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サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

ヤコブの手紙 5:13~18 〜祈りの実践〜

ヤコブ書5章には、四つのレッスンが記されています。

5:7~11忍耐強さ。

5:12誓わないようにすること。

5:13~18祈りの実践。

5:19~20逆戻りする人を救い出す。

 

ここは、三つ目の『祈りの実施』です。

『祈り』は、キリストの再臨までの間、信者の生活の一部として重要であり、ヤコブ書の中に記されている『信仰のテスト』の六番目すべての状況において祈りに訴えることによるテストーでもあります。

 

 

ヤコブ5:13ーあなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。

 

⑴*苦しみ…不幸、または災難に対し『困難に耐える』の意。

『苦しに』対する正しい反応は、『その人は祈りなさい』です。信者は、自己憐憫や不平不満を言うことに関わるのではなく、常に『祈り』によって神に立ち返らなくてはなりません。

 

『祈り』によって直接的な問題解決にはならないかもしれません。

しかし、苦しみの問題に耐えるために必要な『神の恵み』を用いることを意味します。

また、ヤコブ1:2~5によれば、試練の中で信者を支えるために必要な『神の知恵』を得ることを意味します。パウロ自身も試練の中で同じような態度をとっています。

 

Ⅱコリント12:9ーしかし、主は、「わたしも恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

 

次にヤコブは、13節後半で『喜んでいる人はいますか』と喜びの状況について述べています。

 

⑵*喜んでいる…『良い霊の中にいること』の意。上機嫌で大喜びするすべての状況に用いられる。このような状況下での正しい反応は、『賛美しなさい』です。

 

ヤコブ5:13使徒27:22で、難破の危険にさらされている人々に対し、パウロが励ますのに用いていることば。

使徒27:22ーしかし、今、お勧めします。元気を出しなさい。あなたがたのうち、いのちを失う者はひとりもありません。失われるのは船だけです。

 

*賛美しなさい…楽器の有無にかかわらず、神をほめたたえるために『賛美する』ということ。これは命令形でもあり、『しなければならないこと』を意味します。

 

 

ヤコブ5:14ーあなたがたのうちの病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。

 

⑶*病気の人…強さが無い状態、の意。病によってもたらされる弱さや、日常生活に支障を来す病気のこと。このような病気の悪化は、働けなくなったり、死に至らしめたりします。

 

ヨハネ4:46~47ーイエスは再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、かつて水をぶどう酒にされた所である。さて、カペナウムに病気の息子がいる王室の役人がいた。

この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞いて、下って来て息子をいやしてくださるように願った。息子が死にかかっていたからである。

 

ピリピ2:26~27ー彼は、あなたがすべてを慕い求めており、また、自分の病気のことがあなたがたに伝わったことを気にしているからです。

ほんとうに、彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。

 

『病気』という言葉は、ラザロ(ヨハネ11:1~6)やドルカス(使徒9:37)の場合は、実際に『死んだ人』に使われています。

 

ヨハネ11:1~6ーさて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。

このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。

そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」

イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。

⑺ ラザロのよみがえり(1) 〜ヨハネ11:1~17〜 - サザエのお裾分け

⑺ ラザロのよみがえり(2) 〜ヨハネ11:18~29〜 - サザエのお裾分け

⑺ ラザロのよみがえり(3) 〜ヨハネ11:30~44〜 - サザエのお裾分け

 

使徒9:37ーところが、そのころ彼女は病気になって死に、人々はその遺体を洗って、屋上の間に置いた。

 

病気のときの正しい反応は、①『教会の長老たちを招く』ことです。

*長老たち…教会の牧師、指導者たちのこと。地元の教会で最も高い地位にいる者。 ***複数になっていることに注意!エルサレム教会は、明らかにユダヤ教の『シナゴーグ』の形式に従い、『長老たち』が最も権威ある立場にありました。『長老たち』が複数形で書かれているのは、すべての地域教会に複数の長老たちが常にいた』ためです。数人の『長老たち』がいたという事実は、エルサレム教会だけでなく、異邦人教会においても事実でした。

 

使徒14:23ーまた、彼らのために教会ごとに長老たちを選び、断食をして祈って後、彼らをその信じていた主にゆだねた。

 

ピリピ1:1ーキリスト・イエスのしもべであるパウロとテモテから、ピリピにいるキリスト・イエスにあるすべての聖徒たち、また監督と執事たちへ。

 

1テサロニケ5:12ー兄弟たちよ。あなたがたにお願いします。あなたがたの間で労苦し、主にあってあなたがたを指導し、訓戒している人々を認めなさい。

 

長老職・監督職(共に教会の指導者たち)の資質については、1テモテ3:1~7を参照!

