聖書には、キリストの公生涯最初の悪魔の誘惑にあう前の40日間の断食と関連させた『受難節』という記述はありませんが、エルサレム入城から公生涯最後の一週間である『受難週』が始まります。
マタイ21:18ー翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。
*翌朝…エルサレム入城の次の日。受難週の月曜日。
*都に帰る…エルサレムの都。ベタニヤのラザロ、マルタ、マリヤたちの家から向かわれましたが、エルサレムには神の神殿があるため、イエスは『都に帰る途中』と記されているのでしょう?
イエスさまは、エルサレムの神殿を『自分の父の家』だとルカは記しています。
ルカ2:49ーするとイエスは両親に言われた。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」
*空腹を覚えられた…メシアの人としての性質。私たちと同じ『肉体』を持っておられたため、空腹を覚えられました。
マタイ21:19ー道ばたにいちじくの木が見えたので、近づいて行かれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」と言われた。すると、たちまちいちじくの木は枯れた。
*いちじくの木…普通は、葉が生い茂ると同時に実がなっているものですが、このいちじくの木には葉ばかりで、実がありませんでした。
象徴的な意味では、イエスの初臨〜現代の神の契約の民『ユダヤ人』を指します。
本来ならば、彼らがまずイエスが『メシア』であることを認め、『御霊の実』を結ぶべき人々でした。
ちなみに、『ぶどう畑・木』は、旧約時代のユダヤ人、
『オリーブの木』は、将来の患難時代のユダヤ人を指すこともあります。
*「おまえの実は、もういつまでも、ならないように」…イエスのメシアとしてのしるしを『悪霊のかしら、ベルゼブルのわざ』としてイエスを退けた、初臨当時のユダヤ人たちに対することば。
マタイ21:20ー弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」
マルコの福音書によると、枯れたいちじくの木の説明は『翌日』になっています。
マルコ11:20~21ー朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」
イエスのメシア性を拒んだ『この世代』に対する裁きは、十字架から40年後のAD70年にローマ軍により、神殿とエルサレム崩壊、世界離散という形で起こりました。
マタイ21:21ーイエスは答えて言われた。「まことに、あなたがたに告げます。もし、あなたがたが、信仰を持ち、疑うことがなければ、いちじくの木になされたようなことができるだけでなく、たとい、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言っても、そのとおりになります。
*信仰を持ち…キリストの福音を信じること。
1コリント15:3~4ー私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
マタイ21:22ーあなたがたが信じて祈り求めるものなら、何でも与えられます。」
*信じて祈り求める…神の御心に叶った信仰による祈り。
ヨハネ14:11~14ーわたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。
キリストを信じる者は、神が何を望んでおられるのかを考えるようになり、祈り続けていく間に『神の栄光をあらわす』という目的に沿った祈りをするように整えられていくのです。
神のご計画に沿った祈りが『必ず聞かれる祈り』です。