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サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

ヤコブの手紙 4:13~17 〜警告〜

ヤコブ4:13ー聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう」と言う人たち。

 

ヤコブは最初の警告を『ユダヤ人信者』に宛てています。

彼らがしようとしている計画は、神無し(神抜き)の計画であり、箴言27:1に違反するものです。

箴言27:1ーあすのことを誇るな。

一日のうちに何が起こるか、あなたは知らないからだ。

 

*聞きなさい…緊急性を強調することば。

 

*〜と言う人たち…それはユダヤ人商人が立てた計画であり、普段からそう信じていることを実行しようとしている人々。

ここには『四つの仮定』が含まれます。

①きょうか、あす時間に関する仮定。

予定の行動を『きょう』始めるか、『あす』始めるかを説明しています。

 

②これこれの町に行き場所に関する仮定。

計画の最初の準備段階。

 

③そこに一年いて永久に関する仮定。

明らかに、彼らがそこに一年滞在するのは彼らの自由ではあります。

 

④商売をしてもうけよう成功に関する仮定。

『商売をして』というのは、取引のための『出張』のこと。儲かるか否かは、この時点ではまだわからないのです。

 

*問題は、神無し(神抜き)で計画を立てていることです!

 

 

ヤコブ4:14あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎません。

 

ヤコブはここで、これらの行動が『罪だと見なされる二つの理由』を説明を説明しています。

①あなたがたには、あすのことはわからないのです…あすが何をもたらすか誰も分からないということ。彼らは、あすのことについて何の確信も正確な知識もなく『わからない』のです。

 

私たちも毎朝、今日も無事に過ごし、いつもと同じように帰宅し、目を覚ませば明日という日を迎えるということが当然のように過ごしています。明日の予定だけでなく、一週間後、一ヶ月後、一年後の予定、また自分の子どもをどこの小学校に行かせ、中学〜大学までレールを敷いて、十数年先まで『他者』の計画を立てる人もいます。

しかし共通して言えることは、いつ『人生の満期日が来るかわからない』ということです。

 

②あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか…これらの信者の人生は『しばらくの間現れて、それから消えてしまう霧にすぎない』からです。

ポイントは、肉体のいのちは一時的であり、あっという間に終わりが来るということ。

 

これらのユダヤ人信者の商人たちは、自分たちがあすも生きているかどうか知るすべのない『消えてしまう霧』にすぎないのです。肉体のいのちが『霧』以外の何ものでもないというのに、神を無視するとは何と愚かなことか!と、ヤコブは述べているのです。

 

 

ヤコブ4:15ーむしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」

 

これは、ユダヤ人信者の商人たちが考えていなければならず、また宣言すべきことです。

*むしろ、あなたがたはこう言うべきです…「そう言う代わりに、〜というべきです」の意。それは13~14節で言った彼らの心とは正反対のことです。

より適切に言うならば、「神のみこころならば」です。信者は、神のみこころを求める必要があります。神のみこころに合わせて自分自身の計画を変更する意思と、柔軟性が必要なのです。

 

『神のみこころ』という表現は、旧約聖書にはありませんが、新約聖書には使徒たちによって広く用いられている表現です。

使徒18:21ー「神のみこころなら、またあなたがたのところに帰って来ます」と言って別れを告げ、エペソから船出した。

 

1コリント4:19ーしかし、主のみこころであれば、すぐにもあなたがたのところへ行きます。そして思い上がっている人たちのことばではなく、力を見せてもらいましょう。

 

1コリント16:7ー私は、いま旅の途中に、あなたがたの顔を見たいと思っているのではありません。主がお許しになるなら、あなたがたのところにしばらく滞在したいと願っています。

 

ヘブル6:3神がお許しになるならば、私たちはそうするべきです。

 

 

この忠告は、特にAD70年にユダヤ国内で、ユダヤの経済が崩壊することを考慮すれば真実だということがわかります。ですから、彼らはむしろ「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、またあのことをしよう」と言うべきなのです。なぜなら、彼らの肉体のいのちと活動は、神の恵みによるからです。

 

 

ヤコブ4:16ーところがこのとおり、あなたがたはむなしい誇りをもって高ぶっています。そのような高ぶりは、すべて悪いことです。

 

ヤコブは16節で、神の将来のご計画に従っていくことに対する『無反応』の結果を説明しています。

*ところがこのとおり…過去の罪に対する表現は、厚かましく自慢する『高ぶりをもって』という将来の宣言と対照的になっています。

 

*むなしい誇りをもって高ぶっています…自分に栄光を帰す罪を犯す結果となります。

*高ぶり…もったいぶって自慢すること。自慢すること自体が、彼らの傲慢を示すようなものです。

名詞としては1ヨハネ2:16でのみ用いられている言葉。

ヨハネ2:16ーすべて世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮し向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

 

『栄光』は神のものであり、神に帰すものであり、それが神のゴールです。

イザヤ43:7ーわたしの名で呼ばれるすべての者は、

わたしの栄光のために、わたしがこれを創造し、

これを形造り、これを造った。

 

イザヤ43:21ーわたしのために造ったこの民は

わたしの栄誉を宣べ伝えよう。

 

『栄光を神に帰すこと』は良いことですが、『高ぶり』は悪いことであり罪です。

 

 

ヤコブ4:17ーこういうわけで、なすべき正しいことを知っていながら行わないなら、それはその人の罪です。

 

*こういうわけで…16節の『誇り高ぶること』が、なすべき正しいことを知っていながらしない、ということで間違っていることを強調しています。 

 

*知っていながら行わない…これらのユダヤ人信者の商人たちが『行いの伴わない信者』であることを意味。このことによって、彼らは罪を犯しているのです。 

 

繰り返しになりますが、ユダヤ人信者として彼らは、神のみこころに従って物事を決定すべきであることを知っていなければなりませんでした。しかし、彼らは自らの将来の活動を誇り、自慢するということによって『正しいこと』を行なってはいないのです。

『罪』は、『間違った行い』だけでなく、『実行されない正しい行い』でもあり得ることがわかるのです。