 

長老たちが病人を捜し歩くのではありません。それは、長老たちの義務ではありません。

 

*長老たちを招き…英語では “Let him call.ー彼に招かせなさい” という表現は、病人がとるべき最初のステップとして強調されています。

病人がまず長老たちを招き、長老たちが病人を訪問するという順序です。

 

言い換えると、病人を長老たちのもとへ連れて行く必要はなく、招かれた長老たちが病人を訪ねて行くのです。『癒しの賜物を持った者』が招かれるのではなく、『病人が癒されるために連れて来られる』でもありません。

 

*教会…ヤコブの手紙の中で『教会』という言葉が使われているのは、14節だけです。

新約聖書の中で『教会』という言葉が、『場所』を意味する言葉として用いられている箇所はありません。

教会は、キリストのからだである『信者の集まり』を指す言葉。

シナゴーグ(会堂)が、信者の集会の場所を指す言葉として区別されています。

 

②『主の御名によってオリーブ油を塗って祈ってもらう』14節後半は、次に病人がするべきことです。ここでは、三つのことに注目!

 

1)主の御名によって…ここでの『主』は、イエス・キリストのこと。

『癒し』は、『オリーブ油』によってではなく、神がなさるわざです。

病人が長老たちによって祈られている間、実際に回復させるのは神ご自身であり、儀式の背後におられる権威者であられます。

 

2)オリーブ油を塗ってギリシャ後の『塗る』という言葉は、何にでも使える一般用語です。七十人訳聖書では、聖職者に油を塗るときにも使われています。

『油』はまた、聖霊のシンボルであり、主の癒しの力です。

 

3)祈ってもらいなさい…長老たちが祈りを実行することが、この特別な状況における主要な働きです。ギリシャ語では『祈り続ける』という継続を意味し、病人の上に覆いかぶさるような体制、病人に手を伸ばすことを意味します。

 

1列王記17:21~22ーそして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、に祈って言った。「私の神、よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」

はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。

 

 

ヤコブ5:15ー信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。

 

*信仰による祈り信仰によって提供され、信仰に根ざした長老たちの信仰であって、病人の信仰ではありません。

 

*病む人ギリシャ語では、14節の『病気の人』とは違う言葉が使われています。

ここでは『疲労』『疲労困憊』『消耗』を意味する言葉。病気による付随的な症状。

 

*病む人を回復させます…祈りの結果が示されます。『回復』と和訳されているギリシャ語は “sozo” であり、肉体的救い・霊的救いの両方に用いられています。

 

肉体的救い “sozo”

マタイ9:21~22ー「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と心のうちで考えていたからである。

イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。

 

霊的救い “sozo”

エペソ2:8ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 

ここでの病人はすでに『信者』ですから、病気からの肉体的回復という意味であり、霊的救いという意味ではありません。 

 

*もしその人が罪を犯していたなら…ヤコブのポイントは、この『特定の状況で癒しが保証される』ということです!

ギリシャ語では完了時制であり、『病気の人は、自分自身の罪にとどまっており、その結果、現在も苦しんでいる』のであり、その人が苦しんでいる病気は『特定の罪』または『罪に起因する病気である』ことを意味します。ここでの『罪』は複数形で、同じ罪を繰り返すことと関連した『罪の意識』をあらわしています。

 

*赦されます…罪が『遠くへ送られる』ことを意味。

罪が遠くへ送られる時、これらの罪に起因する病気も癒されるということ。

 

 

ヤコブ5:16ーですから、あなたがたは、互いに罪を言い表し、互いのために祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働くと、大きな力があります。

 

*ですから…次に続く文と、すぐ前の文をつなぐ接続詞。 

罪の赦しが癒しをもたらすので、罪の告白をする必要があるということ。

 

*罪を言い表し…率直で完全な告白を意味し『何かについて同じことを言う』こと。

違反者は神が『罪』と呼ぶものに、その通り正しく罪だと同意し、告白することであり、すべての人々に、すべての罪を告白するという意味ではありません

それは、病気の原因となっている『罪』また『複数の罪』を長老たちに告白することです。

 

*互いに…病人が病気の原因となっている複数の罪を告白する、という意味。

 

