ルカの福音書には多くの『譬え話』があります。特に『ベルゼブル論争』でイスラエルの民がイエスのメシア性を拒否して以降、たとえを用いずに話すことはありませんでした。
マタイ13:13ーわたしが彼らにたとえで話すのは、彼らは見てはいるが見ず、聞いてはいるが聞かず、また、悟ることもしないからです。
マタイ13:34ーイエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。
あまりにも有名な譬え話だったため、ついつい後回しにしてきてさしまった『良きサマリヤ人』…💦
『隣人となる』信仰とは、どういうことなのかを教えている箇所なので、やっぱり記しておいた方がいいよね !? 😅
ルカ10:25ーすると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
*律法の専門家…律法学者。
ユダヤ人たちは、世界中のユダヤ人がたった一日でも613あるモーセの律法を全員で守ることができたら、メシアが来られると信じているため、律法を守るために律法を研究し、どうしたら守れるかと『細則』を定めていました。それら『細則』を集めたものが『ミシュナー』です。
しかしイエスは彼らが作った細則を廃止し、神が与えられた『モーセの律法』の本来の意味を人々に教え、守りきれない人々に代わり、自ら613すべてを成就してくださいました。
*何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか…この律法学者は『行いによる義』を求めていたことがわかります。
ルカ10:26ーイエスは言われた。「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
*律法には、何と書いてありますか…イエスが言われる『律法』とは、神がモーセを通して与えられた『(記述)律法』のことであって、律法学者やパリサイ人たち『人間による口伝律法』のことではありません。
*どう読んでいますか…みことばの『読み方』は大事ですね。
『あなたがた』も『私たち』もすべて聖書を読んでいる『自分』に当てはまる前に、書かれた当時の誰が誰に当てて、どのような背景の中で書かれたのか文脈をくみ取る必要があります。
ルカ10:27ーすると彼は答えて言った。「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』、また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』とあります。」
律法学者の答えは、旧約聖書に書かれた『律法』からの引用です。
申命記6:5ー心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
レビ記 19:18ー復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。
あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。
ルカ10:28ーイエスは言われた。「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
*それを実行しなさい…この『記述律法』をどう理解するかを問われているのです。
ルカ10:29ーしかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
*自分の正しさを示そうとして…自己義認。 神の御前に『自己義認』は、何の役にもたちません。『神の義』に入れらているか、否かが重要です。それは『信仰義認』です。
*私の隣人とはだれのことですか…「どう読んでいますか」と、イエスが問われる点ですね。
ルカ10:30ーイエスは答えて言われた。
「ある人が、エルサレムからエリコへ下る道で、強盗に襲われた。強盗どもは、その人の着物をはぎ取り、なぐりつけ、半殺しにして逃げて行った。
ここから『良きサマリヤ人の譬え』が始まります。
BC721年ー北イスラエル王国はアッシリヤに、
BC586年ー南ユダ王国はバビロンによって滅ぼされました。
北イスラエル王国の多くの人々を捕囚として連れ去ったアッシリヤは、バビロンや近隣のアラブ諸国から人々を移住させ、残留イスラエル人との雑婚させ『ユダヤ人としての民族性』をなし崩しにする政策をとりました。
この雑婚政策により誕生したのが『サマリヤ人』です。
彼らはモーセ五書(トーラー)に対抗するように『サマリヤ五書』を持ち、エルサレムの神殿の代わりに『ゲリジム山』を定め、高き所を築いていけにえを捧げていました。Ⅱ列王記17:28~41 北イスラエルから南ユダのエルサレムに向かうことは禁じられていましたが、南ユダからガリラヤへ向かうことは可能でした。
このような歴史的背景で、バビロン捕囚から民族性を保持したまま帰還した南ユダ王国の人々は、サマリア人を蔑み、彼らとの交際を避けていました。
*エリコ…エルサレムの北東の町。
当時、神殿で仕える人たちは、エルサレムに郊外にその多くが住んでいました。バプテスマのヨハネの父ザカリヤは『山地にあるユダの山地』に、エリコには祭司階級の半数が住んでいました。
ルカ1:39ーそのころ、マリヤは立って、山地にあるユダの町に急いだ。
(バプテスマのヨハネの母エリザベツに会うため)
この譬えの中の『ある人』は、南ユダのエルサレムから、北イスラエルの町エリコに向かう途中で、強盗に襲われました。所持品を奪うために殴りつけ、半殺しにして、着物を剥ぎ取ったのです。
ルカ10:31ーたまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
*祭司のひとり…エルサレムの神殿での務めの期間が終わり、自宅に帰る祭司だったのかもしれません。
祭司は24組に分けられ、各組が交代制で年に一度、半月程神殿で仕えていました。
1歴代誌24:1~19
*彼を見ると〜通り過ぎて行った…半殺しの目にあった『この人』を見て見ぬふりをしました。
*反対側を通り過ぎて行った…律法に従って、神と人との間に立ってとりなす務めをする祭司が、『隣人愛』を示すことなく、関わらないように道の反対側を通って行ったのです。
ルカ10:32ー同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。
*レビ人…イスラエルの十二部族の『レビ族』に属する者。祭司の家系。ここでは、ユダヤ教の聖職者の代表として譬えられています。
律法と説き、模範を示すべき『祭司』と『レビ人』が、律法に従わない『例』として二人の証人の役割となっています。
イエスは譬え話をする中でも、律法に従って話されていることがわかります。
申命記19:15ーどんな咎でも、どんな罪でも、すべて人が犯した罪は、ひとりの証人によっては立証されない。ふたりの証人の証言、または三人の証人の証言によって、そのことは立証されなければならない。
ルカ10:33ーところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、
*サマリヤ人…混血になったという上記の理由により、南ユダのユダヤ人から見下されていました。このサマリヤ人も祭司やレビ人と同じく『旅の途中』でした。目的地も用事もあっての『旅』です。
*彼を見てかわいそうに思い…その 『サマリヤ人』が、モーセの律法の『隣人愛』を示しています。
ルカ10:34ー近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。
*オリーブ油とぶどう酒…当時、医薬品として用いられていました。
ルカ10:35ー次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』
*デナリ二つ…当時、労働者の日給が1デナリ。つまり、二日分の日給に相当する額。
*介抱してあげてください…このサマリヤ人は、自分の用事のために道を急いでいたのでしょう。その時に出来る限りのことをして、介抱を宿屋の主人に頼んで出かけました。
*もっと費用がかかったら、私が帰りに払います…強盗に遭った人のことを気にかけていることがわかる言葉です。
ルカ10:36ーこの三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
*隣人になった…『隣人になる』とは、他者に対し、愛を示し、できることをするという行動が伴います。
ルカ10:37ー彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
*その人にあわれみをかけてやった人です…この律法学者は、『隣人になる』ということを頭ではわかっていました。 行動が伴っていなかったのです。
ヤコブ2:14ー私の兄弟たち。だれかが自分には信仰があると言っても、その人に行ないがないなら、何の役に立ちましょう。そのような信仰がその人を救うことができるでしょうか。
ヤコブ2:17ーそれと同じように、信仰ももし行ないがなかったなら、それだけでは、死んだものです。
救いは、神の恵みと信仰によりますがーエペソ2:8~9ー
信仰による行ないは、その人の信仰が本物であることを証明します。
行ないの伴わない信仰は、その信仰を証明するものが何もないことになります。
『良きサマリヤ人の譬え』から霊的教訓として、行ないの伴う隣人愛を信仰によって示していけますように。
ヤコブ1:22ーまた、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。