最近、SNSでさまざまな異なる教えが広がっていることに危機感を覚えるようになりました。
そのような聖書の教えとは異なることを教えている所に限って「牧師に従いなさい」と繰り返し言われているようです。
ローマ13:1~2ー人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。
したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。
と述べています。
初代教会時代の使徒たちは、当時の宗教的権威者である『大祭司』の命令に対し、「人に従うより、神に従うべきです。」ときっぱりと答えています。
使徒5:27~29ー彼らが使徒たちを連れて来て議会の中に立たせると、大祭司は使徒たちを問いただして、
言った。「あの名によって教えてはならないときびしく命じておいたのに、何ということだ。エルサレム中にあなたがたの教えを広めてしまい、そのうえ、あの人の血の責任をわれわれに負わせようとしているではないか。」
ペテロをはじめ使徒たちは答えて言った。「人に従うより、神に従うべきです。
*あの名…イエス・キリストの御名
私たちが従うべき権威とは、聖書のみことばに沿った権威であるべきであり、その教えが本当に聖書的かどうか確認することを怠ると非常に危険です。
パウロもまた次のようにも記しています。
Ⅱテサロニケ2:2~3ー霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。
だれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。
3節には、終末時代に起こる順序が記されています。
①背教…キリスト教会の中に起こるもの。聖書の真理から逸脱した教えに惑わされること。
②不法の人…反キリストのこと。教会が背教した後に、反キリストが現れます。
③主の日…反キリストとイスラエル(国家)の契約締結時から始まる七年間の患難時代のことであり、日曜日を指すのではありません。聖書は、旧約・新約一貫して『患難時代』を指しています。
もしも『主の日』が日曜日のことであるのなら、次のみことばをどのように理解したらよいのでしょうか?
イザヤ13:6ー泣きわめけ。主の日は近い。
全能者から破壊が来る。
イザヤ13:9ー見よ。主の日が来る。残酷な日だ。
憤りと燃える怒りをもって、
地を荒れすたらせ、
罪人たちをそこから根絶やしにする。
1コリント5:5ーこのような者をサタンに引き渡したのです。それは彼の肉が滅ぼされるためですが、それによって彼の霊が主の日に救われるためです。
1テサロニケ5:2ー主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
Ⅱペテロ3:10ーしかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象はくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。
これらの聖句はすべて『七年間の患難時代』を指しています。
今まで主の日を『日曜日のこと』して使ってこられた方も多いことでしょう。
しかし、聖書は『日曜日のことではなく、患難時代を指すことば』として用いていることを確認したのなら、ここからは決断が求められるのです。
聖書の真意を否定し、今までの習慣に従うのか…?
それとも、悔い改めて(考え方を変えて)、今までの習慣を捨て、キリストのことばである聖書に従って用いるのか…?
*悔い改めとは、反省のことではなく、自分の考え方をみことばに合わせていくことです。
パウロは『だれにも、どのようにもだまされないようにしなさい』と警告し、ペテロは『にせ教師に気をつけるように』と注意を呼びかけ、ユダは『そのような人々が現れたこと』を告げています。
Ⅱテサロニケ2:3ーだれにも、どのようにも、だまされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現れなければ、主の日は来ないからです。
Ⅱペテロ2:1ーしかし、イスラエルの中には、にせ預言者も出ました。同じように、あなたがたの中にも、にせ教師が現れるようになります。彼らは、滅びをもたらす異端をひそかに持ち込み、自分たちを買い取ってくださった主を否定するようなことさえして、自分たちの身にすみやかな滅びを招いています。
ユダ4ーというのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このようなさばきに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たち唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。
三位一体の神を否定したり、キリストではなく『教祖』の教えを守るように教えたりするのなら、多くのクリスチャンは『異端』として認識することができるでしょう。
しかし、最近はサタンも巧妙になり、ほんの少しだけみことばの解釈を変え、ほんの少しだけキリストの福音を変えて、神を求める人々を惑わすようになってきています。
みなさんは誰かに伝道するとき、何を伝えていますか?
福音の三要素と言われる『キリストの十字架・葬り・復活』を伝えているでしょうか?
それとも「キリストを信じれば救われます」とか「キリストはあなたのために十字架で死なれたのです。それほどあなたを愛しておられるのですよ」と、耳に心地よく、受け入れられやすい内容にして伝えていますか?
ある人々は、「神は愛だから、神のさばきも地獄もありません。人間はみな救われるのです」と説きます。
その場合の『救い』とは、一体何からの『救い』なのでしょう?
神のさばきも地獄もないとしたら、この世の苦難からの救いですか?
キリストを信じてもなお、試練も苦難もあるのはどう説明するのでしょう?
