ヤコブ5:1ー聞きなさい。金持ちたち。あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい。
『金持ち』と呼ばれる人々への二番目の警告は、この節から始まります。
*金持ち…信者の集まりである『教会』の外の『金持ちたち』とは、ヤコブ2:6~7でユダヤ人信者たちを迫害し、繁栄していた『パリサイ人』や『サドカイ人』たちでした。
ヤコブ2:6~7ーそれなのに、あなたがたは貧しい人を軽蔑したのです。あなたがたをしいたげるのは、富んだ人たちではありませんか。また、あなたがたを裁判所に引いて行くのもかれらではありませんか。
あなたがたがその名で呼ばれている尊い御名をけがすのもかれらではありませんか。
*あなたがたの上に迫って来る悲惨を思って泣き叫びなさい…その『金持ちたち』に対するヤコブの警告。
*泣きなさい…『すすり泣く』ことを意味。死者のために泣いている場面で用いられている言葉。
ルカ7:13ー主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。
ルカ7:32ー市場にすわって、互いに呼びかけながら、こう言っている子どもたちに似ています。
『笛を吹いてやっても、君たちは踊らなかった。
弔いの歌を歌ってやっても、泣かなかった。」
ヨハネ11:31~32ーマリヤとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリヤが急いで立ち上がって出て行くのを見て、マリヤが墓に泣きに行くのだろうと思い、彼女について行った。
マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、そのあしもとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟はしななかったでしょうに。」
*叫ぶ…激しい悲しみの表現であり、苦しみのうめき。
なぜ、『金持ちたち』が『泣き叫』ばなくてはならないのでしょう…?
それは、すぐに来るAD70年のさばきで、彼らはその富を失うことになるからです。その悲惨さのために『泣き叫ぶ』のです。
「ヤコブの書簡が書かれた時点では、まだAD70年の裁きについては明らかにされていない!」という方がおられますが、聖書は神の霊感によるということを思い出してくださいね。
Ⅱテモテ3:16ー聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
ヤコブ5:2ーあなたがたの富は腐っており、あなたがたの着物は虫に食われており、
2~3節でヤコブは、パリサイ人とサドカイ人たちの富に迫り来る破壊について説明します。
〜以下、『聖書資料集』ティム・ダウリー著 いのちのことば社 P17参照〜
*パリサイ派…おそらくエッセネ派と同様に、アンティオコスに対して反乱を起こしたマカバイ家の支持者から派生した。モーセ五書(成文律法)を学び、その教えを発展させ保護した(口伝律法)。口伝律法は常に変化する状況に聖書を適応させるために作られた。当時の他の集団と同様に、自分だけが神とイスラエルの契約を保っていると信じていた。『パリサイ』とは、元来「分離した者」という意味だったかもしれない。新約聖書時代に影響力があったのは明白で、福音書に描かれているイエスとパリサイ派との関係は深刻であった。
異邦人の庭 ⑵ 〜ハヌカの祭り・ゼルバベル神殿〜 - サザエのお裾分け
*サドカイ派…主に、祭司とユダヤ人議会議員とで構成されている少数一派に属する人々。
『サドカイ』とはおそらく『ツァドク(ダビデとソロモンに仕えた祭司)の相続人』という意味。
モーセの律法にさいこうの権威を認め、それに等しい口伝律法や伝承はないと信じていた。モーセ五書には『復活』という言葉が出てこないため、パリサイ派と違い、復活や天使、霊の存在を信じなかった。ローマ人とは良好な関係であった。
マルコ12:18ーまた、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。
使徒23:8ーサドカイ人は、復活はなく、御使いも霊もないと言い、パリサイ人は、どちらもあると言っていたからである。
2~3節で三つの動詞を用いて、金持ちたちの状態を表しています。
①あなたがたの富は腐っており
*腐っており…蓄えてきた食料が『無駄になる』ことを示す。
②あなたがたの着物は虫に食われており
*着物…ギリシャ語では、裕福さの象徴としての刺繍がほどこされた『長い外套』を意味。その高価な外套が、虫に食われて価値を失うということ。
ヤコブ5:3ーあなたがたの金銀にはさびが来て、そのさびが、あなたがたを責める証言となり、あなたがたの肉を火のように食い尽くします。あなたがたは、終わりの日に財宝をたくわえました。
③あなたがたの金銀にはさびが来て
*さびが来て…『さびで覆われる』『中までも、もしくは、完全にさびている』の意。
実際には、金や銀はさびることはありません。でも、金は腐食することがあり、銀は曇ることがあります。
*あなたがたを責める証言となる…ヤコブは単に『金や銀はその価値がなくなる』と言っているのです。
本来は、他者の益となるために金幣を用いるべきなのに、怠惰であり、私欲だけを肥やし、隣人に対する愛を示さなかった結果、価値を失った金銀のさびが金持ちたちの失敗を証言することになるのです。
