サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

ヤコブの手紙 4章

ヤコブの手紙には、六つの『信仰のテスト』が挙げられています。

ヤコブ1:19~27ー神のみことばに対する応答による。

ヤコブ2:1~13ー社会的な差別にどのように応答するか。

ヤコブ2:14~26ー信仰による行いの実によるテスト。

ヤコブ3:1~18ー自制の度合いによる。

ヤコブ4:1~5:11ー世と世の中に対する懸念に対する反応による。

ヤコブ5:13~18ーすべての状況における祈りへの訴え方。

 

最後にヤコブ5:19~20で、これらのテストの一つ以上に失敗した人々を助けるようにという訴えをもって、ヤコブはこの書簡を終えています。

ヤコブ5:19~20ー私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、

罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。

 

ヤコブ4:1~5:11は、上記の5番目『世と世の中に対する懸念に対する反応によるテスト』についてです。

 

ヤコブ4:1ー何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因でではありませんか。

 

派閥主義が『罪の性質』に基づいていることを教えている聖句です。

*戦い(複数形)…敵意が長引いた状態。戦いは、具体的な敵意の噴出です。

ヤコブは『その戦いが、信者の中にある』と問題を提起して、肯定的な答えを期待する質問を続けています。

 

*戦う…欲望を満たすために、兵士が軍事作戦を実行するのに似ています。

 

*欲望…言語のギリシャ語では、『快楽主義』の起源の言葉。

それは欲望のみに従って生きている人、法的に自分のものではない物に対して、手に入れたいと欲している人のこと。強い自己満足はそのような欲求のもとにあり、自己愛によって特徴付けられます。

 

この『戦い』において、ヤコブは無秩序の結果と3:16の罪深さを明らかにしています。

ヤコブ3:16ーねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行いがあるからです。

 

 

ヤコブ4:2ーあなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。うらやんでも手に入れることができないと、争ったり、戦ったりするのです。あなたがたのものにならないのは、あなたがたが願わないからです。

 

①罪に落ちていく最初の過程は、『欲しがっても自分のものにならない』というものです。

*欲しがっても…(愛情のない)性欲、肉欲、強い欲望、凶悪な欲求に関するもの。

心の中の強い欲望、まだ実現していない欲求、熱情を取り扱います。

 

*自分のものにならない…自分勝手な欲求は、常に叶わないことを示す。

 

②欲しがっても手に入らないと『人殺しをするのです』

一般に、欲望によって得る失敗は、暴力的な行動へとつながります。

信者同士が文字通り『殺し合う』という意味ではなく、マタイ5:21~22と同じ意味合いで『戦う』と比喩的に言っています。

 

マタイ5:21~21ー昔の人々に『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』というような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。

 

*悪い動機…ここには『自分の快楽のために使おう』という思いが含まれています。これらの信者たちは、自分たちが惜しげなく誤った動機で快楽のために使いたいと神に願い出ているのです。

 

ヤコブ4:4貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。

 

貞操のない人たち…原則について述べる前に、ヤコブはその背後にある霊的姦淫の問題について述べるため、『貞操のない人たち』と告発から始めています。

世の友となることによって、霊的姦淫となることを含む旧約聖書の概念に基づく表現。

 

*世の友…『友人関係』を意味する。愛する、愛情を持つ、という意味。

 

*世…『世界』ということばは、ギリシャ語で『コスモス』であり、神に敵対するシステムになっています。そのような『世』をさえも、神の愛する対象となっているのです。

ヨハネ3:16ー神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 

ヤコブは1:25で『この世の汚れを避けるように』教えています。

また、ヨハネは『世にあるものを愛さないように』と教えています。

ヨハネ2:15ー世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。 

 

*神に敵する…『神の敵』という言葉は、強調された位置にあり、ヤコブ1:2のように『自分自身を〜とみなす』ということ。つまり、その人は自分を『神の敵として立っている』とみなしているのです。

信者は『神とこの世の両方を愛することはできない』ということ。これは、個人的決断です。聖書的原則の背後にあるのは、霊的姦淫です。

 

 

ヤコブ4:5ーそれとも「神は、私たちのうちに住まわせた御霊を、ねたむほどに慕っておられる」という聖書のことばが無意味だと思うのですか。

 

ヨハネ14:16~17a ーわたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

その方は、真理の御霊です。

 

*それとも…読み手の注意を別な観点からヤコブの視点に向けさせるための接続詞。

 

