サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

シャカイナグローリーと神の内住 〜影と本体〜

聖書には多くの『影と本体』があります。旧約で記された『影』は、新約のキリストという『本体』へとつながります。

聖書に見られる『型』〜本体と影〜 - サザエのお裾分け

このような聖書の読み方ができるようになると、聖書がますます面白くなると思います。

 

出エジプト記33:11ー主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。モーセが宿営に帰ると、彼の従者でヌンの子ヨシュアという若者が幕屋を離れないでいた。

*ここはモーセと神との特別な関係性を強調しているだけ。
モーセは直接神の顔を見てはいない。罪ある人間が、聖い神を直接見て生きていることはできないのです。

 


出エジプト記33:20ーまた仰せられた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

 

出エジプト記33:23ーわたしが手をのけたら、あなたはわたしのうしろを見るであろうが、わたしの顔は決して見られない。


出エジプト記25:8ー彼らがわたしのために聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む

*住む…ヘブル語:シャカーム。

*聖所モーセの時代は『幕屋』の中の至聖所。
そこに神の栄光の光シャカイナグローリー』が宿られた。

 


出エジプト記40:34~38ーそのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。
モーセは会見の天幕に入ることができなかった。雲がその上にとどまり、主の栄光が幕屋に満ちていたからである。
イスラエル人は、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。

雲が上らないと、上る日まで、旅立たなかった。

イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。

 

モーセは会見の天幕に入ることができなかった…神の聖さの前では、感謝だけではなく、畏怖の念や恐れをも持つことになります。

 

*雲、火シャカイナグローリー神のご臨在の栄光が目に見える形で現れたもの。聖所を造ったイスラエルの民を導く光となりました。

 


イスラエルの民は、このシャカイナグローリーを見て、旅立ったり、止まったりした。

*いつも見ていた…瞳の真ん中にいつもシャカイナグローリーを捉えていた、ということ。

*旅立たなかった前進することだけが、主の導きとは限りません。止まって待つこともまた主の導きです。神の導きと自分の思いとは異なります。

 


これらモーセの時代の旧約聖書箇所が、新約ではどうなるのでしょう…?

 

出エジプト記25:8聖所を造るなら、わたしは彼らの中に住む私たちがキリストの福音を信じるなら、三位一体の神が私たちの心に住んでくださいます。


御霊の内住ヨハネ14:16~17aーわたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためです。

その方は、真理の御霊です。

 

御父と御子の内住ヨハネ14:23ーイエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます

*わたしたち御父と御子。

 


出エジプト記33:11ー主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた。

神の御子イエスは、人が直接顔を見ても死なないように、人と同じ姿になってこの世に誕生してくださいました。


ヨハネ1:14ーことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

*二千年前、神の御子イエスは『人となって、私たちの間に住まわれた』のです。

 

やがて私たちも栄光のからだに復活すると、その時は御子なるキリスト・イエスと本当に『顔と顔を合わせて見る』ことになると、パウロが記しています。

1コリント13:12ー今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔を合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。

 


出エジプト記40:38イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。

イスラエルの民がシャカイナグローリーをいつも見ていたように、キリストの花嫁なる教会はキリストを見続けるのです。


…とはいえ、キリストが天に帰られている今、どのように見続けるのでしょう?


神のご人(神)格が書きあらわされている聖書のみことばによってです。
聖書から宗教的知識ではなく、イエスの人(神)格をみことばを通して追いかけていくのです。
みことばにより、時に前進し、時に止まって待つ…共に主の導きです。


みことばに従順な、忠実なしもべとして歩めますように…???