*あなたがたの肉を火のように食い尽くす…『さびが蓄え込む者を消費する』『自己中心的な金銀の持ち主を、さびが罰する』の意。
迫り来るAD70年の裁きの時に、金銀を蓄え込んできた者たちの肉が『裁きの火』の燃料になるということです。
*終わりの日… AD70年の裁きを強調。彼らはAD7年の裁きを前に、最後の日々を生きており、マタイ6:19 & 21のメシアであるイエスの教えに対し、違反を続けていました。
マタイ6:19ー自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物になり、また盗人が穴をあけて盗みます。
マタイ6:21ーあなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。
ヤコブ5:4ー見なさい。あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。そして、取り入れをした人たちの叫び声は、万軍の主の耳に届いています。
4〜6節でヤコブは、三つの特定のエリアで罪悪感を持たずに金持ちたちが行っていることを 解説しています。
①あなたがたの畑の刈り入れをした労働者への未払い賃金が、叫び声をあげています。
*見なさい…『労働者への賃金』に対する特別な注意を呼びかけています。
*労働者への未払い賃金…日雇い労働者への日給が、何らかの専門的理由により源泉徴収されていることを指します。彼らの日々の食事や物質的必要は、この『日給』に依存していました。これらの『日給』が源泉徴収されることは、モーセの律法でも預言者によっても禁止されていました。
レビ記19:13ーあなたの隣人をしいたげてはならない。かすめてはならない。日雇い人の賃金を朝まで、あなたのもとにとどめていてはならない。
申命記24:14~15ー貧しく困窮している雇い人は、あなたの同胞でも、あなたの地で、あなたの町囲みのうちにいる在留異国人でも、しいたげてはならない。
彼は貧しく、それに期待をかけているから、彼の賃金は、その日のうちに、日没前に、支払わなければならない。彼があなたのことを主に訴え、あなたがとがめを受けることがないように。
エレミヤ22:13ー「ああ。不義によって自分の家を建て、
不正によって自分の高殿を建てる者。
隣人をただで働かせて報酬も払わず、
マラキ3:5ー「わたしは、さばきのため、あなたがたのところに近づく。
わたしは、ためらうことなく証人となり、
呪術者、姦淫を行う者、偽って誓う者、不正な賃金で雇い人をしいたげ、やもめやみなしごを苦しめる者、
在留異国人を押しのけて、
わたしを恐れない者たちに向かう。
ー万軍の主は仰せられるー
律法と預言者によって禁じられているにもかかわらず、賃金は金持ちたちによって搾取されていました。
*叫び声をあげる…『大声で叫ぶ』『悲鳴』という意味であり、継続的行動を指します。
賃金が不当に源泉徴収されるので、この未払い金自体が復讐を求めて叫び続けているのです。その『叫び声』が、万軍の主の耳に届いています。
*万軍の主…ヘブル語では『ホスト』の意。旧約聖書では、神の一般的タイトルです。パウロは旧約聖書から引用して用いていますが、聖書の著者によって用いられるのはここだけです。
イザヤ1:9ーもしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を
私たちに残されなかったら、
私たちもソドムのようになり、
ゴモラと同じようになっていた。
ローマ9:29ーまた、イザヤがこう預言したとおりです。
「もし万軍の主が、私たちに
子孫を残されなかったら、
私たちはソドムのようになり、
ゴモラと同じものとされたであろう。」
ヤコブ5:5ーあなたがたは、地上でぜいたくに暮らし、快楽にふけり、殺される日にあたって自分の心を太らせました。
②貧しい者たちのお金で『ぜいたくに暮らす』こと
*地上でぜいたくに暮らし…ぜいたくに、わがままに生活すること。
*快楽にふけり…金銭を正しく用いることをせずに、自分たち欲望にのみ金銭を使うこと。
*殺される日…AD70年の裁きのこと。
*自分の心を太らせ…心の内部の欲望を満たすことにより、太らせる、肥やす、の意。
彼らの心の内部の欲望は、まさに太った子牛のように殺される日にあたって太っていったということ。
エレミヤ12:3ー主よ。あなたは私を知り、私を見ておられ、
あなたへの私の心をためされます。
どうか彼らをほふられる羊のように引きずり出して、
虐殺の日のために取り分けてください。
ヤコブ5:6ーあなたがたは、正しい人を罪に定めて、殺しました。彼はあなたがたに抵抗しません。
③あなたがたは正しい人を罪に定めて、殺しました。
*正しい人…二通りの意味に取れます。
A)メシアに言及…ヤコブは、金持ちたちを『メシアを殺した人たち』として訴えていることになります。
使徒3:14ーそのうえ、このきよい、正しい方を拒んで、人殺しの男を赦免するように要求し、
使徒7:52ーあなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。彼らは、ただしい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者となりました。
