サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

神は『やみ』を造られたのか?

神様は『やみ』を造られたのでしょうか?

先日のアンケートでは、28人の方がご協力くださいました。

・神は『やみ』を造られた…29%

・別な要因で入り込んだ…54%

・考えたことがない、わからない…17%

という結果でした。

 

聖書をよく読むと、イスラエルの神様がどのようなお方なのかがわかります。

みことばから『神はやみを造られたかどうか』の答えを導き出すことは可能だと思います。でも、このブログを読まれるお一人お一人が、記事の内容を鵜呑みにするのではなく、自ら聖書を開いて確認してくださいますように。

  

創世記1:1ー初めに、神が天と地を創造した。

 

聖書を開くとまず目にするのが、『神が創造主である』というこの聖句です。

本当に神が『天と地』をお造りになったのなら、創世記1:31のような『非常に良かった』世界であるはずです。 

創世記1:31ー神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。夕があり、朝があった。第六日。

 

十二弟子のひとりとして、神の御子イエス・キリストの三年半の公生涯をともに過ごした使徒ヨハネは 、次のように記しています。

ヨハネ1:5ー神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

 

使徒ヨハネ『神は光であった、神のうちには暗いところが少しもない』と記しています。そしてそれは、使徒たちが『キリストから聞いたこと』だと述べ、神の御子イエスの証言だと述べているのです。 

 

また、異邦人の使徒となったパウロ『神は光の中に住まわれ』と記しています。

1テモテ6:16ーただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です。誉れと、とこしえの主権は神のものです。

 

創世記1:3ー神は仰せられた。「光があれ。」すると光があった。

*光…神の栄光/シャカイナグローリー 

 

エスの弟であり、エルサレム教会の長老となったヤコブ『父なる神が光を造られた』こと、『移り行く影はない』ことを記しています。

ヤコブ 1:17ーすべての良い贈り物、また、すべての完全な賜物は上から来るのであって、光を造られた父から下るのです。父には移り変わりや、移り行く影はありません。

 

詩篇の作者も『神は光を衣のように着』ておられると記しています。

詩篇104:2ーあなたは光を衣のように着

天を、幕のように広げておられます。

 

これらの聖句からわかるのは、

①神は光である

②神は光の中に住まわれる

③父なる神が光を造られた

④神のうちには暗いところが少しもない

⑤移り行く影はない

ことです。

 

神は聖なる方ですから『罪』を表す『やみ』とは無縁です。

 

創世記1:2ー地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた。

 

なのに、なぜ創世記1:2で『やみ』があり、地は茫漠としてしまったのでしょう?

完全なお方である創造主なる神が『やみ』や『茫漠』の世界を造られたと考えることはできません。神は秩序あるお方ですから、茫漠のような無秩序な世界はお造りになりません。

 

あくまでも一つの『説』ですが、考えられることとして、創世記1:1と1:2との間に最高位の天使であるケルブ(複数形:ケルビム)の堕落が考えられます。

 

osusowake.hatenablog.com

 創世記1:1で造られた世界を最高位の天使ケルブの反逆によって汚された結果、ケルブは『サタン=神に敵対する者』となり、ケルブの支配下にあった鉱物でできた『エデンの園エゼキエル28:12~15』も、天も汚されてしまいました。

 

だから、復活直後のイエス様は、ご自分の血を携えて天の聖所をきよめる必要があったのです。

それがイエスがマリヤに「わたしにすがりついていけません」と言われた意味です。

ヨハネ20:17ーイエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。

 

osusowake.hatenablog.com

 

ですから、神は創世記1:3以降『再創造』されたと考えられます。

その時には、すでにサタンによって『やみ』が入り込んで来ていたので、神は聖であるご自分の栄光(シャカイナグローリー)の『光とやみとを区別された』と考えられるのです。

 

創世記1:4ー神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。

 

創世記1:5ー神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

 

ヨハネ8:12ーイエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」

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聖書で『やみ』は罪との関係の中で、また、罪の裁きにおいて語られています。

人が悪事を働く時は、みなが寝静まる夜の暗闇に紛れてすることが多いのもこのためでしょう。

 

イザヤ45:7ーわたしは光を造り出し、やみを創造し、

平和をつくり、わざわいを創造する。

わたしは、これらすべてを造る者。」

*やみを創造し…確かに『やみを創造し』とありますが、これは何を指しているのでしょう?創造の初めのことでしょうか?

いいえ!これは出エジプト前のイスラエルの民を、真の神を礼拝するために行かせないことに対する裁きの一つのことを指しているのです。

 

出エジプト記10:21~23モーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸べ、やみがエジプトの地の上に来て、やみにさわれるほどにせよ。」

モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真暗やみとなった。

三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。

 

神は『やみ』を作り、『やみ』を用いてエジプトを裁かれましたが、ご自分の選びの民イスラエルが住んでいるゴシェンの地には光があったと、イスラエル人とエジプト人を区別しておられます。

 

どうか、このブログを読まれたお一人お一人が、やみの中ではなく、真理の道を見出し、光の中を歩み続けることができますようにー祈ー