『神の小羊』としてのメシアの贖いの死は、三つの結果をもたらしました。
ヘブル9:13ーもし、やぎと雄牛の血、また雌牛の灰を汚れた人々に注ぎかけると、それが聖めの働きをして肉体をきよいものにするとすれば、
13節は、著者が11~12節で述べた『贖いがなぜ必要なのか』について教えるための論理的接続。
旧約聖書での『贖い』は、外側のきよめ=肉体的なきよめに限られていました。
動物の血はー雄牛の血は祭司たちを儀式的にきよめ、やぎの血は人々を儀式的にきよめをもたらすーだけでした。
*赤い雌牛の灰…死体に触れた者をきよめるためと、他の要素(民数記19:1~22)のために用いられました。
民数記19:1~2ー主はモーセとアロンに告げて仰せられた。 「主が命じて仰せられたおしえの定めは、こうである。イスラエル人に言い、傷がなく、まだくびきの置かれたことのない、完全な赤い雌牛をあなたのところに引いて来させよ。
民数記19:11ーどのような人の死体にでも触れる者は、七日間、汚れる。
民数記19:13ーすべて死んだ人の遺体に触れ、罪の身をきよめない者はだれでも、主の幕屋を汚す。その者はイスラエルから断ち切られる。その者は、汚れをきよめる水が振りかけられていないので、汚れており、その汚れがなお、その者にあるからである。
民数記19:14~18ー人が天幕の中で死んだ場合のおしえは次のとおりである。その天幕に入る者と、その天幕の中にいる者はみな、七日間、汚れる。
ふたをしていない口のあいた器もみな、汚れる。
また、野外で、剣で刺し殺された者や死人や、人の骨や、墓に触れる者はみな、七日間、汚れる。
この汚れた者のためには、罪のきよめのために焼いた灰を取り、器に入れて、それに湧き水を加える。
身のきよい人がヒソプを取ってこの水に浸し、それを、天幕と、すべての器と、そこにいた者と、また骨や、刺し殺された者や、死人や、墓に触れた者との上に振りかける。
*水を振りかける…汚れたもの(死体に触れた者)をきよめるため。
民数記19:9ー身のきよい人がその雌牛の灰を集め、宿営の外のきよい所に置き、イスラエル人の会衆のため、汚れをきよめる水を作るために、それを保存しておく。これは罪のきよめのためである。
これら雄牛とやぎの血、赤い雌牛の灰、それにきよめの働きをする水をそそぎかけることは、肉体を外側からきよめるだけでした。
しかしイエスの『贖い』は、霊的領域に効力があり、内側のきよめをもたらします。
ヘブル9:14ーまして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。
14節では、イエスの血においてはそうではないことを述べています。
著者は、ラビ的論理ー小から大への議論ーの例を用いて対比させ、独自の論理を述べていますが、このようなヘブル的背景を知らない異邦人には、なかなか理解できないのもまた 事実です。
『動物の血がこれほどのことができるのだとしたら、メシアの血はどれほどのことができるのだろうか…?』
『動物の血が、地上の儀式を通して肉体の汚れをきよめるのなら、メシアの血はどれほどのものをきよめることができるのだろうか…?』というものです。
メシアであるイエスのきよめは、天にまで届くもの!
メシアであるイエスのきよめは、霊的なもの!
イエスのきよめは、外側の肉体的な汚れだけでなく、内側の『良心のきよめ』にまで届くものです。
イエスの血は、モーセの律法では成し遂げられなかったことを、まさに成し遂げたのです:それこそが『良心のきよめ』なのです。
動物の血は呪いのもとにありますが、メシアの血は罪によって汚されてはいませんでした。これらが、イエスの血がより優れたいけにえである理由です。
*とこしえの御霊によって…イエスがご自身の血をおささげになったのは、以下の四つの点で見られます。
*とこしえの『霊』…幾つかの英語の翻訳では “Spirit”(霊)という言葉を『聖霊』をほのめかして大文字にしていますが、ここでは、人としてのイエスの『霊』として理解し、イエスはご自分のいのちを喜んで差し出された、と理解する方が好ましいです。
①イエスの場合、動物のように強いられたのではなく、自らすすんでささげられたいけにえの血でした。
ヨハネ10:11ーわたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
ヨハネ10:18ーだれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、それをもう一度得る権威があります。わたしはこの命令をわたしの父から受けたのです。」
②イエスのささげ物は合理的でしたが、動物の場合は理由なしにはささげられませんでした。
③動物は自発的に死んだのではなく、死ぬことを強制されました。
しかし、イエスは自らすすんでささげられました。
④イエスの贖いの死は、単なるパフォーマンスではなく、道徳的な選択でした。
イエスの贖いの死は、罪の汚れを取り除くだけでなく、汚れの源までをも取り除きました。従って、信じる人の良心がきよめられました。
13~14節の著者の議論は、以下の五つのポイントにまとめられます。
⑴ きよめの方法は、イエスの血であること。
⑵ きよめの源は、イエスの犠牲的な自らの死。
⑶ 道徳的な罪のない、イエスのしみや傷のない神の小羊としてのいけにえであること。
これは、ペテロも同じことを述べています。
1ペテロ1:19ー傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。
⑷ 目的は、レビ的制度のわざである『死んだ行ない』から離れさせ、良心をきよめること。
神に関する限り、レビ的祭儀制度は終了したので、現在 律法は『死んだ行ない』となるという意味。
⑸ イエスの十字架の死の目的は、生きておられる神に仕える信者のため。
それは信者たちが、レビ的祭儀制度の死んだ行ないに逆戻りするためではなく、生ける神に仕えるようになるため。
気をつけなくてはいけないのは、現代のクリスチャンの中にも当時のユダヤ人信者と同じように『死んだ行ない』に帰って、救いを完成しようとしている人々がいて、そのような教えを流していることです。
それは、神の小羊としての御子の十字架での贖いの死を『不十分』とすることになります。信じた私たちの肉の力で救いが完成するのではなく、既に完成されたキリストのもとに止まることが大事です。
エペソ2:8ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
このみことばを無駄にすることがありませんように。。。
キリストの福音を信じた者は、信仰により救われているのです。