サザエのお裾分け

聖書を字義通り&文脈に沿って学び、理解したことの中からのお裾分け。内容は鵜呑みにせず、必ずご自分で聖書を開いて確認してくださいね。聖書理解の助けになれば幸いです。† 栄光在主 †

『いなくなった一匹の羊』と『失くした銀貨』の譬え 〜ルカ15:1~10〜

ルカの福音書には多くの譬え話があります。

15章には『いなくなった一匹の羊』『失くした銀貨』『放蕩息子』という三つの譬え話が記されています。

一般的に異邦人の教会で語られるのは、次のような意味だと思います。 

 

ルカ15:4~7いなくなった一匹の羊。たった1%であっても大切に思い、探し出してくださる。御子イエスの愛。 “ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない99人の正しい人(パリサイ人、律法学者)にまさる喜びが天にあるのです”

 

ルカ15:8~10なくした銀貨。10%の価値。聖霊の愛。見つけるまでの苦労8節。見つかった時の喜び9節。 “ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです”

 

ルカ15:11~25二人の息子の一人が放蕩息子。50%の価値。御父の愛。“死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだ”

 

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兄はユダヤ人、弟は異邦人という解釈は、ちょっと違います。兄弟である以上、同じ国籍、イスラエルの民です。

  

ユダヤ人たちが民族としてイエスのメシア性を拒否した『ベルゼブル論争』以降(ルカの福音書では、ルカ11:14~26)、人々には譬えでしか語られなくなりました。

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その意味を求めて来た弟子たちには、解き明かしをされています。「求めなさい。そうすれば与えられます。」マタイ6:7ーのみことばを思い出しますね。

 

今回は旧約聖書という土台に立って、この箇所を考えてみたいと思います。

 

 

『いなくなった一匹の羊』の譬え

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ルカ15:1ーさて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。

*取税人… 神の選びの民イスラエルユダヤ人たちでありながら、同胞から税を取り立て、ローマ政府に納める取税人たちは通行税などを水増しし、その差額で懐を肥やしていたため、イスラエルに対し不誠実だとみなされていました。ルカ19:1~9ーザアカイを参照

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*罪人たち
…律法学者やパリサイ人らが教える口伝律法を守れず、彼らからレッテルを貼られた人々。口伝律法によれば、取税人や遊女たちとの交際(売買や食事など)することは禁じれています。

一方、神から与えられた『モーセの律法』の613すべてを守り通した人間は、人として来られた主イエスだけであり、イエス様以外の人間はアダムから受け継いだ自己中心という『原罪』があります。

 

ローマ3:10~12ーそれは、次のように書いてあるとおりです。

「義人はいない。ひとりもいない。

悟りのある人はいない。神を求める人はいない。

すべての人が迷い出て、

みな、ともに無益な者となった。

善を行う人はいない。ひとりもいない。」

 

つまり、これらの譬え話の聴衆はみな、イスラエル人だということを念頭に置いて理解すべきです。

 

ルカ15:2ーすると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」

 

口伝律法を土台にしている律法学者やパリサイ人たちは、イエスが取税人や罪人たちに語ったり、食事をともにすることを快く思っていませんでした。

 

マタイ9:10~11ーイエスが家で食事の席に着いておられるとき、見よ、取税人や罪人が大ぜい来て、イエスやその弟子たちといっしょに食卓に着いていた。

すると、これを見たパリサイ人たちが、イエスの弟子たちに言った。「なぜ、あなたがたの先生は、取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか。」

 

ルカ15:3ーそこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。

 

このような背景の中で、イエスが話された最初の譬えが『いなくなった一匹の羊』『失くした銀貨』『放蕩息子』なのです。

 

ルカ15:4ー「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか。

 

*羊を百匹持っている人…メシアとして来られた神の御子イエス

ヨハネ10:11ーわたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。

 

*九十九匹を野原に残して…九十九匹の羊とは、律法学者やパリサイ人たちのこと。

神の義ではなく、自らの行いによる義や、神のみことばではなく、人間が決めた口伝律法という伝統を重んじる羊たちが残されたのは、神の守りである『囲いの中』ではなく、狼が出る『野原』でした。

 

*いなくなった一匹…律法学者やパリサイ人たちが教える口伝律法という枠から『いなくなった』のです。

それは、律法学者やパリサイ人たちのような自己義認ではなく、「自分は律法を守りきることのできない罪人である」と認める人のことです。

 

*探し歩かないでしょうか…羊飼いとして、いなくなった羊を探し歩くのは当然、の意。

 

ルカ15:5ー見つけたら、大喜びでその羊をかついで、

 

迷い出た者を見つかるまで探し、近づいてかついでくださるのは、いつも神様の方であり、羊はこのような羊飼いを信頼するのです。

 