使徒22:24ー彼はこう言いました。『私たちの父祖たちの神は、あなたにみこころを知らせ、義なる方を見させ、その方の口から御声を聞かせようとお定めになったのです。
1ヨハネ2:1ー私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。
1ヨハネ3:7ー子どもたちよ。だれにも惑わされてはいけません。義を行う者は、キリストが正しくあられるのと同じように正しいのです。
B)正しい人たちの階級に言及…前後関係から『ユダヤ人信者たち』を指すと思われます。金持ちたちはユダヤ人信者たちを迫害しましたが、『正しい人たち』は迫害に対し、抵抗しなかったのです。ユダヤ人信者たちは、マタイ5:39の無抵抗の命令に従ったのです。
マタイ5:29ーしかし、わたしはあなたがた言います。
悪い者に手向かってはいけません。
あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。
*殺しました…身体的な暴力を含むユダヤ教の『殺人罪』を指します。
これら『三つの罪』のために、金持ちたちは特別に重い裁きに合うのです。
ヤコブ5:7ーこういうわけですから、兄弟たち。主が来られる時まで耐え忍びなさい。見なさい。農夫は、大地の貴重な実りを、秋の雨や春の雨が降るまで、耐え忍んで待っています。
*こういうわけですから…5:1~6で既にユダヤ人の不信者について述べたことの上に立てられています。
*主が来られるまで…信者は『耐え忍ば』なくてはなりません。『主が来られるまで』と期限付きですから、短気であってはいけないのです。キリストの再臨が、迫害と抑圧と不正を終わらせるからです。
ヤコブが『主が来られるまで』と言っているのは、危急の強い感覚があったからであり、キリストの再臨がヤコブの生涯のうちに来るかもしれないということを意味するのであり、『ヤコブの生きている間に、キリストの再臨が来なければならない』という意味ではありません。
*耐え忍ぶ…ギリシャ語の意味は『短気とは反対に、長期の性質のもの』。
自己の態度を指し、挑発に対して早急な報復を控え、難しい人々を我慢すること。
ヤコブ1:2~4ー私の兄弟たち。さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
信仰が試されると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
その忍耐を完全に働かせなさい。そうすれば、あなたがたは、何一つ欠けたところのない、成長を遂げた、完全な物となります。
7節後半でヤコブは、忍耐の例を提示しています。
*見なさい…何度も出て来る『特別な注意を呼び掛ける』言葉。
*農夫…日雇い労働者ではなく『小作人』。
*大地の貴重な実りを〜耐え忍んで待っています…小作人は種を植え、種を蒔くが、成長し収穫するのを確実にするために、雨のような『外部的な力』に依存しているのです。彼らは、悪天候や疫病のような不確実性にもかかわらず、期待する態度を忍耐強くとっています。
ギリシャ語の語順は『忍耐』を強調しています。
小作人たちが『秋の雨や春の雨が降るまで、期待し、耐え忍んで待つ』ように期待し、耐え忍んで待つのと同様に、霊的収穫もまた『神の介入』に依存しています。
*秋の雨や春の雨…イスラエルでの主な雨量である『秋の雨』は、10~11月頃に降り、『春の雨』は3~4月頃に降ります。『秋』から始まるこの表現は、この手紙がイスラエルに起源があることを再度明らかにしています。イスラエルの新年は、秋のラッパの祭り『ロシュ・ハシャナー(年頭)』から始まります。
雨のタイミングは、畑に直接影響を及ぼします。農夫ができることは一歩下がって、雨がもたらす恵を信頼して待つことです。
ヤコブ5:8ーあなたがたも耐え忍びなさい。心を強くしなさい。主の来られるのが近いからです。
ヤコブは二つのことを述べています。
①農夫たちが耐え忍んでいるように『あなたがたも耐え忍びなさい』。
②『心を強くしなさい』…何かを強化する、の意。堅く不動の物の上に立つこと。
信者は、周りからの迫害によって振り回されるよりは、むしろ内面的な安定性を発達させるべきです。
*主の来られる…内面の安定性は、キリストの再臨の希望の祝福です。
*近いからです…この出来事は『近いが、まだ起こっていない』ことを示しています。
危急性を意味し、期待の態度をもたらします。ここで言う『キリストの再臨』とは、『地上再臨』のことではなく、いつでも起こり得る『携挙』のこと。
*『キリストの地上再臨』は、『携挙』とは対照的に、先行して起こる幾つかの出来事があります。『携挙』と『地上再臨』の違いはこちらからどうぞ。
ヤコブ5:9ー兄弟たち。互いにつぶやき合ってはいけません。さばかれないためです。見なさい。さばきの主が、戸口のところに立っておられます。
*互いにつぶやき合ってはいけません…『舌の管理における忍耐』についての助言。
ギリシャ語の意味は、『ため息をつくこと』『不平を言うこと』。
仲間の信者に対してつぶやいたり、不平を言ったり 、文句を言うべきではないという命令は、外に現れる受け入れがたい行動は、批判と誤ちを見つけ出すことによる結果としての不満から来ているのです。
*さばかれないため…互いにつぶやき合ってはならない『理由』。
自分を基準に『人をさばく』という行為は、イエスの戒めに違反する『罪』です。
