キリストの福音を受け入れ、信仰告白をした者は、たましいの救いを得ています。
【キリストの福音】
1コリント15:3~5ー私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、
また、ケパに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
人間の霊的状態は、四つに区分することが可能です。
①生まれながらの人ー救いを得る前の人間の霊的状態は『生まれながらの人』、つまり、神を神とせず自己中心に生きる『原罪』により、霊的には死んだ状態のまま肉体だけが生きています。
1コリント2:14ー生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。
②霊的幼子ー信じて間もない者は、『みことばの乳/霊の乳』である初歩的教えを必要としています。
1ペテロ2:2aー生まれたばかりの乳飲み子のように、純粋な、みことばの乳を慕い求めなさい。
ヘブル5:13ーまだ乳ばかり飲んでいるような者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。
③肉に属する人ー救われてはいる者の信仰者としての歩みである、みことばの通読、みことばの学び、信仰の友との交わり、礼拝、祈り等を疎かにすると、霊的成長はそこで止まります。止まるだけでなく、肉の弱さ、罪の性質に引き戻されて、後退してしまいます。
ガラテヤ5:19~21ー肉の行いは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたに言っておきます。こんなことをしている者たちが*神の国を相続することはありません。
*神の国を『相続できない』のであって、神の国に『入れない』わけではありません。モーセの律法を守り行なう『行ないによる義』よりも優る、キリストを信じる『信仰による義』を得た者はみな、神の御国に『入る』ことが許されています。
マタイ5:20ーまことに、あなたがたに告げます。もしあなたがたの義が、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでないなら、あなたがたは決して天の御国に、入れません。
④御霊に属する人ーキリストのうちに根ざし、正しい心でみことばに聞き従う人。その結果、豊かに御霊の実を結ぶ人。
ガラテヤ5:22~23ーしかし、御霊の御は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、
柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。
ヘブル6:1~8は、信仰の歩みが後退してしまい、『霊的幼子』のようになっている信者について述べられている箇所です。この箇所を理解するためには、以下のような原則を抑えておく必要があります。
1)ヘブル書全体の文脈の中で解釈すること。
ヘブル書1〜5章を扱った後に、この箇所を扱うこと。
2)この箇所は、直前の文脈を基に解釈すること。
(文脈的には、5:11から始まった著者による『霊的成熟』を目標とした勧めです。)
3)聖書には矛盾はありえないため、この箇所も聖書の他の箇所で教えられている真理と調和するように解釈すること。
*聖書の大多数が、永遠の教えの保証を教えているならば、一つの解釈によってそれらを覆すことはできません。難解な聖句は、明確な聖句によって解釈されなければなりません。
ヘブル6:1ーですから、私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして、成熟を目ざして進もうではありませんか。死んだ行いからの回心、神に対する信仰、
*ですから…直前のヘブル5:11~14の内容との連結を指すことば。
*私たちは、キリストについての初歩の教えをあとにして…聖書の基本的教えに留まらず、より重要である堅い食物である教えに取り組んでいこうという勧め。
ヘブル書の 受取人/読者たちは、信者ではあったが『霊的幼子』でした。11~14節でも指摘されたとおり、この時点で彼らは更なる知識を必要としていたのではなく、既に持っている知識を使って実践する必要がありました。そうして初めて、より多くの教えに取り組むことができるようになります。しかし、彼らは知識の適用が欠落し、霊的鈍感へと後退していたのです。
『あとにして』…ギリシャ語:『捨てる』『見捨てる』『片付ける』『出す』という意味。つまり、一つの思考から抜け出して、次の段階に進むという意味。
*成熟を目ざして進もうではありませんか…ヘブル書の著者による勧め。
『成熟』…『目標を達成する』という言葉の派生語。
その『目標』とは、霊的成熟のこと。それは、ヘブル書の受取人たちだけでなく、神がすべての信者に期待していることです。『霊的成熟』というテーマは、ヘブル書全体の強調点でもあります。
*キリストについての初歩の教え…1〜2節にかけて、著者は『聖書の基礎的なこと』を各二つずつ三組、計六つを列挙しています。
A)回心について
