著者は前の章で、御子は『神』であり『御使いたちよりまさるお方』であることを記しました。
ヘブル1:14では、御使いたちは『支配者』ではなく、『信者に仕える者たち』であることが教えられました。
ヘブル1:14ー御使いはみな、使える霊であって、救いの相続者となる人々に仕えるために遣わされたのではありませんか。
ここでは、御使いたちよりもまさる神の御子が、御使いたちよりも『低い』人間として来てくださったことを述べています。
ヘブル2:5ー神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。
*後の世…ギリシャ語で『世』は、『住まわれる世界』の意。
一般的にユダヤ教のラビたちが、『メシア的王国(千年王国)』を表現するのに用いたことば。
『メシア的王国(千年王国)』は、御使いたちに統治されるものではありません。
ヘブル2:6ーむしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。
「人間が何者だというので、
これをみこころに留められるのでしょう。
人の子が何者だというので、
これを顧みられるのでしょう。
詩篇8:4ー人とは何者なのでしょう。
あなたがこれをみこころに留められるとは。
人の子とは何者なのでしょう。
あなたがこれを顧みられるとは。
人間は御使いたちよりもいくらか劣る者として造られました。(神に近ければ近いほど、位は上になります。『神 > ケルビム > セラフィム > 天使長 > 一般の天使 > 人間』の順。)
神はアダムを創造されたとき、アダムに『地の支配権』を与えられました。
しかし、人間が罪を犯したとき(神の禁止命令に背いて、善悪の知識の木の実を食べた時)その支配権を失い、サタンがそれを奪いました。そのため、現在の地は堕天使たちによって支配されています。『この世の君』であるサタンと、サタンに仕える悪霊によって支配されているのです。
エペソ2:1~2ーあなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、
そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
エペソ6:12ー私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
堕天使たちが地を支配するのは、神がその権限を彼らに与えたからではなく、エデンの園で人間が堕落した時にサタンがそれを奪ったからです。
アダムの管理下に置かれた土地は、呪われたものとなりいばらやアザミを生やすようになったのです。しかし、キリストは私たちの罪のために十字架にかかってくださった時、その頭に『いばらの冠』をかぶられ、アダムの罪の結果をも引き受けてくださったのです。
創世記3:18ー土地は、あなたのために、
いばらとあざみを生えさせ、
あなたは、野の草を食べなければならない。
マルコ15:17ーそしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、
ヘブル2:7ーあなたは、彼を、
御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、
彼に栄光と誉れの冠を与え、
詩篇8:5ーあなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
神ははじめ、人間を御使いたちよりいくらか劣るものとして造られ、人間に『栄光と誉れの冠』をかぶらせようとされました。
これはまだ、人類の歴史上成就していません。
ヘブル2:8ー万物をその足の下に従わせられました。」
万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。それが成就するのは、千年王国の終わりです。
1コリント15:24~28ーそれから終わりがきます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。
キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。
「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせられたその方がそれに含められていないことは明らかです。
詩篇8:6ーあなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
万物を彼の足の下に置かれました。
人間は罪のゆえに堕落した結果、地の支配権を二度と回復することはできません。
ヘブル2:9ーただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
その支配権を人間のために回復させてくださったのが、神の御子イエスです。
御子イエスは、メシア的王国/千年王国の地上において、人の支配権を行使されます。
神が『第一のアダム』に対して持っておられた当初の目的は、『最後のアダム』であるイエスによって実現するのです。
土地のちりから造られた最初の人、アダムはその鼻に『いのちの息(御霊)』を入れられ、初めて『生きた者』となりました。
キリスト・イエスは、聖霊により処女マリヤから誕生したので、生まれながらに霊的にも『生きた者』としてこの地上に来られたのです。
これが『第一のアダム』と『最後のアダム』と言われる理由です。
9節で著者は、五つのことを教えています。
①御子の辱めの受け取り手は、人間だということ。
②御子の辱めとは、『イエスが御使いたちよりも低くされた』ということ。
御子は神であるため、御使いに勝る存在ですが、『人間となられたときに、御使いよりも低くされた』ということ。
③御子の辱めの目的は、『すべての人のために死を味わうこと』でした。
*味わう…ギリシャ語は『食べる』という意味ではなく、『経験する』という意味。
④御子が辱めを受けた動機は、神の恵みです。
⑤御子の辱めは、御子が昇天し、高められたときに『栄光と誉れの冠』をかぶる結果となりました。
御子はメシア的王国の終わりにサタンを倒し、最後の的である『死』をも滅ぼされます。そして、万物をその足の下に従わせられます。
1コリント15:25~27ーキリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。
最後の敵である死も滅ぼされます。
「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせられたその方がそれに含められていないことは明らかです。
千年王国の間はまだ、肉体と原罪を持つ者が存在しているため、肉体の死を迎える人々がいます。千年王国の終わりにサタンを倒した時に、死も滅びます。
罪を犯した人にはできないことでも、罪のない人間として来られた御子イエスが、すべてを成就してくださり/くださるのです。
ルカ1:37ー神にとって不可能なことは一つもありません。
あなたはどっちの『アダム』につながっていますか?