マタイ7:1ーさばいてはいけません。さばかれないためです。
ルカ6:37ーさばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。
さばいてはいけません…!? 〜マタイ7:1~5 - サザエのお裾分け
キリストの再臨(携挙)は、いつでも起こりうる出来事ですから、『戸口のすぐ前に立っておられる御子によってさばかれないため』です。御子イエスが、『キリストの御座の裁き』の座に立つ裁判官だからです。
Ⅱコリント5:10ーなぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。
終末における『神の裁き』は三つあり、信者が受けるさばきが『キリストの御座のさばき』です。
ヤコブ5:10ー苦難と忍耐については、兄弟たち、主の御名によって語った預言者たちを模範にしなさい。
*兄弟たち…この書簡の受取人・読者たちを『兄弟たち』と呼び掛けることにより、彼らが今『旧約聖書』を思い出さなけばならない『ユダヤ人信者』であることを再び強調しています。
10~11節でヤコブは、耐え忍んだ二つの例をあげています。
①苦難と忍耐の例として、預言者たち。
主の御名によって語った預言者たちは、困難の苦しみに根気よく『耐え忍んだ』人々です。
マタイ5:10ー義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。
ヤコブ5:11ー見なさい。耐え忍んだ人たちは幸いであると、私たちは考えます。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いています。また、主が彼になさったことの結末を見たのです。主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方だということです。
*見なさい…耐え忍んだ人々のこの例に読者たちの注意を集めています。
②あなたがたは『ヨブの忍耐』のことを聞いています。
新約聖書の中で、ヨブを例にあげた唯一の例がここです。パウロもヨブ記5:13を引用していますが、ヨブの名前は出していません。
ヨブ記5:13ー神は知恵のある者を
彼ら自身の悪知恵を使って捕えられる。
彼らのずるいはかりごとはくつがえされる。
1コリント3:19ーなぜなら、この世の知恵は、神の御前では愚かだからです。「神は、知者どもを彼らの悪賢さの中で捕えられる。」
*耐え忍んだ…ここでのギリシャ語は、10節とは違う言葉が使われています。
10節は『忍耐強さ』『忍耐強い持久力』を強調し、11節は『不平・不満を言わない』という意味です。
ヨブが不満を言った際のポイントは、神に忠実なままであり、背教したと言える程 不満を述べてはいないということです。
*主が彼になさったことの結末を見たのです…読者たちがヨブの結末を知っている、の意。それは『ヨブの忍耐が、ヨブの潔白を証明した』ということです。
ヨブは苦しみを通して忍耐力をつけ、忍耐が彼を成長させました。
*主は慈愛に富み、あわれみに満ちておられる方…それはまた、サタンの誹謗中傷を逸らし、ヨブの信仰の潔白を証明したのは『神のゴール』でもありました。
ルカ6:36ーあなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたもあわれみ深くしなさい。
*あわれみ…『非常に同情的である』ことを意味します。
ヤコブ5:12ー私の兄弟たちよ。何よりもまず誓わないようにしなさい。天をさしても、地をさしても、そのほかの何をさしてもです。ただ、「はい」を「はい」、「いいえ」を「いいえ」としなさい。それはあなたがたがさばきに会わないためです。
*私の兄弟たちよ…このように呼び掛けることにより、ヤコブは一般の主にある兄弟関係に基づいて注意喚起しています。
*何よりもまず誓わないようにしなさい…ヤコブの『警告』の内容。
誠実さ、約束、また神に対する『誓い』の意。
法廷での誓いを規制するものではなく、断定的な誓いを規制するもの。
ここでのポイントは、ユダヤ人信者たちが『神の御名の使い方に敬意を示さなければならない』『神の御名を無にすることを避ける』ということ。
*天をさしても…そこは『神の王座』です。
*地をさしても…そこは『神の足台』です。
使徒7:49ー主は言われる。
天はわたしの足台である。
あなたがたは、どのような家を
わたしのために建てようとするのか。
わたひの休むところとは、どこか。
*そのほかの何をさしても…ギリシャ語のここでの意味は、『同じ種類のもう一つの』という意味。地上で神聖に保たれるものに対して誓ってはならないのです。
『天にあるもの、地にあるものをさして誓う』というのは、ユダヤ人の近いの方法です。しかし、メシアを信じるユダヤ人信者は、そのような誓い方はしません。
信者はただ、『はい』と『いいえ』という簡単な言葉で答えれば良いのです。
信者の言葉が、主イエスにあって『完全な真実』であれば、『誓い』をする必要がないからです。
この節が現在形で書かれているのは、これが信者の日常の行動であり、特徴であるべきだからです。誓いによって声明を支持しなくてはならないのは、信憑性の不足を意味します。
*さばきに会わないため…『誓ってはいけない』理由。信者は人からだけでなく、神にさばかれないために『誓い』を避けるべきです。
この罪は、特にパリサイ主義において事実でした。
