サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

ヘブル人への手紙 9:13~14 〜メシアの贖いの死の結果〜

『神の小羊』としてのメシアの贖いの死は、三つの結果をもたらしました。

  

①きよめ 旧約聖書の背景は、レビ記16章民数記19章

ヘブル9:13ーもし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、

 

13節は、著者が11~12節で述べた『贖いがなぜ必要なのか』について教えるための論理的接続。

 

旧約聖書での『贖い』は、外側のきよめ=肉体的なきよめに限られていました。 

動物の血はー雄牛の血は祭司たちを儀式的にきよめ、やぎの血は人々を儀式的にきよめをもたらすーだけでした。

 

*赤い雌牛の灰…死体に触れた者をきよめるためと、他の要素(民数記19:1~22)のために用いられました。

 

民数記19:1~2ー主はモーセとアロンに告げて仰せられた。 「主が命じて仰せられたおしえの定めは、こうである。イスラエル人に言い、傷がなく、まだくびきの置かれたことのない、完全な赤い雌牛をあなたのところに引いて来させよ。

 

民数記19:11ーどのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。

 

民数記19:13ーすべて死んだ人の遺体に触れ、罪の身をきよめない者はだれでも、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。その者は、汚れをきよめる水が振りかけられていないので、汚れており、その汚れがなお、その者にあるからである。

 

民数記19:14~18ー人が天幕の中で死んだ場合のおしえは次のとおりである。その天幕に入る者と、その天幕の中にいる者はみな、七日間、汚れる。

ふたをしていない口のあいた器もみな、汚れる。

また、野外で、剣で刺し殺された者や死人や、人の骨や、墓に触れる者はみな、七日間、汚れる。

この汚れた者のためには、罪のきよめのために焼いた灰を取り、器に入れて、それに湧き水を加える。

身のきよい人がヒソプを取ってこの水に浸し、それを、天幕と、すべての器と、そこにいた者と、また骨や、刺し殺された者や、死人や、墓に触れた者との上に振りかける。

 

*水を振りかける…汚れたもの(死体に触れた者)をきよめるため。

民数記19:9ー身のきよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置き、イスラエル人の会衆のため、汚れをきよめる水を作るために、それを保存しておく。これは罪のきよめのためである。

 

これら雄牛とやぎの血、赤い雌牛の灰、それにきよめの働きをする水をそそぎかけることは、肉体を外側からきよめるだけでした。

 

しかしエスの『贖い』は、霊的領域に効力があり、内側のきよめをもたらします。

 

 

ヘブル9:14ーまして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

 

14節では、イエスの血においてはそうではないことを述べています。

著者は、ラビ的論理ー小から大への議論ーの例を用いて対比させ、独自の論理を述べていますが、このようなヘブル的背景を知らない異邦人には、なかなか理解できないのもまた 事実です。

 

『動物の血がこれほどのことができるのだとしたら、メシアの血はどれほどのことができるのだろうか…?』

『動物の血が、地上の儀式を通して肉体の汚れをきよめるのなら、メシアの血はどれほどのものをきよめることができるのだろうか…?』というものです。

 

メシアであるイエスのきよめは、天にまで届くもの!

メシアであるイエスのきよめは、霊的なもの!

 

エスのきよめは、外側の肉体的な汚れだけでなく、内側の『良心のきよめ』にまで届くものです。

エスの血は、モーセの律法では成し遂げられなかったことを、まさに成し遂げたのです:それこそが『良心のきよめ』なのです。

 

動物の血は呪いのもとにありますが、メシアの血は罪によって汚されてはいませんでした。これらが、イエスの血がより優れたいけにえである理由です。

 

*とこしえの御霊によって…イエスがご自身の血をおささげになったのは、以下の四つの点で見られます。

 

とこしえの『…幾つかの英語の翻訳では “Spirit”(霊)という言葉を『聖霊』をほのめかして大文字にしていますが、ここでは、人としてのイエスの『霊』として理解し、イエスはご自分のいのちを喜んで差し出されたと理解する方が好ましいです。

 

①イエスの場合、動物のように強いられたのではなく、自らすすんでささげられたいけにえの血でした。

ヨハネ10:11ーわたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

 

ヨハネ10:18ーだれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」

 

②イエスのささげ物は合理的でしたが、動物の場合は理由なしにはささげられませんでした。

 

③動物は自発的に死んだのではなく、死ぬことを強制されました。

しかし、イエスは自らすすんでささげられました。

 

④イエスの贖いの死は、単なるパフォーマンスではなく、道徳的な選択でした。

 

エスの贖いの死は、罪の汚れを取り除くだけでなく、汚れの源までをも取り除きました。従って、信じる人の良心がきよめられました。

 

13~14節の著者の議論は、以下の五つのポイントにまとめられます。

⑴ きよめの方法は、イエスの血であること。

 

⑵ きよめの源は、イエスの犠牲的な自らの死。

 

⑶ 道徳的な罪のない、イエスのしみや傷のない神の小羊としてのいけにえであること。

これは、ペテロも同じことを述べています。

1ペテロ1:19ー傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。

 

⑷ 目的は、レビ的制度のわざである『死んだ行ない』から離れさせ、良心をきよめること。

神に関する限り、レビ的祭儀制度は終了したので、現在 律法は『死んだ行ない』となるという意味。

 

⑸ イエスの十字架の死の目的は、生きておられる神に仕える信者のため

それは信者たちが、レビ的祭儀制度の死んだ行ないに逆戻りするためではなく、生ける神に仕えるようになるため。

 

気をつけなくてはいけないのは、現代のクリスチャンの中にも当時のユダヤ人信者と同じように『死んだ行ない』に帰って、救いを完成しようとしている人々がいて、そのような教えを流していることです。

それは、神の小羊としての御子の十字架での贖いの死を『不十分』とすることになります。信じた私たちの肉の力で救いが完成するのではなく、既に完成されたキリストのもとに止まることが大事です。

 

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エペソ2:8ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 

 

このみことばを無駄にすることがありませんように。。。

キリストの福音を信じた者は、信仰により救われているのです。