…罪を犯した『第一のアダム』ですか?
それとも、罪のない『最後のアダム』ですか?
神の御子イエスは、なぜ『人』として来られたのでしょう?
なぜ、ローマの極刑である十字架での苦しみの『死』を迎えなければならなかったのでしょう?
10~18節では、『メシアの死の目的』について四つの理由があることが記されています。
1)多くの子たちを栄光に導くためーヘブル2:10~13
2)死の力を持つものを滅ぼすためーヘブル2:14
3)信者たちを解放するためーヘブル2:15
4)人を助けるためーヘブル2:16~18
一つ一つの目的を見ていきたいと思います。
1)多くの子たちを栄光に導くためーヘブル2:10~13
ヘブル2:10ー神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。
*多くの子たちを栄光に導く…『メシアの死』の目的。
罪を犯した人間を救うために、神の御子が『御使い』になるようなことはなさらなっかたのです。御子は『人間イエス』として誕生され、『死ぬ』ことが可能となりました。
『イエス』という御名は、人としての名前です。
御父のお名前は一般的には、『ヤーウェ』とか『ヤハウェ』と言われていますが、これは聖書学者によって編み出された呼び名であり、旧約聖書が書かれたヘブル語では母音がないため、正式な呼び名はわかりません。
『エホバ』という呼び名に関しては、*1,278年にカトリックの修道士ライムンダス・マルティーニが著作『信仰の短剣』(Pugio fidei)で考案した人造表現です。
*神の御名は「エホバ」か ーエホバの証人と論じるー P172 岩村義雄著 いのちのことば社 より引用
御霊には様々な呼び名がありますが、どれも固有名詞ではありません。
私たちに与えられた神の御名、人として来られた神の御子イエスの御名だけです。
使徒4:12ーこの方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。
人してきてくださったからこそ、私たちは『イエス』の御名を口にすることができるのです。
罪ある人々と神との関係を回復するためには、『死』が要求されました。
それを表している『型』となるのが、律法による動物のいけにえであり、さらに遡れば『エデンの園』を追放されるアダムとエバに神が与えてくださった『皮の衣』がその予表となっています。
そのことを正しく理解したのがアベルであり、神の方法ではなく自分の良いと思った方法で捧げ物をささげたのがカインでした。
神は、御心に従ったアベルの捧げ物を受け入れられたのです。
『贖い主』は、『贖われる者(人間)』にまさります。
『贖われる者(人間)』は、『贖いを提供されなかった者たち(御使いたち)』に優ります。
『贖いを提供されなかった者たち』とは、不信者のことではなく、御使いたちのことです。堕落した御使いたち/堕天使たちのために、身代わりとなってくださる『贖い』は与えられませんでした。
ですから、御使いたちは『救いの証し』をすることはできないのです。
Ⅱペテロ2:4ー神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの中に閉じ込めてしまわれました。
この時点で、『贖われた者たち(人間)』は堕落した御使いたちにまさり、信者はやがて『堕落した御使いたち』を裁くことになります。
1コリント6:3ー私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。それならこの世のことは、言うまでもないではありませんか。
このように、イエスが提供した『救い』は、御使いたちにではなく、人間にもたらされたものなのです。
*救いの創始者…支配、指導、先駆ける、の意。
御子は、私たちの支配者、指導者、先駆者です。
【御子が贖いの先駆者である三つの特徴】
①御子は苦しみを全うされた。
*全う…ギリシャ語:目標に達する、の意。御子は苦しみを通して、人間としての使命を達成されました。
②御子は『多くの子たちを栄光へと導く』。
③それは『神の目的に基づく』:万物の存在の目的であり、また原因でもある方:御子が人となり、苦しみを通過することは『神のご計画』でした。
ヘブル2:11ー聖とする方も、聖とされる者たちも、すべて元は一つです。それで、主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。
*聖とする方…メシア。
ヘブル10:10ーこのみこころに従って、イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです。
ヘブル13:12ーですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けれられました。
*聖とされる者たち…信者たち
ヘブル10:14ーキリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。
信者たちは、メシアによって聖化されるという意味で彼らは『一つ』です。神は彼らを人間性において一つとし、両者ともに神を『父』と呼びます。
この聖化の過程を通して、人は最終的に『栄化ー救いの完成ー』されるのです。
ヘブル2:12ー「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。