①死んだ行いからの回心…信仰に入るプロセスにおける否定的な側面。『何かから背く』という意味。
この場合は『死んだ行い』からの背きであり、ここでは『レビ的祭司制度』を指します。この制度は、モーセの律法に基づき一時的にイスラエルの民に付与されましたが、メシアの十字架の死とともに終了し『死んだ行い』となりました。
②神に対する信仰…信仰に入るプロセスにおける肯定的側面。
ここではヘブル書の受取人/読者たちを救いに導くメシアに、きっぱりと全面的献身を決断するという意味。
ヘブル6:2ーきよめの洗いについての教え、手を置く儀式、死者の復活、とこしえのさばきなど基礎的なことを再びやり直したりしないようにしましょう。
B)儀式について
③きよめの洗いについての教え… ギリシャ語では複数形。『浸す』『浸して洗う』という意味。レビ的祭司制度での儀式的きよめを指すと思われます。
ヘブル9:10ーそれらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。
ヘブル書の受取人/読者たちにとって、それは特別な適用としての意味を持ちました。ユダヤ人信者にとって『きよめの洗い』は 、ユダヤ教との決定的な『分離』を意味していました。
④手を置く儀式…旧約時代、祝福を伝える方法として用いられました。それが、新約時代にも受け継がれたのです。
マタイ19:13ーそのとき、イエスに手を置いて祈っていただくために、子どもたちが連れて来られた。ところが、弟子たちは彼らをしかった。
使徒8:14~17ーさて、エルサレムにいる使徒たちは、サマリヤの人々が神のことばを受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネを彼らのところへ遣わした。
ふたりは下って行って、人々が聖霊を受けるように祈った。
彼らは主イエスの御名によってバプテスマを受けていただけで、聖霊がまだだれにも下っておられなかったからである。
二人が彼らの上に手を置くと、彼らは聖霊を受けた。
旧約聖書では『祭司』が、新約聖書では『長老や『執事』が、手を置く儀式によってその職務に任命されました。
使徒6:6ーこの人たちを使徒たちの前に立たせた。そこで使徒たちは祈って、手を彼らの上に置いた。
1テモテ4:14ー長老たちによる按手を受けたとき、預言によって与えられた、あなたのうちにある聖霊の賜物を軽んじてはいけません。
1テモテ5:22ーまた、だれにでも軽々しく按手をしてはいけません。また、他人の罪にかかわりを持ってはいけません。自分を清く保ちなさい。
旧約聖書における『一体化』や『同一化』を表す儀式としての罪の転嫁。
レビ記1:4ーその人は、全焼のいけにえの頭の上に手を置く。それが彼を贖うため、彼の代わりに受け入れられるためである。
レビ記16:21ーアロンは生きているやぎの頭に両手を置き、イスラエル人のすべての咎と、すべてのそむきを、どんな罪であっても、これを全部それの上に告白し、これらをそのやぎのあたまの上に置き、係りの者の手でこれを荒野に放つ。
C)終末について
⑤死者の復活…これもヘブル書の受取人/読者たちにとっては、旧約聖書の初歩的教えであるはずでした。
ヨブ19:25ー私は知っている。
私を贖う方は生きておられ、
後の日に、ちりの上に立たれることを。
イザヤ26:19ーあなたの死人は生き返り、
私のなきがらはよみがえります。
さめよ、喜び歌え。
ちりに住む者よ。
あなたの露は光の露。
地は死者の霊を生き返らせます。
ダニエル12:2ー地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。
⑥とこしえの裁き…『大いなる白い御座のさばき』と『火の池』のこと。
黙示録20:11~15ーまた私は、大いなる白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのをみた。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。
海はその中に入る死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。
それから死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。
*火の池…肉体の死後、不信者のたましいが行く『ハデス』にも『火の池』はありますが、ここでいう『火の池』は、最終的な苦しみの場所としての『地獄』のことであり、永遠に生きられる復活のからだになってから投げ込まれる所です。
イザヤ26:19ーあなたの死人は生き返り、
私のなきがらはよみがえります。
さめよ、喜び歌え。ちりに住む者よ。
あなたの露は光の露。
地は死者の霊を生き返らせます。
ダニエル12:2ー地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。
ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。
ここまでが、ヘブル6:1で言っている『キリストについての初歩の教え』です。