ルカ15:6ー帰って来て、友だちや近所の人たちを呼び集め、『いなくなった羊を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。

 

真の羊飼いとの信頼関係に入った羊のことで、羊飼いは友人たちや近所の人たち(神の友となり、神との交わりに入った信者たち)と共に、新しい仲間が増えたことを喜び合います。

 

ルカ15:7ーあなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

 

*正しい人にまさる喜び…口伝律法に従い、罪人たちがきよめられることを願わず、彼らが悔い改めて救われるのではなく、滅びることを神は喜ばれると考えていた『正しい人=行いによる自己義認』にまさるとは、信仰による義を得た羊を喜ぶこと。

 

本来、613あるモーセの律法は、神の民イスラエルユダヤ人たち)をメシアに導く養育係としての役割を担っていました。

 

ガラテヤ3:24ーこうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためです。

 

神の民イスラエルの民族的回心が、キリストの御国『千年王国』到来の条件ですから、本来なら神の民イスラエル全体である『百匹の羊』がすべてイエスのメシア性を認めるべきでした。 

 

 

『失くした銀貨』の譬え

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ルカ15:8ーまた、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。

 

これらの譬え話を聞いている罪人の中には、遊女たちもいました。

『失くした銀貨』の譬え話の主人公は、イスラエルの男性社会の中にあって、遊女たちを意識した『女性』になっています。

 

*銀貨ギリシャの貨幣『1ドラクマ』のこと。労働者の一日分の賃金にあたるローマの貨幣『1デナリ』相当。

 

*銀貨十枚…結婚の際の『花嫁料』。万が一、離婚する際であっても花嫁側が所有権を主張できる額。十枚すべて揃って価値のあるものとなり、そのうちの一枚でも失うことは精神的ダメージが大きかったと考えられます。

 

*あかりをつけ…自然の外光より明るくし、よく見えるように。

 

このみことばを思い出しますね。

ヨハネ9:5ーわたしが世にいる間、わたしは世の光です。

 

*家を掃いて…床の溝などに入っているものを掻き出すため。

 

*見つけるまで念入りに捜す…決してあきらめない。失くした銀貨が家の中にあることはわかっていましたから。

家の中にある9枚の銀貨とは、神の家の中に生まれ育ったイスラエル人である律法学者、パリサイ人たちのこと。彼らはそのことに安住し、神の民としての自らの価値を理解していませんでした。その状態から『失われた銀貨』を捜すために、イエスは世の光として、イスラエルの民の中に誕生されました。自らをモーセの律法の下に置かれ、イスラエルの民に代わってモーセの律法をすべて守り、律法を終わらせてくださったのです。

 

ローマ10:4ーキリストが律法を終わらせられたので、信じる者はみな義と認められるのです。

 

ルカ15:9ー見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください』と言うでしょう。

 

*友だちや近所の女たち… 共に、信仰による神の義を得た者たちであり、花嫁料である十枚の銀貨すべて揃ったことを喜ぶ人々です。

 

旧約の義人(ユダヤ人)たちが花婿の友人たち、メシアを信じるユダヤ人と異邦人が『ひとりの新しい人』としてキリストの花嫁になることを考えると、失くした一枚の銀貨が見つかり、十枚揃って『花嫁料』となる意味の深さが理解できますね。

 

旧約時代最後の預言者であるバプテスマのヨハネは、次のように言っています。

ヨハネ3:29ー花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。

 

厳密には、キリストの福音(1コリント15:3~4ー十字架の死、葬り、三日目の復活)を信じ、御霊の内住のあるユダヤ人信者と異邦人信者とで『ひとりの新しい人/キリストの花嫁』は構成されます。

 

エペソ2:15~16ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、

また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。

 

ルカ15:10ーあなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

 

*あなたがたに言いますが…「罪人が悔い改めるより、罪人が死ぬことを神は喜ばれる」という口伝律法を重んじていた律法学者やパリサイ人たちを意識したことば。

もちろん聴衆である取税人や罪人たちに対しても語られています。

 

このことばを聞いた取税人や罪人たちにとっては、希望に満ちたものとなったでしょう。しかし、ルカ16:13まで続くイエスの譬え話を聞いたパリサイ人たちの反応は、彼らとは異なりました。

 

ルカ16:14ーさて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。

 

その彼らに対して、イエスははっきりと言われました。

ルカ16:15ーイエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。しかし神は、あなたがたの心をご存じです。人間の間であがめられる者は、神の前で憎まれ、きらわれます。」

 

私たちもキリストを福音を信じる信仰による義と認められた、神に喜ばれる神の民として信仰生活を送りたいですね✨