サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

ヤコブの手紙 1:19~27 〜みことばの役割〜

ヤコブの手紙のテーマは『信仰の証明』です。

信仰は、神のみことばに対する応答によって試されます。

 

ヤコブ1:19ー愛する兄弟たち。あなたがたはそのことを知っているのです。しかし、だれでも、聞くには早く、語るにはおそく、怒るにはおそいようにしなさい。

*知っている…ヤコブは『知っていること』として、三つの概念を述べています。

 

①手紙の受取人であるユダヤ人信者たちは、『聞くには早く』なる必要があります。 

神のみことばを熱心に聞き、理解する準備を必要としています。

当時は、すべての信者や信者の家族単位でさえ、聖書の写しを持つことは不可能でした。

そのため、みことばは暗記され、暗唱されました。初代教会では信仰の歩みに対する指示を聞くのと同じくらい、みことばの暗唱がなされました。

ヤコブがこの書簡を書いた時点では、新約聖書はまだ何も書かれていなかったため、このことは特に重要でした。

執筆年代順『新約聖書』 - サザエのお裾分け

 

ユダヤ教会堂でも同じように、律法の書が読まれ、説明されることにより、聴衆はみことばを理解し、律法を守るように努めていたのです。

ネヘミヤ記8:8ー彼らが神の律法の書をはっきりと読んで説明したので、民は読まれたことを理解した。

 

信者たちがみことばの朗読とその解釈を聞きに集まった時、弟子訓練のスタートは『みことばを聞く』ことからのため、彼らは早く聞く体制に入るように準備し『聞くには早い者』である必要がありました。

 

②彼らは『語るにはおそく』なければなりませんでした。

彼らが聞いたことを完全に理解する時間を取ることなく、早急に話さないように注意を払う必要がある、という意味。

聞いたことに対し、よく吟味する必要があるということです。ルカはこの点において、ベレヤのユダヤ人信者たちを次のように記しています。

使徒17:11ーここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。

 

ユダヤ人の会衆は、組織化されず、自由な傾向があったため、みことばの読み手が大声で朗読している間に、談話し始めることは容易でした。そのような人々は『語るにはおそ』い人々ではありませんでした。みことばが朗読される際、彼らに必要だったのは『敬虔な沈黙』でした。

 

③彼らは『怒るにはおそく』ある必要がありました。 

みことばに対して、またみことばが要求することに対して、憤慨したり、怒りを抱いてはならない、という意味。

 

これら三つのことー①聞くには早く、②語るにはおそく、③怒るにはおそくーには、旧約聖書の背景があります。

箴言10:19ーことば数が多いところには、

そむきの罪がつきもの。

自分のくちびるを制する者は思慮がある。

 

箴言13:13ーみことばをさげすむ者は身を滅ぼし、

命令を敬う者は報いを受ける。

 

箴言14:29ー怒りをおそくする者は英知を増し、

気の短い者は愚かさを増す。

 

箴言29:11ー愚かな者は怒りをぶちまける。

しかし、知恵のある者はそれを内におさめる。

 

伝道者の書5:1~2ー神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者がいけにえをささげるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行っていることを知らないからだ

神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。

 

伝道者の書7:9ー軽々しく心をいらだててはならない。

いらだちは愚かな者の胸にとどまるから。

 

 

ヤコブ1:20ー人の怒りは、神の義を実現するものではありません。

 これら『三つの概念』が何故必要なのか?の理由:人の怒りは、神の義を実現するものではないからです。

 

『神の義』は、旧・新約聖書のゴールです。しかし『怒り』は、神の義を得る手段ではありません。人の『怒り』は、神の義とは正反対であり、人の正しさの邪魔をするものです。ここで言う『神の義』は、神の御前にまっすぐであることを意味し、日常生活における神を敬う『義』であり、その『義』を正当化する行いのことです。

行いによる『義』は、人の怒りをおそくすることを意味します。

 

 

ヤコブ1:21ーですから、すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。

ここでヤコブは、『みことばを受け取る』というもう一つの義務を提示しています。

使徒17:11ーここのユダヤ人たちは、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。

 

