神とレビ的祭儀制度の繋ぎ役は『聖霊』です。
しかし、律法の時代におけるレビ的祭儀制度の役割には、限界があったことを聖霊が三つ教えています。
ヘブル9:8ーこれによって聖霊は次のことを示しておられます。すなわち、前の幕屋が存続しているかぎり、まことの聖所への道は、まだ明らかにされていないということです。
① 『前の幕屋』におけるレビ的祭儀制度の大祭司による方法では限界があり、まことの聖所におられる神に近づく道は備えられなかったのです。
古い戒めが存在している限り、これは事実でした。
外庭は、ユダヤ人と異邦人を分離し、
内庭は、レビ人とレビ人以外を分離し、
至聖所は、大祭司と祭司たちとを分離していました。
ヘブル9:9ーこの幕屋はその当時のための比喩です。それに従って、ささげ物といけにえとがささげられますが、それらは礼拝する者の良心を完全にすることはできません。
②古いシステムは当時のための比喩であり、単に当時の人々に対する具体例として使われる歴史的『型』でした。
レビ的祭儀制度の弱点…礼拝する者の良心を完全にすることができなかったこと。
祭司がいけにえとささげ物をささげた後に立ち去ると、罪が覆われたということは知っていましたが、罪の意識もともに去ってしまいました。これが当時の『比喩』でした。
(“比喩” というギリシャ語は、英語の “喩え(話)” の原型。)『幕屋』は、進行中の “喩え” だったということです。
ヘブル9:10ーそれらは、ただ食物と飲み物と種々の洗いに関するもので、新しい秩序の立てられる時まで課せられた、からだに関する規定にすぎないからです。
③レビ的祭儀制度の弱点の基盤は、『食物と飲み物と洗いに関するもの』という肉体的なものの上にあるということです。
*からだに関する規定…外面的なものだけだったということが、古いシステムが『一時的』であった理由。
では何故、神は『古いシステム』を制定されたのでしょう?
ーその目的は、贖罪の時/新しい秩序が立てられる時までの『一時的な』、目に見える『型』を提供することにありました。
神は『幕屋』という目に見える『型』をもって、そのことを教えられたのです。
そういう意味で、古いシステムは『一時的なこと』を目的とし、著者はここで、この古いシステムの『一時的な特徴』である不十分さ/不足を強調しています。
それは良心の完全な浄化、完全をもたらす『新しい秩序』の時まで、一時的に制定されたのです。
*新しい秩序…ギリシャ語:語源は『まっすぐにする』『正す』『修正する』。
それは、自然の状態に再び戻すことであり、問題を満足な状態に戻すことを意味。
創世記1:26~27ー神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」
神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして創造し、男と女とに彼らを創造された。
それは、神が造られた人間本来の状態である『神との関係を正しいものにする』ということです。
『前の幕屋』は、そのためのもではありませんでした。したがって、最終的な『いけにえ』が用意されるまでの一時的に制定されたものでした。
『最終的ないけにえ』は、新しい契約に基づいた『新しい秩序』の設立とともに来ました。それは、天から来られた『神の小羊』ーより優れたいけにえーです。
天の聖所にささげられるいけにえはオリジナルなものであり、地上の幕屋のものはその『コピー』にすぎません。これが、イエスがアロンより優れている理由です。
神に近づくには、地上の『幕屋』は不完全なものであり、不十分なものであったため、『一時的なもの』ということを前提としていました。
より優れた天の幕屋におけるメシアの第祭司としての務めは、無制限に神に近づくことができ(へブル9:1~10)、十分ないけにえを提供する(へブル9:11~10:18)ものです。
古いシステムであるモーセ契約の『律法による規定』は、神の選びの民であるユダヤ人に与えられたものであり、エペソ書によれば、私たち異邦人ははじめから部外者でした。
エペソ2:11~12ーですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、 そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。
しかし今、アロンよりも優れた、メルキゼデクの位に等しい大祭司/キリストを信じる信仰により、神に近いものとされたのですから、元々関係のない古いシステムの律法の教えに縛られるのではなく、大胆に神の御前に出ていきましょう。
そのために、神は御霊を私たちに与えてくださったのですから…。
ヨハネ19:30ーイエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。
*完了した…テテレスタイ:『借金は返された』の意。
モーセの律法では果たすことのできなかった罪のきよめを、御子の十字架の血の代価をもって成し遂げでくださいました。
この十字架により、モーセの律法は効力を失いました。
そして三日後、復活のイエスは、死の力を無効にされたのです。
1コリント15:55~56ー「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。
死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」
死のとげは罪であり、罪の力は律法です。
福音書のイエスのみことばは、この十字架の前か後かで『時代』は変わっている、ということを覚えておく必要があります。
この区別がつけば、聖書はもっとよくわかるようになります。イエスは生前、613ある律法を、すべて成就された唯一の『人間』であるからこそ、律法の時代をも「完了した」お方なのです。
十字架前なら『律法の時代』
十字架後なら『教会時代』
十字架〜ペンテコステまでは、旧約から新約への移行期です。