マルコ10:46ー彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。
*エリコ…エルサレムから約24km離れた町で、当時祭司やレビ人たちが4万人ほど住んでいました。
旧約聖書では、キリストの系図にも載っている遊女ラハブの故郷。ヨシュア記2章
イエスが悪魔の誘惑にあわれた時、連れて行かれた所とも言われています。マタイ4:8~9
*バルテマイ…アラム語:『バル』は『〜の子』の意。
マタイ20:29~34によると、道ばたにはふたりの盲人が座っていた、とあります。
マタイ20:30ーすると、道ばたにすわっていたふたりの盲人が、イエスが通られると聞いて、叫んで言った。「主よ。私たちをあわれんでください。ダビデの子よ。」
*物ごい…ユダヤ教の信仰の三本柱には『祈り・施し・断食』があり、障害者たちは人々の『施し』によって命を繋いでいました。
マルコ10:47ーところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた。
目が見えないバルテマイにとって、聴覚は研ぎ澄まされていたことでしょう。
イエスのうわさは既に広まっていましたから、イエスになら自分の目も見えるようにしてもらえるのではいかと考えていたかもしれません。
そのイエスが今、現実に自分のすぐ近くにおられる!と聞くと、大声で叫び始めました。この時のバルテマイは、もう無我夢中だったのではないかと思います。
*ダビデの子…メシアの称号
バルテマイは、イエスを自分の現状からの『メシア(救い主)』だと信じていたのです。
マルコ10:48ーそこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた。
*彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめた… なぜ、人々はバルテマイを黙らせようとしたのでしょう?
『盲人』であるというだけでも社会的には『弱者』でした。バルテマイの希望、願いは、健常者たちによって消されそうになっていました。
*ますます〜叫び立てた…バルテマイにとって、イエスとの出会いは一生で一度きりかもしれないことでした。彼は、この機会を逃すまいとして『ますます〜叫びたてた』のです。他の人々にどう思われようと、イエスの憐れみを求めたのです。
私たちは、バルテマイのように他の人の目を気にすることなく、イエスの憐れみを必至に求めているでしょうか?
逆に、他の人の目を恐れて、イエスを求めることを自粛したりしていないでしょうか?
マルコ10:49ーすると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。
*イエスは立ち止まって…バルテマイの心からの叫びが、イエスに届きました。
*「あの人を呼んで来なさい」…なぜイエスの方から盲人バルテマイの方へ行かれなかったのでしょう?
盲人にとって『歩く』という行為は、どれほど大変なことかを想像してみてください。
群衆は、イエスの命令に従い、盲人を呼びました。
この彼らの『従う』という行為の結果、群衆は何を見ることになったでしょう?
*「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」…つい先ほどまでバルテマイをたしなめようとしていた人々から、この言葉を聞いた時のバルテマイの心はどんなだったでしょうか?
彼の安堵と喜び、少しばかりの緊張感の漂う表情が、容易に想像つくと思います。
マルコ10:50ーすると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。
*上着を脱ぎ捨て… なぜ、バルテマイは『上着を脱ぎ捨てた』のでしょう?
当時『盲人である』という事実は、罪の結果だと考えられていました。
ヨハネ9:2ー弟子たちは彼についてイエスに質問して言った。「先生。彼が盲人に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか。」
人々から『罪人』扱いされ、社会的弱者、物ごいによって人々の『施し』に頼って生きていた古い生活から、キリストに出会い、その憐れみによって新しく生きることができるようになるためには、古い生き方との『決別』が必要でした。
コロサイ3:9~10ー互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、
新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちのい似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。
*すぐ立ち上がって、イエスのところに来た…「あなたをお呼びになっている」というイエスの召しに対するバルテマイの応答は『すぐに』でした。
私たちはどうでしょう?
イエスの召しや命令に『すぐに』従っているでしょうか?
従うことなく、祝福は来ないのです。神からの祝福を求めるのなら、まず、イエスが私たちに何を求め、何を命じられておられるのかをみことばから『知る』ことから始めなくてはなりません。みことば無しに神の御心を知ることはできないからです。
みことばを読まずにどんなに熱心に祈ったとしても、それは『自分が良いと思う方法で』神に近づこうとしているに過ぎません。みことばによって私たちの祈りは矯正され、御心に沿う祈りがささげられるように変えられていきます。
Ⅱテモテ3:16~17ー聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
マルコ10:51ーそこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」
*「わたしに何をしてほしいのか。」…イエスは神の御子ですから、バルテマイの心の願いを知っておられたはずなのに、何故このような質問をされたのでしょう?
このように質問することによって、バルテマイの願いを確認することになりました。
私たちは、イエスに同じように質問されたら、はっきりとした答えを持っているでしょうか?
*「先生。目が見えるようになることです。」…バルテマイは、心の願いからブレることなく、はっきりと答えました。
マルコ10:52ーするとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。
*「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」…イエスは、バルテマイに『見えるようになるように』とは一言も言ってないことにお気づきでしょうか?
*あなたに信仰が…バルテマイが何を『信じていたか』にかかっています。
本当に口で答えたとおりの信仰があるのか…?
はたまた、心には何か別な思いがあるのか…?
問われるているのは、心からの信仰なのです。
ローマ10:9~10ーなぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
結果、バルテマイは『すぐさま』見えるようになりました。もう『盲人』として、人々の施しに頼る生活から解放されたのです。
*イエスの行かれるところについて行った…イエスはバルテマイに「さあ、行きなさい」と言われました。それは、目が見えるようになった彼にとって、自由に『行きたい所に行ける』ようになったことを意味します。
バルテマイは古い上着を脱ぎ、新しい人生のスタートをキリストの『義の衣』を着て、イエスの行かれる所について行きました。
バルテマイにとって、イエスが行かれる所が『行きたい所』となったのです。
私たちは『義の衣』を着た後、ちゃんとイエスと行動を共にしているでしょうか?
新しい上着を着たまま、自分勝手な道を歩んではいないでしょうか?
イエスと共に歩むという信仰生活は、日々みことばによって生きることです。
バルテマイのように、キリストと共に歩み出せますようにー祈ー。