マタイ5:33~37ーさらにまた、昔の人々に『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ。』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。
だから、あなたがたは『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。
マタイ23:16~22ーわざわいだ。目の見えぬ手引きども。おまえたちは言う。『だれでも、神殿を指して誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
愚かで、目の見えぬ者たち。黄金を聖いものにする神殿と、どちらがたいせつなのか。
また、言う。『だれでも、祭壇をちかったのなら、何でもない。しかし、祭壇の上の供え物をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない。』
目の見えぬ者たち。供え物と、その供え物を聖いものにする祭壇と、どちらがたいせつなのか。
だから、祭壇をさして誓う者は、祭壇をも、その上のすべての物をも指して誓っているのです。
また、神殿をさして誓う者は、神殿をも、その中に住まわれる方をもさして誓っているのです。
天をさして誓う者は、神の御座とそこに座しておられる方をさして誓うのです。
ユダヤ教の『ミシュナー』は、“ 神の御名、または何か代わりの物をさして誓った誓いには拘束力がある。だが、神への直接的言及のない天や地をさした誓いには拘束力はない。” と教えます。
『天をさして誓うこと』は、神への誓いのように見えますが、実際には違うと主イエスは教えておられます。
この紛らわしい区別は、誓いを果たす義務から逃れるために作られたものであり、実際には『偽善的な誓い』の陰に真実を隠しているのです。
信者は『何かに対する誓い』によってではなく、『真実なことばと行動』によって特徴づけられなければならないのです。
ヤコブ書5章には、四つのレッスンが記されています。
①5:7~11…忍耐強さ。
②5:12…誓わないようにすること。
③5:13~18…祈りの実践。
④5:19~20…逆戻りする人を救い出す。
ここは、三つ目の『祈りの実施』です。
『祈り』は、キリストの再臨までの間、信者の生活の一部として重要であり、ヤコブ書の中に記されている『信仰のテスト』の六番目ーすべての状況において祈りに訴えることによるテストーでもあります。
ヤコブ5:13ーあなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。
⑴*苦しみ…不幸、または災難に対し『困難に耐える』の意。
『苦しに』対する正しい反応は、『その人は祈りなさい』です。信者は、自己憐憫や不平不満を言うことに関わるのではなく、常に『祈り』によって神に立ち返らなくてはなりません。
『祈り』によって直接的な問題解決にはならないかもしれません。
しかし、苦しみの問題に耐えるために必要な『神の恵み』を用いることを意味します。
また、ヤコブ1:2~5によれば、試練の中で信者を支えるために必要な『神の知恵』を得ることを意味します。パウロ自身も試練の中で同じような態度をとっています。
Ⅱコリント12:9ーしかし、主は、「わたしも恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
次にヤコブは、13節後半で『喜んでいる人はいますか』と喜びの状況について述べています。
⑵*喜んでいる…『良い霊の中にいること』の意。上機嫌で大喜びするすべての状況に用いられる。このような状況下での正しい反応は、『賛美しなさい』です。
ヤコブ5:13と使徒27:22で、難破の危険にさらされている人々に対し、パウロが励ますのに用いていることば。
使徒27:22ーしかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。
*賛美しなさい…楽器の有無にかかわらず、神をほめたたえるために『賛美する』ということ。これは命令形でもあり、『しなければならないこと』を意味します。
ヤコブ5:14ーあなたがたのうちの病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。
⑶*病気の人…強さが無い状態、の意。病によってもたらされる弱さや、日常生活に支障を来す病気のこと。このような病気の悪化は、働けなくなったり、死に至らしめたりします。
ヨハネ4:46~47ーイエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。
この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。
ピリピ2:26~27ー彼は、あなたがすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。
ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。
『病気』という言葉は、ラザロ(ヨハネ11:1~6)やドルカス(使徒9:37)の場合は、実際に『死んだ人』に使われています。