教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」
【『メシアの人間との一体化』と『イエスの人間性』を示す旧約の引用箇所】
詩篇22:22ー私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、
会衆の中で、あなたを賛美しましょう。
*私の兄弟たち…詩篇の著者は『ユダヤ人』ですから、『私の兄弟たち』とは著者と同じ『ユダヤ人』のことです。
*ここでは、復活に続くメシアとイスラエルとの関係を強調しています。
ヘブル2:13ーまたさらに、
「わたしは彼に信頼する。」
またさらに、
「見よ、わたしと、神がわたしに賜った子たちは。」
と言われます。
イザヤ8:17ー私は主を待つ。
ヤコブの家から御顔を隠しておられる方を。
私はこの方に、望みをかける。
*預言者イザヤが、イスラエルを贖う神に信頼を置いたことを記録している聖句です。
ヘブル書の著者はこれを、メシアが、敵が足台に置かれるまで、父なる神を信頼して待っている関係に適用しています。
イザヤ8:18ー見よ。私と、主が私に下さった子たちとは、
シオンの山に住む万軍の主からの
イスラエルでのしるしとなり、
不思議となっている。
*イザヤは彼のふたりの息子たち、シェアル・ヤシュブ(レムナントは立ち返る、の意)とマヘル・シャラル・ハシュ・バズ(分捕りは早く、略奪は速やかに来る、の意)がイスラエルに対するしるしとなったことを教える聖句です。
ヘブル書の著者は、これを御子がイスラエル対するしるしとなることに適用しています。
イザヤはしるしによって、イスラエルの『レムナント』と『ノンレムナント』を区別しました。ヘブル書の著者もまた、彼の時代(一世紀)の『レムナント』について言及しています。
2)死の力を持つものを滅ぼすため ーヘブル2:14
ヘブル2:14ーそこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、
*持っている…ギリシャ語:コイノニア ー『共通して持っている』という意味。
御子が人間と共通して持っていたのは、『血と肉』でした。
神は霊であって、『血と肉』をお持ちではありませんが、御子が『人』として来られた時に、御子なる神が『血と肉』を持つことが可能となったのです。
ヨハネ4:24ー神は霊ですから、神を礼拝する者は、霊とまことによって礼拝しなければなりません。
受肉の時に、御子は神としての性質を捨てたわけではなく、血と肉を持ちながら、罪を持たないという新たな性質を加えたのです。
*これらのものをお持ちになり…ギリシャ語:ただ中にいる、の意。
つまり、『本来との性質とは異なるものの中に、身を置かれた』という意味。
無限の神が、有限の『血と肉』を持つことは不自然なことですが、神はそれをなさいました。それゆえ御子は、死ぬことが可能となり、その死によってサタンの力を無効にされたのです。
*滅ぼし…新改訳聖書では『滅ぼし』と訳されていますが、ギリシャ語ではそのような意味ではありません。
ギリシャ語:カタルゲオ…『無効にする』の意。
このことばは、『モーセの律法が効力を失った』という意味で用いられるものです。
律法は破壊されたわけではなく、信者に対する拘束力を失くしたのです。
サタンは未だに存在し、死の力を持っています。しかし、信者に対してはその効力を失いました。
しかし、コリント人への手紙には『一つの例外』が記されています。
1コリント5:1~5ーあなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。
それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行いをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。
私のほうでは、からだはそこにいなくても心はそこにおり、現にそこにいるのと同じように、そのような行いをした者を主イエスの御名によってすでにさばきました。
あなたがたが集まったときに、私も、霊においてともにおり、私たちの主イエスの権能をもって、
このような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
ここでは、『除名された信者がサタンの権威の下に引き渡され、その者の肉体的死がサタンの手に委ねられた』 と教えています。重要なポイントは、彼の霊は救われており、霊的に滅ぼされることはないが、肉体的いのちはサタンに取られることがあり得るということです。ーこれが信者の死に対して、サタンが権威を振るう唯一の例外です。
イエスが十字架で死ぬまでの間、サタンの最大の武器は、肉体的死をもたらすことでした。しかしイエスは、そのサタンの武器を無力にし、サタンからその力を奪いました。メシアの武器は『永遠のいのち』です。主はこの武器を、自らの死を通して手にしたのです。
サタンは今も存在しています。しかし、信者はサタンに従う義務から解放されています。御子イエスは、私たちの先駆者であり、救いであり、私たちを聖化するだけでなく、死の力を持つサタンに勝利された方です。
ローマ6:22ーしかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり、聖潔に至る実を得たのです。その行き着く所は永遠のいのちです。