1テサロニケ2:13ーこういうわけで、私たちとしてもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたは、私たちから神の使信のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実どおりに神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いているのです。 

 

神の『みことばを受け取る』ということには、二つの意味があります。

①否定的…『すべての汚れやあふれる悪を捨て去る』必要があるということ。

*すべての汚れ…文字通り『埃や汚物』を意味。比喩的に、欲望と悪に対する情熱、不道徳、不純物など、道徳的に違反するすべての事柄を指します。

信者は、あふれる悪、豊富な悪、すべての悪(不正)を取り除かなくてはなりません。もし、不正が隠蔽されるなら、信者はみことばも日常生活の感謝も受け取ることができなくなります。

 

*捨て去る…衣服などを『剥ぎ取る』という意味。『捨て去る』ことは、『受け取る』ことに先行します。

 

ヤコブは『すべての汚れやあふれる悪を捨て去る』ことを、救いの必要条件としてではなく、弟子訓練におけるみことばを受け取るための必要条件としています。

 

②肯定的…みことばはあなたがたのたましいを救うことができます。

『みことばを受け取る』というのは、避けることのできない命令形で書かれています。それは緊急性を要する霊的なことでだからです。『みことばに聞き従う』という姿勢で、みことばが語るメッセージに耳を傾ける必要があります。

 

*すなおに…みことばを受け取る方法。みことばに対する心の姿勢。よく教えを聞こうとする姿勢。

みことばを教える人も聞く人も、妥協したり、その本来の意味を変えようとしたりするのではなく、みことばが言わんとすることに対し、自分自身を服従させなくてはいけません。

 

なぜなら『みことばはたましいを救うことができる』からです。

最初に信じた瞬間に、新しく生まれた心に植え付けられ、根を張って成長するからです。

心で保存されたみことばは、たましいに受け入れられて成長します。

それにより『心に植え付けられたみことばが、たましいを救うことができる』のです。

 

 

ヤコブ1:22ーまた、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。

これはもっとも大切な命令です。

既に示されたみことばを受け取るだけでは十分ではない!と、著者ヤコブは述べています。みことばを受け入れた後は、積極的にみことばに聞き従い、行動に移さなくてはなりません。

 

*聞くだけの者… 『〜だけ』という言葉を用いて、信者にとってみことばの『聞き手』であること、『聞くには早く』あることは必要であると同時に、そこに止まっていてはいけないということです。なぜなら『聞くだけの者』は、みことばの命令や指導には従わないからです。『聞くだけの者』は、自分勝手な間違った推測をして自分を欺くことになるからです。

 

*欺く…『分別のない』もしくは『間違った推測』を意味。その推測は、不完全!

ギリシャ語の文型では、間違った推測により、心の中に自己欺瞞の過程があることを意味。『聞くだけの者』は、自分の怠惰な姿勢を敬虔として正当化するという罪を犯しています。

 

 

ヤコブ1:23ーみことばを聞いても行わない人がいるなら、その人は自分の生まれつきの顔を鏡で見る人のようです。

ヤコブはここで、みことばを鏡にたとえて、不従順という否定的な実例を挙げています。

みことばをただ聞くだけの、実行しない者は、鏡に映る自分の欠陥を見る者に似ています。

 

*鏡ギリシャ語:小さな手鏡、の意。

当時の手鏡は、よく磨かれた真鍮、銀、または金などが用いられていました。現代の物とは違い、それらは鮮明に映し出すことはできませんでしたが、自分の欠点を見つけるには十分な役割を果たしていました。

1コリント13:12ー今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

 

『聞くだけの者』は、自分をながめてから立ち去ると、自分がどのようだったかすぐに忘れてしまうのです。髪を直すのか、ヒゲを剃るのか、気づいたのにも関わらず何もせずに過ごすことになるのです。

 

 

ヤコブ1:24ー自分をながめてから立ち去ると、すぐにそれがどのようであったかを忘れてしまいます。

*自分をながめて…ちょっと見るというのではなく、自分に直すところはないか点検するようにじっくり見るという意味。 

 

 