ヨハネ11:1~6ーさて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」
イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。
⑺ ラザロのよみがえり(1) 〜ヨハネ11:1~17〜 - サザエのお裾分け
⑺ ラザロのよみがえり(2) 〜ヨハネ11:18~29〜 - サザエのお裾分け
⑺ ラザロのよみがえり(3) 〜ヨハネ11:30~44〜 - サザエのお裾分け
使徒9:37ーところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。
病気のときの正しい反応は、①『教会の長老たちを招く』ことです。
*長老たち…教会の牧師、指導者たちのこと。地元の教会で最も高い地位にいる者。 ***複数形になっていることに注意!…エルサレム教会は、明らかにユダヤ教の『シナゴーグ』の形式に従い、『長老たち』が最も権威ある立場にありました。『長老たち』が複数形で書かれているのは、すべての地域教会に『複数の長老たちが常にいた』ためです。数人の『長老たち』がいたという事実は、エルサレム教会だけでなく、異邦人教会においても事実でした。
使徒14:23ーまた、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。
ピリピ1:1ーキリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ。
1テサロニケ5:12ー兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。
長老職・監督職(共に教会の指導者たち)の資質については、1テモテ3:1~7を参照!
長老たちが病人を捜し歩くのではありません。それは、長老たちの義務ではありません。
*長老たちを招き…英語では “Let him call.ー彼に招かせなさい” という表現は、病人がとるべき最初のステップとして強調されています。
病人がまず長老たちを招き、長老たちが病人を訪問するという順序です。
言い換えると、病人を長老たちのもとへ連れて行く必要はなく、招かれた長老たちが病人を訪ねて行くのです。『癒しの賜物を持った者』が招かれるのではなく、『病人が癒されるために連れて来られる』でもありません。
*教会…ヤコブの手紙の中で『教会』という言葉が使われているのは、14節だけです。
新約聖書の中で『教会』という言葉が、『場所』を意味する言葉として用いられている箇所はありません。
教会は、キリストのからだである『信者の集まり』を指す言葉。
シナゴーグ(会堂)が、信者の集会の場所を指す言葉として区別されています。
②『主の御名によってオリーブ油を塗って祈ってもらう』14節後半は、次に病人がするべきことです。ここでは、三つのことに注目!
1)主の御名によって…ここでの『主』は、イエス・キリストのこと。
『癒し』は、『オリーブ油』によってではなく、神がなさるわざです。
病人が長老たちによって祈られている間、実際に回復させるのは神ご自身であり、儀式の背後におられる権威者であられます。
2)オリーブ油を塗って…ギリシャ後の『塗る』という言葉は、何にでも使える一般用語です。七十人訳聖書では、聖職者に油を塗るときにも使われています。
『油』はまた、聖霊のシンボルであり、主の癒しの力です。
3)祈ってもらいなさい…長老たちが祈りを実行することが、この特別な状況における主要な働きです。ギリシャ語では『祈り続ける』という継続を意味し、病人の上に覆いかぶさるような体制、病人に手を伸ばすことを意味します。
1列王記17:21~22ーそして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」
主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。
ヤコブ5:15ー信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。
*信仰による祈り…信仰によって提供され、信仰に根ざした長老たちの信仰であって、病人の信仰ではありません。
*病む人…ギリシャ語では、14節の『病気の人』とは違う言葉が使われています。
ここでは『疲労』『疲労困憊』『消耗』を意味する言葉。病気による付随的な症状。
*病む人を回復させます…祈りの結果が示されます。『回復』と和訳されているギリシャ語は “sozo” であり、肉体的救い・霊的救いの両方に用いられています。
肉体的救い “sozo”
マタイ9:21~22ー「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と心のうちで考えていたからである。
イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。
霊的救い “sozo”
エペソ2:8ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
ここでの病人はすでに『信者』ですから、病気からの肉体的回復という意味であり、霊的救いという意味ではありません。
*もしその人が罪を犯していたなら…ヤコブのポイントは、この『特定の状況で癒しが保証される』ということです!