信者たちは信じた後すぐにそれらを学ぶことが『信仰の乳』であり、さらなる成熟を目指すべきであることを、著者は教えています。
ヘブル6:3ー神がお許しになるならば、私たちはそうすべきです。
*神がお許しになるならば…ギリシャ語:『いや、神は絶対にお許しになる』と想定しています。
神は、霊的成熟することを奨励しています。ヘブル書の受取人/読者たちは霊的幼子であり(ヘブル5:11~14)霊的成長が不可能になる程の後退に陥る危険性が迫っていました。彼らは、回帰不能点を越えそうだったです。
*そうすべき…初歩の教えをあとにして前進すべき、ということ。
聖書の難解箇所として有名な『ヘブル6:4~6』のギリシャ語本文は、長い一つの文となっています。
ギリシャ語では6:6の『そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返させることはできません。』が冒頭にあります。そして6:4の冒頭には、接続詞 “ For ”ー『なぜなら』があり、
そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。
なぜなら、一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
しかも堕落してしまうならば、彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
という順序となります。
ヘブル6:4ー一度光を受けて天からの賜物の味を知り、聖霊にあずかる者となり、
ヘブル書の著者は、受取人/読者たちが経験した五つの霊的特権について挙げています。
①一度光を受けた…福音を理解し、信じた『新生体験』を指す。真理の知識をつかんだことを意味。
*一度…繰り返されないことを強調する言葉。
②天からの賜物の味を知った…『味を知り』は、真の体験を指す言葉。
ある人々は『ヘブル書の受取人たちは、救いをかじっただけで飲み込まなかったので、本当に救われてはいなかった』と主張します。しかし、ギリシャ語の『味を知り』はそのような意味を指してはいません。
ヘブル2:9ーただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。
*イエスは、死をかじっただけで死ななかったのでしょうか?
そうではなく、『味わわれた』は、実際にイエスが死んだことを示しています。
ヘブル書の受取人たちも『天からの賜物』をかじったのではなく、実際に体験したのです。それは、メシア自身ーヨハネ4:10、救いーエペソ2:8~9、聖霊ー1コリント12:4を指し、真の霊的生活を共有するようになったことを意味します。
③聖霊にあずかる者となった…『真に参加者となる』という意味。
ヘブル2:14aーそこで、子たちはみな血と肉を持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。
*イエスは『血と肉を持ちそうになった』のはなく、事実血と肉を持ち、人間となられた。
同じように、ヘブル書の受取人たちも『聖霊にあずかりそうになった』のではなく、事実あずかり、内住による聖霊との重要な関係を持ったのです。
つまり、それは彼らが『救われていた』ことを意味します。
ヘブル6:5ー神のすばらしいみことばと、後にやがて来る世の力とを味わったうえで、
④神のすばらしいみことば…『みことば』…ギリシャ語:reima『語られたみことば』のこと。単純な参加ではなく『個人的体験』を指す言葉。
このユダヤ人信者たちは、神からと認識される特別なことばを聞きました。
1ペテロ1:23ーあなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。
⑤後にやがて来る世の力とを味わった…『後にやがて来る世』…メシア的王国(千年王国)を指してユダヤ人が一般的に用いていた言葉。
『力』…同じ言葉が、ヘブル2:4では『奇跡』を指して使われています。
『味わった』…真の体験を指す。
彼らは、千年王国で明らかにされる『力』をある程度見せて頂いていました。
ヘブル6:6ーしかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです。
*しかも堕落してしまうならば…時制に関わらず『堕落するなら』の意。原語では、『背教』つまり一度受け入れた道から離れることを指すことば。
ヘブル書の受取人たちがメシアを信じたのにも関わらず、信仰の道から外れるのならば『そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできない』の意。
その理由は2つ!
a)自分で神の子をもう一度十字架にかけることはできない…イエスは、もう一度十字架にかかるために戻ってくることはない、それは不可能です。
b)恥辱を与える人たちだから…イエスを公に侮辱する行為。
※この『そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません』という意味を、信者は救いを失い得ると解釈すると、再度救いに至る信仰を持つことも不可能になるので要注意!