*無意味ヤコブが示しているのは、御父の妻イスラエルに対する嫉妬を述べている旧約聖書の箇所からの要約。『無意味』という言葉は強調された位置にあります。

 

*思うのですか… 『これはあなたの意見ですか?』の意。

 

*ねたむほどに…ライバルに対する恋人の嫉妬に使われる言葉でもある。

 

*慕っておられる…時間的長さを表すギリシャ語。大いに切望する、渇望する、の意。一般的には、恋人の愛情を切望する時に使われる言葉。

 

 5節のこの質問には二つの意味があると考えられます。

①『聖霊』が動詞の目的語の場合:

“神は私たちのうちに住まわせた聖霊に対してねたんでおられる” と読めます。

新改訳聖書の本文の訳は、こちらを採用しています。

 

②『聖霊』が動詞の主語の場合:

“神が私たちのうちに住まわせた聖霊は、ねたむほどに慕っておられる” と読めます。

新改訳聖書の脚注に『別訳』として記されているのがこの立場です。

 

*『聖霊』を動詞の主語として解釈した方が、より好ましい訳となります。

 私たちを悔い改めに導かれた聖霊が、私たちが世を愛することに対してねたみ、私たち信者の完全な献身と忠誠を切望しておられる、という意味です。それはまた、『この世の霊』というもう一つの対抗する霊に対しても語っています。『この世の霊』は、信者のうちに住まわれる聖霊に対し、不誠実にあらわれます。

 

 

ヤコブ4:6ーしかし、神は、さらに豊かな恵みを与えてくださいます。ですから、こう言われています。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」 

 

6〜10節でヤコブは、七つの責務を提示しています。

①さらに豊かな恵みを与えてくださいます…恵みの充当

 神はより大きな恵みを与えてくださいます。

 

*ですから…『高ぶる者を退ける』理由であることを意味する。

ヤコブは続きを『七十人訳』から、箴言3:34の『主』を『神』に変えて引用しています。

箴言3:34ーあざける者を主はあざけり

へりくだる者には恵みを授ける。

 

 

ヤコブ4:7ーですから、神に従いなさい。そして、悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。 

 

神に従いなさい…信者に『即従うこと』を要求 する緊急性を含むギリシャ語の命令形。ギリシャ語では『適した位置(身分)を受け入れること』を意味し、『格下の者』を意味する軍隊用語です。

 

服従するというのは、神のもとで与えられた身分を受け入れることを意味します。

ルカ2:51ーそれからイエスは、いっしょに下って行かれ、ナザレに帰って、両親に仕えられた。母はこれらのことをみな心に留めておいた。 

 

ローマ13:1ー人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

 

エペソ5:22~24ー妻たちよ。あなたがたは主に従うように、自分の夫に従いなさい。

なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。

教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。

 

テトス2:9ー奴隷には、すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず、

 

信者は罪を犯す度に、神に反抗しており、神に従ってはいません。信者は自分自身を神に従わせなければなりません。そして、それは『罪の告白』によってなされます。

ヨハネ1:9ーもし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 

悪魔に立ち向かいなさい。

*悪魔…『誹謗中傷する者』という意味で、サタンの主な活動を強調。

 

*立ち向かう…『悪魔に抵抗する』という明確な態度を打ち壊す、の意。

 

*悪魔はあなたかこれら悪魔に抵抗する人々に対する約束は、『悪魔はその人から逃げ去る』ということ。勝利は可能です。しかし、勝利は抵抗にもとづくものなのです。

 

ヤコブ4:8ー神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。

 

神に近づきなさい…真剣に神を求めることに言及。世俗的なことは、神からはぐれてしまう結果となる。

『近づきなさい』とギリシャ語は、七十人訳では『礼拝』の意味で使われています。

 

罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。 …個人の心の内側のきよめに言及します。

 

*罪ある人たち…きよめを必要としている信者に宛てたものであることを意味。

 

*手を洗いきよめなさい…外側の行い。神に近づくための祭司たちの公式のきよめの儀式の言葉。

 

*二心の人たち…既に記したように『二つの魂』の意。神にしがみつこうとしながら、世に憧れを持ち続けることは、心の中に、心と手との間に葛藤があることを示します。 

手は心が正しいと認識していることを成し遂げていない状態。

神とこの世という二つの主人に仕えようとすることが、罪であり、結果として信者の霊的不安定をもたらします。

 

箴言24:3~4ー家は知恵によって建てられ、

英知によって堅くされる。

部屋は知識によって

すべて尊い、このましい宝物で満たされる。

 