ギリシャ語では完了時制であり、『病気の人は、自分自身の罪にとどまっており、その結果、現在も苦しんでいる』のであり、その人が苦しんでいる病気は『特定の罪』または『罪に起因する病気である』ことを意味します。ここでの『罪』は複数形で、同じ罪を繰り返すことと関連した『罪の意識』をあらわしています。
*赦されます…罪が『遠くへ送られる』ことを意味。
罪が遠くへ送られる時、これらの罪に起因する病気も癒されるということ。
ヤコブ5:16ーですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。
*ですから…次に続く文と、すぐ前の文をつなぐ接続詞。
罪の赦しが癒しをもたらすので、罪の告白をする必要があるということ。
*罪を言い表し…率直で完全な告白を意味し『何かについて同じことを言う』こと。
違反者は神が『罪』と呼ぶものに、その通り正しく罪だと同意し、告白することであり、すべての人々に、すべての罪を告白するという意味ではありません。
それは、病気の原因となっている『罪』また『複数の罪』を長老たちに告白することです。
*互いに…病人が病気の原因となっている複数の罪を告白する、という意味。
*互いのために祈りなさい…この文脈では、長老たちが病人のために『祈る者』です。
その目的は『癒されるため』であり、これら特別な『罪(複数)』に起因する病気が治ることを意味します。罪を告白することと、祈ることは、霊的な癒しへと導きますが、すべての状況での癒しを保証するものでも、また、すべての病気にオリーブ油を塗ることを奨励するものでもありません。
特定の罪による病気については、パウロも記しています。
1コリント11:30~32ーそのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。
しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。
病気が『特定の罪に起因し、これらの手順を踏むならば、その場合に限り、癒しは保証されます』が、病気が肉体の弱さの結果であるならば、癒しは保証はされません。神は回復させる方を選ばれるかもしれないし、回復させない方を選ばれるかもしれないということを、私たちは覚えておくべきでしょう。
*義人の祈り…請願者の性質は、『義人』だということ。ヤコブ書の文脈での『義人』とは、みことばを実行する人のことです。
*働くと大きな力がある…『働くと』というギリシャ語は、霊的なことを意味。
義人の祈りは、力強い霊的祈りであり、大きな効果があるということ。
ヤコブ5:17ーエリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六ヶ月の間、地に雨が降りませんでした。
ヤコブは17~18節で、預言者エリヤの例を用いて説明しています。
*私たちと同じような人でした… エリヤの『人間性』に強調点があり、人としてエリヤは、すべての人が持つ『人間的弱さ』を共有していたことを意味。
ポイントは、エリヤも他の人たちと同じような人だったということであり、従って、エリヤがやってのけたことは、他の人にもできるということです。
パウロも自分たちのことを同じように言っています。
使徒14:15ー言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。
17節でヤコブは、否定的な祈りの例をあげています。
*熱心に祈ると…文字通りのギリシャ語では、『彼は、祈りをもって祈った』と読めます。エリヤの祈りの内容は、『雨が降らないように』でした。
1列王記17:1ーギルアデのティシュべの出のティシュべ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」
*三年六ヶ月の間…1列王記18:1では『三年目』となっていますが、それはエリヤがシドインのツァレファテに到着してからの時間であって、到着するまでの時間は数えないため。
1列王記18:1ーそれから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」
1列王記17:9ー「さあ、シドンのツァレアテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」
『三年六ヶ月』であったことは、イエスも述べています。
ルカ4:25~26ーわたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六ヶ月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、
エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。
ヤコブ5:18ーそして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。
18節では、エリヤの肯定的な祈りの例があげられています。
1列王記18:41~45ーそれから、エリヤはアハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい大雨の音がするから。」
そこで、アハブは飲み食いするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。
それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」