*互いのために祈りなさい…この文脈では、長老たちが病人のために『祈る者』です。

その目的は『癒されるため』であり、これら特別な『罪(複数)』に起因する病気が治ることを意味します。罪を告白することと、祈ることは、霊的な癒しへと導きますが、すべての状況での癒しを保証するものでも、また、すべての病気にオリーブ油を塗ることを奨励するものでもありません。

 

特定の罪による病気については、パウロも記しています。

1コリント11:30~32ーそのために、あなたがたの中に、弱い者や病人が多くなり、死んだ者が大ぜいいます。

しかし、もし私たちが自分をさばくなら、さばかれることはありません。

しかし、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。

 

病気が『特定の罪に起因し、これらの手順を踏むならば、その場合に限り、癒しは保証されます』が、病気が肉体の弱さの結果であるならば、癒しは保証はされません。神は回復させる方を選ばれるかもしれないし、回復させない方を選ばれるかもしれないということを、私たちは覚えておくべきでしょう。

 

*義人の祈り…請願者の性質は、『義人』だということ。ヤコブ書の文脈での『義人』とは、みことばを実行する人のことです。

 

*働くと大きな力がある…『働くと』というギリシャ語は、霊的なことを意味。

義人の祈りは、力強い霊的祈りであり、大きな効果があるということ。

 

ヤコブ5:17ーエリヤは、私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六ヶ月の間、地に雨が降りませんでした。

 

ヤコブは17~18節で、預言者エリヤの例を用いて説明しています。

 

*私たちと同じような人でした… エリヤの『人間性』に強調点があり、人としてエリヤは、すべての人が持つ『人間的弱さ』を共有していたことを意味。

ポイントは、エリヤも他の人たちと同じような人だったということであり、従って、エリヤがやってのけたことは、他の人にもできるということです。

 

パウロも自分たちのことを同じように言っています。

使徒14:15ー言った。「皆さん。どうしてこんなことをするのですか。私たちも皆さんと同じ人間です。そして、あなたがたがこのようなむなしいことを捨てて、天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった生ける神に立ち返るように、福音を宣べ伝えている者たちです。

 

17節でヤコブは、否定的な祈りの例をあげています。

*熱心に祈ると…文字通りのギリシャ語では、『彼は、祈りをもって祈った』と読めます。エリヤの祈りの内容は、『雨が降らないように』でした。

 

1列王記17:1ーギルアデのティシュべの出のティシュべ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」

 

*三年六ヶ月の間…1列王記18:1では『三年目』となっていますが、それはエリヤがシドインのツァレファテに到着してからの時間であって、到着するまでの時間は数えないため。

1列王記18:1ーそれから、かなりたって、三年目に、次のような主のことばがエリヤにあった。「アハブに会いに行け。わたしはこの地に雨を降らせよう。」

 

1列王記17:9ー「さあ、シドンのツァレアテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

 

『三年六ヶ月』であったことは、イエスも述べています。

ルカ4:25~26ーわたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六ヶ月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、

エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。

 

 

ヤコブ5:18ーそして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました。

 

18節では、エリヤの肯定的な祈りの例があげられています。

1列王記18:41~45ーそれから、エリヤはアハブに言った。「上って行って飲み食いしなさい。激しい大雨の音がするから。」

そこで、アハブは飲み食いするために上って行った。エリヤはカルメル山の頂上に登り、地にひざまずいて自分の顔をひざの間にうずめた。

それから、彼は若い者に言った。「さあ、上って行って、海のほうを見てくれ。」若い者は上って、見て来て、「何もありません」と言った。すると、エリヤが言った。「七たびくり返しなさい。」

七度目に彼は、「あれ。人の手のひらほどの小さな雲が海から上っています」と言った。それでエリヤは言った。「上って行って、アハブに言いなさい。『大雨に閉じ込められないうちに、車を整えて下って行きなさい。』」

しばらくすると、空は濃い雲と風で暗くなり、やがて激しい大雨となった。アハブは車に乗ってイズレエルへ行った。

 

天が大雨を降らせたので干ばつは止み、結果として、地はその実をならせたのです。

これは、エリヤの祈りの恩恵を受けた人々のためにではなく、エリヤに義のゆえに起きたことです。

 

ヤコブが言わんとしていることは、義人の祈り、霊的な祈りがどれほど大きなものであるかということであり、それを教えるために『癒しの問題』『エリヤの祈りの例』を出しているのです。