ユダヤ教に逆戻りする危険性を持つ、真の信者について扱ったものと理解すべきです。
ユダヤ教に回帰するなら、彼らはAD70年に、ローマ軍によって身を滅ぼされることになりました。イエスのメシア性を『サタンのわざ』として拒否したユダヤ教に戻るなら、彼らには二つの点で『不可能』となってしまうものがあったのです。
①『彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて』…メシア拒否したユダヤ教と、再同一化することを意味し、そこから立ち返るためにはメシアを再び十字架につけることが要求されます。
②『恥辱を与える人たちだから』…イエスの初臨の十字架の死を、不十分かつ未完成な救いだったとすることになります。
一度生まれた人は、再び母の胎に戻ることはできないように、そこまで堕落した信者は、それ以上霊的に成長することはなくなります。
一度救われた上で、キリスト教に対する迫害が止むまでという期限付きで信仰を捨て、再び信仰に立ち返るというオプションは、そもそも存在しません。
メシア拒否したユダヤ教に戻って、霊的に成長することはあり得ません。
ヘブル5:12にあるように、霊的幼子だった彼らのオプションは、このままキリスト教にとどまって成長するか、ユダヤ教に戻って霊的に成長しない者となるかでした。
*ユダヤ教に戻ったとしても、彼らが『救い』を失うわけではありません。
しかし、ユダヤ教に戻れば、AD70年のローマ軍によるエルサレム陥落に巻き込まれて命を失うことになります。霊的救いは失わなくても、地上でのいのちを失うことになるのです。
ヘブル6:7~8は、1~6節で語られた内容を絵画的に表現し、人に与えられた祝福とそれを無視することへの非難を自然界の法則に例えています。
ヘブル6:7ー土地は、その上にしばしば降る雨を吸い込んで、これを耕す人たちのために有用な作物を生じるなら、神の祝福にあずかります。
雨⇨地が吸い込む⇨人が耕す⇨農作物の祝福というように、すべての信者に注がれた神の祝福の雨(地…すべての信者、の意)⇨ある信者は『有用な実、作物』を生じ、ある信者は『無用ないばらやあざみ(呪いの象徴。肉の行ない、の意)を生えさせるのです。
すべての信者は、携挙の時に『キリストの裁きの座』で裁定され、報酬にあずかることになります。
信者は『キリストの中/in Christ)』で祝福を受け、神の栄光のために有用な実を結ぶなら、メシア的王国(千年王国)での祝福に与ることになります。
ルカ16:10ー小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
ヘブル6:8ーしかし、いばらやあざみなどを生えさせるなら、無用なものであって、やがてのろいを受け、ついには焼かれてしまいます。
*いばらやあざみなどを生えさせるなら… 『肉に属する信者』が結ぶ肉の行ないによる実(ガラテヤ5:19~21)あり、『耳が鈍くなっている信者たちーヘブル5:11~14』に適用されます。彼らは、主イエスにとって『無用な』生活を送った者たちでした。
1コリント3:15ーもしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。
神に火によって真価を試される時、結果としていばらやあざみ(信者自身のことではなく、信者の行ない)は焼かれることになります。
一方、金・銀・宝石などは、火によって精錬されると、より一層輝きを増すようになるのです。
信者自身が焼かれることはありません。『木・草・わら』の信者の働きが焼かれて却下されるのです。信者本人は、火の中をくぐるようにして救われます。失うのは、メシア的王国での報酬です。
*無用なものであって…『無用』…ギリシャ語:失格者。1コリ9:27と同じ言葉。
1コリント9:27ー私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者となるようなことのないためです。
より優れた訳語としては、『却下』『承認されない』ということばであり、肉に属する信者の行ないは、そのように判定されるということ。
*やがてのろいを受け…律法と犠牲の制度への回帰を望む者は、再び自らを律法の呪いの元に置くことになります。
ガラテヤ3:10~13ーというのは、律法の行いによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」
ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。
しかし律法は、「信仰による」のではありません。「律法を行う者はこの律法によって生きる」のです。
キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。
*ついには焼かれてしまいます…もしヘブル書の受取人/読者たちが、霊的幼子の状態に留まり、成長しないのなら、彼らは御霊の実を結ばず、彼らの肉のわざは焼かれ、却下されます。つまり、御国での報酬を失うことになります。
しかし、かれら自身は救われるのです。
もし彼らが霊的に成長し、御霊の実を結ぶようになるのなら、彼らは御国で報酬を受け取ることになります。
神からの祝福を受けた者は、その祝福を正しく用いるか、用いないかで、神にとって有用か無用か、どちらかの実を結ぶことになります。
ヨハネ15:1~6も同じことを教えています。
キリストの福音を信じる者が、『良い行ない、祈り、奉仕、献金、礼拝の出席率が足りないのではないか』『救いを失うのではないか』『神の御前に立つまでは、天の御国にはいれないのではないか』と心配する必要はありません。
失うのは御国での報酬だけなのですから、主にある平安のうちにあって、霊的成長し、神にとって有用な御霊の実を結ぶ者としての信仰の歩みを送れますように。