七度目に彼は、「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています」と言った。それでエリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」
しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗ってイズレエルへ行った。
天が大雨を降らせたので干ばつは止み、結果として、地はその実をならせたのです。
これは、エリヤの祈りの恩恵を受けた人々のためにではなく、エリヤに義のゆえに起きたことです。
ヤコブが言わんとしていることは、義人の祈り、霊的な祈りがどれほど大きなものであるかということであり、それを教えるために『癒しの問題』『エリヤの祈りの例』を出しているのです。
ヤコブの手紙5章の最後のレッスンは、『逆戻りする人を救い出す』ことです。
それはこれまでに出てきた『六つの信仰のテスト』の中で、どれか一つ、または二つ以上のテストに失敗した人々の『信仰の回復を助ける』ということです。
【六つの信仰のテスト】
①1:19~27ー神のみことばに対する応答によるテスト。
②2:1~13ー社会的差別に対する応答によるテスト。
③2:14~26ー信仰による行いの実によるテスト。
④3:1~18ー自制の度合いによるテスト。
⑤4:1~5:11ー世と世の中の懸念に対する反応によるテスト。
⑥5:12~18ーすべての状況における祈りへの訴え方によるテスト。
ヤコブ5:19ー私の兄弟たち。あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて、だれかがその人を連れ戻すようなことがあれば、
*私の兄弟たち…仲間のユダヤ人信者たちに対するヤコブの最後の呼びかけ。
ヤコブは19節で、二つのことを言っています。
⑴ あなたがたのうちに、真理から迷い出た者がいて…『真理の道から迷い出た集会の信者』もしくは『逆戻りした者』という意味。
*真理…ここでは定冠詞がついており、『真理全体』を指します。
*迷い出る…ギリシャ語の意味は、『誤った状態に向かってブラブラ行く』。群れからフラフラ迷い出た羊に対して使われることば。この時点で、信者はすでに『みことばを行う人』ではありません。
それはまた、信仰の原則を否定したい者に言及します。教義上の信仰の失敗を強調し、その教えによる失敗を意味します。
教義上の失敗が、道徳的な失敗につながるために、これは同時に『道徳的失敗』をも意味します。
⑵ だれかがその人を連れ戻す…ギリシャ語での『転向者(迷い出た者)』とは、向きを変える、逆戻りする、の意。
主を否定した後のペテロの行動をあらわすのに用いられていることばです。
ルカ22:32ーしかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。
ユダヤ人信者(メシアニックジュー)が、再びユダヤ教を受け入れたならば、『真理の道』であるキリストを信じる信仰へと戻る必要があります。
ヨハネ14:6ーイエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
それは、パウロがガラテヤ人への手紙6:1で記していることを実行することです。
ガラテヤ6:1ー兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
ヤコブ5:20ー罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。
20節でヤコブは、逆戻りする人を引き戻す結果について語っています。
*罪人…信仰から迷い出ることによって、人生における神のご計画を逃した者のこと。
*迷いの道…『妄想』の意。その道は『真理の道』とは対照の道です。
*引き戻す…迷い出た『転向者』が、その誤っている道から引き返して、真理の道に戻るのを手伝うこと。
その結果は、二つ。
①罪人のたましいを死から救い出す…ここで言う『たましい』とは、その人自身のことでり、『死』とは肉体的な死のこと。
1コリント5:5ーこのような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
1コリント11:30ーそのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。
忘れてはいけないのは、迷い出た者は『信者である』ということ。信者は『たましいの救いを得ており、その救いを失うことはない』ということです。
神は時々、肉体の死によって教育されます。ここでの『罪人』は今、そこから救出されたのです。
②多くの罪をおおう…『カバーする』という意味の “キッパ” 、『償い』を意味するヘブル語の概念。ここでは『罪を隠す』という意味ではなく、旧約聖書の『赦しを確保する』ということに言及します。
詩篇32:1ー幸いなことよ。
そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
詩篇85:2ーあなたは、御民の咎を赦し、
彼らのすべての罪をおおわれました。
これは『逆戻りする人の多くの罪さえおおう』ということです。
最初のメシアを信じる信仰から180度逆戻りしても、一回転すれば元の信仰に戻るので、この罪でさえもおおわれ、赦されるということです。
そして、逆戻りした者を再び主との交わりに引き戻した者は、その人自身の罪だけでなく、逆戻りした者の罪も含めて、多くの罪をおおうことになるのです。