サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

いのちの重みの違い

「神は愛のお方なのだから、◯◯であるに違いない」

「自分が理想とすることが、神のご計画であるはずだ」


もし、私たちがこのように考え、聖書が何と言っているのかを知ろうとしなかったり、聖書のみことばから示されても同意せず自分の意見を押し通すとしたら、キリストに従順な信仰だと言えるでしょうか?

自分の考えを神より上にするのなら、それは『偶像』となり、蛇がエバを誘惑した時の「あなたがたが神のようになり…」と同じ誘惑に陥っていることになります。

創世記3:4~5ーそこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。

あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。

 

よく『反省』の意味で『悔い改め』という言葉を用いる方がおられますが、聖書的悔い改めとは『自分の考え方をみことばに合わせていくこと』を意味します。

そんなことを念頭に置きながら、今回は『いのちの重みに違いがあるのか』を聖書から考えてみたいと思います。

 

 先日、「動物の命と人間の命に違いはあるのか?そこを区別してしまう宗教は好きではない。人間だけが特別ではないと思う。」という意見をいただきました。

この方が本当に福音の三要素を信じる救われた信者なのか、まだ求道者なのかはわかりませんが、このような意見をお持ちだということは、仏教的な影響が残っているのではないかと思います。

 

『動物』とは『動く物』と書き、広く『すべてのいのちあるもの』を指します。

その動物の命と人のいのちの重みに区別が無いとするなら、蚊やゴキブリを殺すことも羊や牛も食すこともできなくなり、ノア一家箱舟から出る前までの食生活=ベジタリアンとして徹底する必要があるではないでしょうか?

 

実際、アダムとエバが罪を犯す前に住んでいたエデンの園での食生活は、100草食の時代でした。

創世記1:29~30ー神は仰せられた。「見よ。わたしは、全地の上にあって、種を持つすべての草と、種を持って実を結ぶすべての木をあなたがたに与える。それがあなたがたの食物となる。

また、地のすべての獣、空のすべての鳥、地をはうすべてのもので、いのちの息のあるもののために、食物として、すべてのみどりの草を与える。」そのようになった。

 

創世記2:16ー神であるは人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。

 

肉を食べるということは『動物の命を殺す』ことであり、アダムの罪以前は、『死ぬ』ということは不可能だったからです。

しかし、アダムとエバがエデンの園を追放されるときに着せられたのは、いちじくの葉ではなく『皮の衣』でしたから、皮を提供した動物がいることがわかります。

皮を剥がれた動物は、どうなったのでしょう?皮を剥がされた動物が生きていかれると思いますか?

 

聖書全体から考えると、アダムの罪ために一頭、エバの罪のために一頭の動物が犠牲になっていたことでしょう。その動物の犠牲があったからこそ、肉体の死までの猶予があり、子どもを生むことができたのではないでしょうか?


罪を犯した人間のために動物が犠牲となる『型』は、もうこの時からあるのですから、当然『動物のいのちより、人間のいのちの方が重い』と言えます。

 

創世記9:2野の獣、空の鳥、ーー地の上を動くすべてのものーーそれに海の魚、これらすべてはあなたがたを恐れておののこう。わたしはこれらをあなたがたにゆだねている。の動物を人に委ねられた。

人に動物の管理責任が託されたのは、肉食が許可されるためでした、動物たちの内に人に対する恐れが入れられ、人間による乱獲から、また動物の種族保護のために神が変更されました。人が近づく気配や臭いを嗅ぐと、動物が逃げるのはこのためです。

 

ノアの洪水後、動物を食することを許されたのは、神様ご自身です。

創世記9:3ー生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。


また、私たちが蚊やゴキブリ、その他 人に害を加える動物を駆除できるのは、罪が入ってからです。

創世記9:5わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。

 

シナイ山モーセに『十戒』が与えられモーセ契約が締結されてから、キリストが神の小羊として十字架で死なれるまでは『律法の時代』でした。


モーセ契約は『血の契約』であるため、違反者は死ななければなりませんでした。

出エジプト記24:8そこで、モーセはその血を取って、民に注ぎかけ、そして言った。「見よ。これは、これらすべてのことばに関して、があなたがたと結ばれる契約の血である。」


しかし、あわれみ深い神は、罪を犯した人の身代わりとして動物の犠牲を命じられました。

レビ記17:11なぜなら、肉のいのちは血の中にあるからである。わたしはあなたがたのいのちを祭壇の上で贖うために、これをあなたがたに与えた。いのちとして贖いをするのは血である。

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レビ記1〜7章には五つの違った捧げものがありますが、その中で四つまでが血を流す捧げものです。

全焼のいけにえー全部祭壇で焼かれ、神に対する全き献身を意味する捧げものです。cf アブラハムがイサクを捧げるように命じられたのも、全焼のいけにえでした。

*キリストの完全な献身において完成しました。

 

穀物の捧げ物五つの捧げ物の中で唯一、血を流さない捧げ物です。「贈り物」を意味し、神への捧げ物、労働の聖別を表わすものです。

*キリストが聖霊に満たされて、人々に仕える生涯を送られたことにおいて完成しました。

 

和解のいけにえー神と人との和解、平和、喜びを表わします。

*キリストの十字架による贖いを信じ、受け入れて新生した者の霊的回復により完成しました。

 

罪のためのいけにえー人が誤って罪を犯した時にささげるもの。罪を犯した人の社会的職務によって捧げる動物が異なります。

*罪人の身代わりとなって死なれた、キリストの十字架によって完成しました。

 

罪過のためのいけにえー他人に対して損害を与えた場合や、ある特別の罪を犯した場合にささげるもの。

*キリストの十字架によって完成しました。


しかし、動物の犠牲では覆いきれない罪がありました。それらの罪を犯した者は、本人が死ななければなりませんでした。

それらの罪とは、『神への冒涜罪、偶像崇拝罪、両親不敬罪、姦淫罪(未婚者による不品行も含む)、窃盗罪、占術罪、安息日違反罪、殺人罪偽証罪、偽預言罪など』。


人のいのちの重みより軽い動物の犠牲には、限界があったのです。

それに対し『神の小羊』としてのイエスの血は、人のいのちよりも重い神の御子のいのちなので、たった一度の犠牲で信じるすべての人々の罪の贖いとなられました。


もし、イエスが神の御子ではなく、私たちと同じ『ひとりの人』だったとしたら、あの十字架の身代わりの死はバラバ一人のためでしかありませんでした。


『動物<人間<神の御子』といういのちの重みに違いが無いとしたら、私たちの罪も贖われることはありませんでした。

このことが理解できなければ、キリストの十字架の重みも理解するのは難しいかもしれません。


どうか『クリスチャン』を名乗るすべての人が、十字架の意味、御子のいのちの重みを正しく認識できますように。