22~24節には、三つのキーワードがあります。

①見る…『注意して見る』という言葉が使われています。『見る』ことにより、何をすべきか『行動』が決まります。

②去る…完了形が用いられています。その人が行動を起こすことなく、それまでの『見る』という行動から去ること。

③忘れる…その人がもう鏡の前にはいないことを強調。そのため、すべての自分の欠点を忘れてしまうということ。

 

 

ヤコブ1:25ーところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。

信者の人生における神のみことばの一つの目的は、その人の本当の性質を明らかにすることにあります。ここでは、みことばを実行する人の真実について明らかにしています。

 

 *実行する人みことばに対する従順は、自然な応答として起こる行動であることを強調しています。

実行する人にとって、みことばは『自由の律法』です。

 

*見つめて離れない人…より注意深く『見る』ために『かがんで見る』という意味。

また『凝視し続ける』『目を釘付けにする』『注視する』という意味があります。

ヨハネ20:5ーそして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見たが、中に入らなかった。

 

ヨハネ20:11ーしかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。

 

みことばを『聞くだけの者』は、鏡を出して自分の欠点を確認するだけですが、『実行する者』は、日常のことから少し離れ、鏡で自分自身をよく点検し対処しようとします。それが『みことばを実行する者』の適用であり、そういう人は『完全な律法を一心に見つめている人』です。

 

古い金属製の鏡とは対照的に、神のみことばの鏡は、霊的な不完全さを鮮明に映し出すことができるのです。

神のみことばは、自由をもたらす完全な律法、自由の律法と呼ばれています。

ヨハネ8:32ーそして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。

 

それは『モーセの律法』ではなく、『キリストの律法』です。

ローマ8:2ーなぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の原理が、罪と死の原理からあなたを解放したからです。

 

*こういう人は、その行いによって祝福されます…みことばを行うことによって祝福され、将来も祝福されるのです。自らすすんで神の意志を行うことは、本当の幸せ秘訣です。

 

 

ヤコブ1:26ー自分は宗教に熱心であると思っても、自分の舌にくつわをかけず、自分の心を欺いているなら、そのような人の宗教はむなしいものです。

26~27節でヤコブは、『純粋な宗教』か『偽りの宗教』かをふるい分ける応用に入ります。 

 

26節ではまず、むなしい宗教を定めています。

*宗教…神に対して畏怖の念を持っている人、の意。表面的で儀式的なパフォーマンスを強調します。

 

*くつわをかける…導く、くつわで抑制して保つ、の意。

いくら儀式的に宗教熱心に見えても、自分の舌を制御することはできません。そういう人は、周囲に思われているほど信仰深くないことを示し、自分を欺いているとヤコブは述べています。

 

*むなしい七十人訳聖書では、異教徒の偶像や偶像崇拝者に対して用いられていることば。

儀式的な宗教の単なる従順は、実を結ばす、むなしく、意味のないものです。神や人の前に価値を持たないので、宗教が意図するゴールに礼拝者を導くことができないからです。

 

 

ヤコブ1:27ー父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。

27節では、純粋な宗教について述べています。

本当の宗教は、常に神の基準と調和しています。

神は神として、信者の宗教的実践を評価します。親子関係に置いてもそうであるように、御父は神として、子どもとなった信者をとても愛しておられ、子どもたちの関心事から目を離さずにおられます。

本当の宗教は、表面的にも内面的にも調和がとれたものです。

 

*訪問する…ちょっと訪れる、行って見て来る、の意。

具体的に孤児ややもめたちの世話をするために訪ねて行くことは、古いユダヤ人のならわしでした。当時の孤児ややもめは、社会を代表する貧困層であり、モーセの律法で特別に保護されていました。cf 出エジプト記22:21~22、申命記10:18、27:19

 

孤児ややもめの世話をするというのは、屋外での宗教活動の主なテストでした。

 

*この世ギリシャ語:コスモス…神の支配下ではなく、サタンの支配下における世界のシステムを指す。

 

本当の宗教は、舌を制御し、母子家庭ややもめを訪ね、世の汚れからきよく守るという態度によって明らかにされます。

それに対し、『聞くだけの者』は、神が要求されることから遠く離れているのです。

*きよく守る…この世との接触から汚されることのない状態でいることを意味。