 

ヤコブ4:9ーあなたがたは苦しみなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい。

 

罪を悔い改める。

ここでは、三つの命令は出されています。

a)苦しみなさい…内面的なこと。不幸を強調。罪が信者の上に重くのしかかってきます。

 

b)悲しみなさい…内面的なこと。悲嘆や悲しみ。

マタイ5:4ー悲しむ者は幸いです。

その人たちは慰められるからです。

 

c)泣きなさい…苦悩が外側にあらわれたもの。

ルカ6:21ーいま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるからです。

いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。

 

さらにヤコブは『あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい』と注意しています。

ルカ18:13ーところが、うち税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』

 

 

ヤコブ4:10ー主の前にへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高くしてくださいます。

主の御前にへりくだりなさい…信者のプライドを退けることを要求します。

そのようにする人々は、この『高くしてくださる』という霊的導きを経験するようになります。

 

ヤコブ4:11ー兄弟たち。互いに悪口を言い合ってはいけません。自分の兄弟の悪口を言い、自分の兄弟をさばく者は、律法の悪口を言い、律法をさばいているのです。あなたが、もし律法をさばくなら、律法を守る者ではなくて、さばく者です。

*兄弟たち…読み手が信者であることを意味します。

 

*自分の兄弟の悪口を言い…仲間の信者に対し、悪口を言うという習慣的行動を強調します。文字通りのギリシャ語では、『自分を上げるために、他の人を下ろす』『高ぶって(見下して)話す』という意味。

 

ヤコブは、仲間の兄弟の堕落に対し、二つの理由をあげています。

⑴ 律法違反。

*さばく…兄弟を『有罪』とするための悪口から始まるすべての行動を含みます。このような悪口を言う者は、律法に逆らっているのです。

ギリシャ語本文の『律法』ということばの前には、定冠詞はありません。従って、ここで言う『律法』は『モーセの律法』のことではなく、信者の信仰生活を定めた律法を指しています。それは『完全な律法』または『自由の律法』のことです。

 

ヤコブ1:25ーところが、完全な律法、すなわち自由の律法を一心に見つめて離れない人は、すぐに忘れる聞き手にはならないで、事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。

 

『完全な律法』『自由な律法』とは、“あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ” という『黄金律』です。

ヤコブ2:8ーもし、ほんとうにあなたがたが、聖書に従って、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という最高の律法を守るなら、あなたがたの行いはりっぱです。

 

11節後半でヤコブは、律法をさばいているつもりがなくても、実際には律法を批判しているため、律法を守ることはできないと述べています。

律法に従う義務がないかのように振る舞う人は、律法よりも上に自分自身を上に置いているため、さばいているのです。

 

 

ヤコブ4:12ー律法を定め、さばきを行う方は、ただひとりであり、その方は救うことも、滅ぼすこともできます。隣人をさばくあなたはいったい何者ですか。

⑵ 律法を定め、さばきを行う方は、神だけである。

私たちは、神さまからその権利を奪ってはなりません。

 

*救うことも、滅ぼすこともできる…『さばきを行う方』として、神の能力や永遠の運命よりもむしろ、肉体の生死を支配しておられるということを要約しています。

 

これらのことを考慮してヤコブは、『隣人をさばくあなたは何者ですか』と再び質問を投げかけています。

自分の隣人をさばくことにより、ヤコブ2:8で述べられている『最高の律法』に違反していることになるのです。

 

ヤコブ4:13ー聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。

 

ヤコブは最初の警告を『ユダヤ人信者』に宛てています。

彼らがしようとしている計画は、神無し(神抜き)の計画であり、箴言27:1に違反するものです。

箴言27:1ーあすのことを誇るな。

一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。

 

*聞きなさい…緊急性を強調することば。

 

*〜と言う人たち…それはユダヤ人商人が立てた計画であり、普段からそう信じていることを実行しようとしている人々。

ここには『四つの仮定』が含まれます。

①きょうか、あす時間に関する仮定。

予定の行動を『きょう』始めるか、『あす』始めるかを説明しています。

 

②これこれの町に行き場所に関する仮定。

計画の最初の準備段階。

 

③そこに一年いて永久に関する仮定。

明らかに、彼らがそこに一年滞在するのは彼らの自由ではあります。

 

④商売をしてもうけよう成功に関する仮定。

『商売をして』というのは、取引のための『出張』のこと。儲かるか否かは、この時点ではまだわからないのです。

 

*問題は、神無し(神抜き)で計画を立てていることです!

