコリント2:4~8ー私は大きな苦しみと心の嘆きから、涙ながらに、あなたがたに手紙を書きました。それは、あなたがたを悲しませるためではなく、私があなたがたに対して抱いている、あふれるばかりの愛を知っていただきたいからでした。
もしある人が悲しみのもとになったとすれば、その人は、私を悲しませたというよりも、ある程度――というのは言い過ぎにならないためですが――あなたがた全部を悲しませたのです。
その人にとっては、すでに多数の人から受けたあの処罰で十分ですから、
あなたがたは、むしろ、その人を赦し、慰めてあげなさい。そうしないと、その人はあまりにも深い悲しみに押しつぶされてしまうかもしれません。
そこで私は、その人に対する愛を確認することを、あなたがたに勧めます。
教会内部の問題は、罪を犯した人が信徒か指導者かによって対応が変わり、信徒の場合より指導者が罪を犯した場合の方が、対応は厳しくなっています。
信徒が罪を犯した場合は…マタイ18:15~17に、 指導者が罪を犯した場合は…1テモテ5:19~20にそれぞれ記されています。
【信徒の場合】
マタイ18:15ーまた、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。
*ふたりだけのところで責める…悔い改めへと導く第一段階。
18:16ーもし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。
*ふたりか三人の証人による事実確認…第二段階
18:17ーそれでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。
*教会に告げる…教会という一つの集合体からの勧告、第三段階
*異邦人か取税人…罪人、不信者の意。不信者、罪人として扱い、教会の交わりから除くことを意味ー第四段階ーしますが、その目的は、Ⅱコリント2:4~8でパウロが説明しているとおりです。
【指導者の場合】
1テモテ5:19ー長老に対する訴えは、ふたりか三人の証人がなければ、受理してはいけません。
*長老…牧師や神父など、教会の指導的立場にある人
『長老』の場合は、信徒の時のような段階は踏まずに、初めからふたりか三人の証人を伴って、教会に訴える必要があります。申命記19:15
1テモテ5:20ー罪を犯している者をすべての人の前で責めなさい。ほかの人をも恐れさせるためです。
*すべての人の前で…教会の総会の席で、犯した罪を明るみに出すこと
まだ神を知らない未信者たちを裁く権利は、たとえクリスチャンであっても私たちにはありません。しかし、同じ主イエスを信じる兄弟姉妹で『不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者』がいたなら、信徒の場合は段階を踏んで警告する必要があるのです。
それが罪を犯し続ける人を、再びみことばに立ち返るように導き、みことばにとどまるように助けることになるからです。
ヤコブ5:20ー罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。
主の御前に、神の家族として、愛あるきよい交わりに入ることが大切なのです。