キリストは、次のように教えられました。
マタイ7:13~15ー狭い門から入りなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこから入って行く者が多いのです。
命に至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。
にせ預言者たちに気をつけなさい。彼らは羊のなりをしてやって来るが、うちは貪欲な狼です。
ルカ13:24ー「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。
このみことばから本当に『すべての人が救われる』と言えるでしょうか?
むしろ、『命に至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれであり、入ろうとしても、入れなくなる人が多い』と教えられています。
私たちは、このキリストの教えを真剣に受け止める必要があります。
これが聖書の真理だからです。
ローマ10:13ー「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
確かに、異邦人の使徒となったパウロはこのように宣べていますが、決して「イエスさま〜」と言うことが救いをもたらすのではないことは、文脈を読めば明らかです。
ローマ10:9~10ーなぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
パウロはどうしたら救われるのかについてもきちんと明記しています。
⑴ 救いは行いによるのではなく、恵みと信仰によってである。
エペソ2:8~9ーあなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
⑵ パウロが宣べ伝えた福音によって救われる。
1コリント15:2(新共同訳)ーどんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう。
⑶ パウロが宣べ伝えたのは、福音の三要素。
1コリント15:3~4ー私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。
①キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
②また、葬られたこと、
③また、聖書に従って三日目によみがえられたこと
私たちが日曜日毎の礼拝で確認する使徒信条も同じ内容を告白しています。
では、もし『葬られ』が抜けたり、『復活』が抜けたりした福音を告げたり、信じたりしている場合はどうでしょうか?
昨今、多くの教会での伝道で『福音の二要素』、ひどい所では『福音の一要素』しか語られていません。中には、礼拝の出席期間によって「もうそろそろ洗礼を受けられたらいかがですか?」と勧められています。
パウロが最もたいせつなことととして伝えた福音こそが、私たち罪人を滅びからいのちに至らせる救いを与えるものです。もしも、パウロが宣べ伝えた福音と異なることを伝えているとしたら、聖書は何と教えているでしょうか?
パウロは『信じたこと自体が、無駄になる』と言った意味とは…?
⑷ ほかの福音を宣べ伝える者はのろわれるべき。
ガラテヤ1:6~9ー私は、キリストの恵みをもってあなたがたを召してくださったその方を、あなたがたがそんなにも急に見捨てて、ほかの福音に移って行くのに驚いています。
*その方…キリスト・イエス
ほかの福音といっても、もう一つ別に福音があるのではありません。あなたがたをかき乱す者たちがいて、キリストの福音を変えてしまおうとしているだけです。
しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。
私たちが前に言ったように、今もう一度私は言います。もしだれかが、あなたがたの受けた福音に反することを、あなたがたに宣べ伝えているのなら、その者はのろわれるべきです。
*私たち…パウロたち『使徒たち』。彼らは全員一世紀のユダヤ人信者たちです。
マッテヤを含む十二使徒たちは、主にユダヤ人伝道のための使徒として、パウロは異邦人伝道のための使徒として召されました。キリストが彼らに新たに弟子となった人々を教えるように託したのです。私たちが立ち返るべき教えとは、使徒たちの教え=新約聖書の書簡の教えです。
福音書の中にあるキリストの教えは主に、まだ十字架前の律法(旧約)の時代のユダヤ人に対する教えですから、教会時代の異邦人信者である私たちには適用できない教えも含まれています。なぜなら、異邦人は律法の外に置かれていたからです。エペソ2:11~12
ピリピ1:18ーすると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。
パウロがこう述べたように、キリストを知るきっかけは何でも良いのですが、永遠のいのちに至る救いをもたらす『キリストの福音』は、パウロが宣べ伝えた福音と一致していなくてはなりません。
『十字架の死と復活』だけを伝えることも、『十字架の死と葬り』だけを伝えることも、『神の愛』だけや『万民救済論』を伝えることもすべてほかの福音となってしまいます。
私たちが聞いた福音が、聖書が伝える福音と一致しているのかどうか、
私たちが宣べ伝える福音が、パウロの宣べ伝えた福音と一致しているかどうか、
私たちが属する教会が受け入れる新しい神の家族が、同じ福音を信じているのか?
にせ教師の教えに盲従していないか、日曜日毎に聞くメッセージは聖書のみことばに基づいたものかどうか…ペレヤの信徒たちのような信仰の姿勢を持ちたいものです。
使徒17:11ーここのユダヤ人たちは、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
パウロが伝えた福音とは異なる福音を聞き、受け入れ、バプテスマを受け、自分はクリスチャンだと思っていては『信じたこと自体が、無駄になってしまう』のです。
『クリスチャン』を名乗るなら、どうか副読本ではなく、聖書のみことばで確認する信仰の姿勢を持ってください。そして、真の福音を信じ、永遠のいのちに至る御霊の内住を受けてください。心からそれを願います。
黙示録3:2ー目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行いが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。