3)信者たちを解放するためーヘブル2:15
ヘブル2:15ー一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。
*死の恐怖…『死の恐怖』は、人を奴隷にします。しかし、信者はその恐怖と死そのものから解放されています。信者にとって『死』は、もはや罰ではなく『天に入るための道』となりました。
1コリント15:55ー「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
ピリピ1:21ー私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。
4)人を助けるため ーヘブル2:16~18
ヘブル2:16ー主は御使いたちを助けるのではなく、確かに、アブラハムの子孫を助けてくださるのです。
*主は御使いたちを助けるのではなく…メシアの働きの対象は、御使いたちではなく『人間』でした。神は堕落した御使いたちにではなく、人間に救いを与えようとされたのです。
神は『救い』を与えるために、与えようとしている者のようにならなければなりませんでした。そのために、神は御使いになられたのではなく、『アブラハムの子孫ーダビデの子、ユダヤ人』として、人となられたのです。
ヘブル2:17ーそういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。
*兄弟たちと同じ…御子の働きの内容は『贖い』です。
御子は三つの理由で『兄弟たちと同じ』にならなければなりませんでした。
①あわれみを持つため…人間の属性
②忠実になるため…祭司職において
③大祭司となるため…人間(レビ族)だけが、祭司となり得ます。
ヘブル5:1ー大祭司はみな、人々の中から選ばれ、神に仕える事がらについて人々に代わる者として、任命を受けたのです。それは、罪のために、ささげ物といけにえとをささげるためです。
*なだめ…神の怒りを静めること
イエスの死によって、神の罪に対する怒りは静められたのです。神の義が要求したものは、『民の罪のため』の御子の血による代価によって満たされました。
〜買い戻しの権利『ゴエ〜ル』〜
ヘブル2:14~17の内容は、旧約聖書の血縁者による『買い戻し』という概念が背景となっています。
返済不可能な額の負債を抱えた場合、モーセの律法ではそのような状況での解決策は自らを奴隷として売り、6年間仕えるという選択肢しかありませんでした。
その場合、奴隷からの解放にはふたつの選択肢がありました。
6年間奴隷として仕えた後に解放される場合と、血縁者が贖う場合の二通りでした。
血縁者が贖う場合は、6年が満ちる前に解放される可能性がありました。しかし、その贖いが『有効』であるためには、三つの要求事項が満たされる必要がありました。
❶買い戻す者は、贖われる者との血の繋がりを持った者であること。
見知らぬ者では無効。
イエスは、人となられた時に、全人類と血の繋がりを持った『血縁者』であられました。
第一に、『アブラハム-イサク-ヤコブの子孫』『ダビデの子』としてユダヤ人として来られ、第二に、その系図には『異邦人の血』を持つことが記されています。
マタイ1:3~6ーユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、パレスにエスロンが生まれ、エスロンにアラムが生まれ、
アラムにアミナダブが生まれ、アミナダブにナアソンが生まれ、ナアソンにサルモンが生まれ、
サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
エッサイにダビデ王が生まれた。 ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、
*タマル、ラハブ、ルツ、ウリヤの妻(バテ・シェバ)…これら四人の女性はみな異邦人です。
❷買い戻しの代価を払う能力があること。
イエスは、十字架で流されたご自分の血によって、私たちを贖い出してくださいました。
1コリント6:20ーあなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。
1ペテロ1:18~19ーご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、
傷もなく汚れもない小羊ようなキリストの、尊い血によったのです。
❸買い戻しをする者に、代価を払う意志があること。
イエスご自身が次のように語り、買い戻しの意志を示されました。
ヨハネ10:18ーだれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。
ヘブル2:18ー主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。
著者は、人間が人生の苦しみを受けることに対するイエスの働きについても教えています。
御子が、兄弟たちを助けることができる二つの理由は、
①御子が試みられ、
②御子が苦しまれたためです。
*助ける…ギリシャ語:『叫んでいる者に走り寄る』という意味。
信者が必要に迫られて叫ぶとき、イエスは走り寄って来てくださるのです。
私たち信者の『試練と苦しみ』のただ中で、イエスは『走り寄って来て』助けてくださるのです。
試みを受けている者たちを、深く憐れむことのできるお方に栄光と誉れがありますように。