 

 

ヤコブ4:14あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。

 

ヤコブはここで、これらの行動が『罪だと見なされる二つの理由』を説明を説明しています。

①あなたがたには、あすのことはわからないのです…あすが何をもたらすか誰も分からないということ。彼らは、あすのことについて何の確信も正確な知識もなく『わからない』のです。

 

私たちも毎朝、今日も無事に過ごし、いつもと同じように帰宅し、目を覚ませば明日という日を迎えるということが当然のように過ごしています。明日の予定だけでなく、一週間後、一ヶ月後、一年後の予定、また自分の子どもをどこの小学校に行かせ、中学〜大学までレールを敷いて、十数年先まで『他者』の計画を立てる人もいます。

しかし共通して言えることは、いつ『人生の満期日が来るかわからない』ということです。

 

②あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか…これらの信者の人生は『しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎない』からです。

ポイントは、肉体のいのちは一時的であり、あっという間に終わりが来るということ。

 

これらのユダヤ人信者の商人たちは、自分たちがあすも生きているかどうか知るすべのない『消えてしまう霧』にすぎないのです。肉体のいのちが『霧』以外の何ものでもないというのに、神を無視するとは何と愚かなことか!と、ヤコブは述べているのです。

 

 

ヤコブ4:15ーむしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」

 

これは、ユダヤ人信者の商人たちが考えていなければならず、また宣言すべきことです。

*むしろ、あなたがたはこう言うべきです…「そう言う代わりに、〜というべきです」の意。それは13~14節で言った彼らの心とは正反対のことです。

より適切に言うならば、「神のみこころならば」です。信者は、神のみこころを求める必要があります。神のみこころに合わせて自分自身の計画を変更する意思と、柔軟性が必要なのです。

 

『神のみこころ』という表現は、旧約聖書にはありませんが、新約聖書には使徒たちによって広く用いられている表現です。

使徒18:21ー「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます」と言って別れを告げ、エペソから船出した。

 

1コリント4:19ーしかし、主のみこころであれば、すぐにもあなたがたのところへ行きます。そして思い上がっている人たちのことばではなく、力を見せてもらいましょう。

 

1コリント16:7ー私は、いま旅の途中に、あなたがたの顔を見たいと思っているのではありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。

 

ヘブル6:3神がお許しになるならば、私たちはそうするべきです。

 

 

この忠告は、特にAD70年にユダヤ国内で、ユダヤの経済が崩壊することを考慮すれば真実だということがわかります。ですから、彼らはむしろ「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、またあのことをしよう」と言うべきなのです。なぜなら、彼らの肉体のいのちと活動は、神の恵みによるからです。

 

 

ヤコブ4:16ーところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。

 

ヤコブは16節で、神の将来のご計画に従っていくことに対する『無反応』の結果を説明しています。

*ところがこのとおり…過去の罪に対する表現は、厚かましく自慢する『高ぶりをもって』という将来の宣言と対照的になっています。

 

*むなしい誇りをもって高ぶっています…自分に栄光を帰す罪を犯す結果となります。

*高ぶり…もったいぶって自慢すること。自慢すること自体が、彼らの傲慢を示すようなものです。

名詞としては1ヨハネ2:16でのみ用いられている言葉。

ヨハネ2:16ーすべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

 

『栄光』は神のものであり、神に帰すものであり、それが神のゴールです。

イザヤ43:7ーわたしの名で呼ばれるすべての者は、

わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、

これを形造り、これを造った。

 

イザヤ43:21ーわたしのために造ったこの民は

わたしの栄誉を宣べ伝えよう。

 

『栄光を神に帰すこと』は良いことですが、『高ぶり』は悪いことであり罪です。

 

 

ヤコブ4:17ーこういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。

 

*こういうわけで…16節の『誇り高ぶること』が、なすべき正しいことを知っていながらしない、ということで間違っていることを強調しています。 

 

*知っていながら行わない…これらのユダヤ人信者の商人たちが『行いの伴わない信者』であることを意味。このことによって、彼らは罪を犯しているのです。 

 

繰り返しになりますが、ユダヤ人信者として彼らは、神のみこころに従って物事を決定すべきであることを知っていなければなりませんでした。しかし、彼らは自らの将来の活動を誇り、自慢するということによって『正しいこと』を行なってはいないのです。

『罪』は、『間違った行い』だけでなく、『実行されない正しい行い』でもあり得ることがわかるのです。