ピリピ2:1ーこういうわけですから、もしキリストにあって励ましがあり、愛の慰めがあり、御霊の交わりがあり、愛情とあわれみがあるなら、
*こういうわけですから…ピリピ1:27~30の内容。
教会の目的の一つ。
1ヨハネ1:3ー私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。
ローマ15:5~6ーどうか、忍耐と励ましの神が、あなたがたを、キリスト・イエスにふさわしく、互いに同じ思いを持つようにしてくださいますように。
それは、あなたがたが、心を一つにし、声を合わせて、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神をほめたたえるためです。
Ⅱコリント1:4ー神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。
Ⅱコリント13:13ー主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。
ルカ6:36ーあなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。
ピリピ2:2ー私の喜びが満たされるように、あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
*一致を保ち…同じ救い主なる神の御子イエスにつながり(みことばの理解の一致は特に重要)、同じ御霊に満たされている必要がある。神のみことばであるキリストに対する理解の一致により、心を合わせ、ここ志を一つにすることができる。
ピリピ2:3ー何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者と思いなさい。
*へりくだって…神に対してだけでなく、他者に対しても謙遜は必要。
*互いに人を自分よりも優れた者と思いなさい… 自分にはない御霊の賜物が、相手にはあるということを認めることによって可能となる。
1コリント12:4ーさて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。
1コリント12:8~11ーある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、
またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、
ある人には奇跡を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままにおのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。
*全員が同じ『異言の賜物』をいただくわけではありません。
ピリピ2:4ー自分のことだけではなく、他の人のことも顧みなさい。
人間が持つ『原罪』は、神を無視するだけでなく、他者のことも顧みない『自己中心の思い』です。『自分さえ良ければいい』という罪の性質は、生まれながらの自然体でいると、常に強い力を持って心と思いを支配します。
ですから、聖書は『自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい』と教えているのです。
ローマ15:1ー私たち力ある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。
ピリピ2:5ーあなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです。
それは、キリスト・イエスの生き方から学ぶ必要があります。
マタイ11:29ーわたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。
ピリピ2:6ーキリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、
*キリストは神の御姿である方…『神の御子』として 神の栄光=シャカイナ・グローリーを内に持っておられた。神は霊的存在であり、罪の性質を持つ人間が直接目で見ることはできない。
ヨハネ4:24ー神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
*神のあり方を捨てられないとは考えず…罪ある人間が直接神を見ても死なないように、神の御子がわざわざ『人間の姿をとり』『人となって』、しかも赤ん坊という姿で地上に来てくださったのです。
肉体の成長過程においても、私たちと全く同じようになってくださいました。
ピリピ2:7ーご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。人としての性質をもって現れ、
*ご自分を無にして…イエスは『神の御子』でありながら、それを主張せず、の意。
*仕える者の姿をとり…人々を癒し、人々に仕えられました。
マタイ11:5~6ー盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。
だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。
*人間と同じ…イエスは、100%『人』として来てくださいました。だから、飢えも疲れも眠気も感じられたのです。これらはすべて『人としての性質』です。
マタイ4:2ーそして、四十日四十夜断食したあとで、空腹を覚えられた。
ヨハネ4:6ーそこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅の疲れで、井戸のかたわらに腰をおろしておられた。時は六時ごろであった。
マタイ8:24ーすると、見よ、湖に大暴風が起こって、舟は大波をかぶった。ところが、イエスは眠っておられた。
ピリピ2:8ー自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。
*自分を卑しくし…イエスは『神の御子』としての身分を捨てて、天使より低い『人間』となってきて くださったが、『神でなくなった』ことは一度もありませんでした。神としての性質、神の栄光(シャカイナ・グローリー)は常にお持ちでした。それが、イエスの肉体から外に出た瞬間がありました。それが『山上の変貌』です。
マタイ17:2ーそして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。
*死にまで従い…よくゲッセマネの祈りでの『杯』を、「イエス様も我々と同じ人間ですから、肉体的な痛みや苦しみが嫌だったのでしょう。」と言われる方がいますが、主イエスは『自ら十字架でいのちを捨てる』覚悟をお持ちでした。
ヨハネ10:18ーだれもわたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。
では、ゲッセマネの園での祈りの『杯』とは、何を意味しているのでしょう?
人となって来られたイエスが一度も経験したことのなかった『御父との霊的断絶』。
イエスは生まれながらにして、霊的には天の父なる神との関係をお持ちでした。それゆえ『最後のアダム』と呼ばれているのです。
ローマ6:5ーもし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
*キリストにつぎ合わされて…キリストの福音を信じ、「イエスは主です。」と御霊によって信仰告白をした瞬間、私たちはキリストにつぎ合わされました。つまり、御霊の内住により『霊的に生きる者』『霊的に復活した者』となりました。
*キリストの死と同じになっているのなら…キリストは十字架の上で、12時〜3時までの間、ゲッセマネの園で祈られた『杯』を飲み干され、御父から断絶され、霊的に死にました。この時だけが、生まれながらに霊的に死んだ状態の私たち人間と同じ『罪ある者』『人間のすべての罪の身代わり』となられたのです。
この時、主は天の父なる神のことを『父』とは呼べず(この時初めて)、『わが神、わが神』と呼ばれました。まさに人間が苦しい時に呼び求める「神様!」と同じです。
神との『父と子』という親しい関係を失っている状態でした。そのような苦しみの中でさえ、なおも神を慕い求めて叫んでおられたのが、神の御子キリストなのです。
しかし、十字架の上で肉体の死を迎える直前には、再び「父よ。」と呼んでいることから、霊的に復活したことがわかります。
ルカ23:46ーイエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。
つまり、キリストが肉体的に死んだ時、霊においては一度死んで『復活』していました。私たちは、霊的に死んだ状態で母から生まれて来ますから、肉体が死ぬ前に『霊的に復活』しなくては、『キリストの死と同じ』にはなれないのです。
これが全人類の罪の身代わりとしての『十字架の死』の意味です。
ピリピ2:9ーそれゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。
*それゆえ…この『十字架の死』のゆえ、の意。
*すべての名にまさる名をお与えになりました… 『すべての』と言うからには、御父のお名前もそこには含まれることになります。
使徒4:10, 12ー皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。
ピリピ2:10ーそれは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、
これは、キリストの地上再臨の時に起こる出来事です。やがてすべての被造物が、主イエス・キリストを褒め称える時 が来ます。
ローマ8:21~22ー被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。
私たちは被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。
ピリピ2:11ーすべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。
その時には、すべての被造物が、創造主なる主イエス・キリストを通して、父なる神をほめたたえることになります。
千年王国ではまだ、神は『三位一体の神』のままです。最後の的である『死』を滅ぼされた時、御子自身もご自分に万物を従わせた方に従われ、神がすべてにおいてすべてとなられる『永遠の秩序』へ入ります。そのことも説明している記事がこれ。興味のある方は、どうぞ♡